―心解く
大怪我の末、一命を取り留めたメルは、星の森の家で三日間眠り続けた。大量失血と縫合出来ない創傷のせいで、目を覚ました後も長い間ベッドから起き上がることは出来なかった。
塵の杖が砕けたときか、それとも血と共に零れ落ちたのかはわからない。魔力の大半は失われ、その分治癒力も落ちていたのである。
シリウスは森の中、一人で彼女の世話をし続けた。一度目を覚ましたときからメルは何度も涙を流した。時には無言で、時には憎しみを込めながら叫んで、泣いた。
それでもいくら悲しみ憎んでも、決して死のうとはしなかった。大丈夫だと約束したあの日から。僅かでも食べられるだけ食べ、身体を動かそうとし、治療を受けて長く眠り、日と風を求めて生きようとした。
シリウスは何も反論せず、ただ出来るだけのことをして助け、涙ごと抱きしめ続けた。
季節が春を終えようとする頃、ようやく歩けるようになったと同時にぐっと落ち着いたメルは口にする。
「春の町に帰りたい……」
唯一の生まれ故郷である。半島を分断する河の北に位置し、知らず、旅の果てに行き着いた思い出の町。
わかった、行こう。
未来を示す望みに、シリウスは迷わず頷いていた。
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「シーツ、タオル、食器類、ランプに桶、……薬はよくて、食べ物とか衣料品は出て右に曲がって中央通りにある店で買えて、裏のほうに公共浴場もあるし、あとすぐ必要なものはえーと……」
「ありがとうございます、こんなに用意までして下さって……後はメルと相談しながら揃えようと思います」
「うん、そうだな。困ったときは遠慮せずに言ってくれたらいいし。うちの診療所すぐそこだから」
「俺は冬の街で雇われてて、ここを離れることも多いと思うので、すごく助かります。そのときは申し訳ないですが、メルのことよろしくお願いします」
春の町を訪れると、メルの知己であった医者の青年に優遇され、数日でちょうどよい空き家を借りることが出来た。トウフウイヅキと名乗った彼はメルとの再会を喜び、簡単な事情を聞いただけで気軽にあらゆる世話をしてくれたのだ。
「もう会えないかと思ったから」と笑った顔が、随分心配してくれたのだとわかれば、シリウスの胸にも暖かい感情が宿る。
トウフウは改まって頭を下げられて、慌てたように視線を当人のほうへ逃がした。
「って、おい。カロン……お前の話してんのに、他人事みたいな態度してんなよ。相変わらず人の話を聞かないってーか……一応お前年上なんだから、少しはシリウスさんに協力して、もっとこう任せとけぐらいの……」
「……お人好しは相変わらず大変だよね。医者が倒れて笑われる前に、まず自分のこと心配したら」
まだ激しい運動をすることは出来ない。
負担がかからないように椅子に腰掛けて窓の外を眺めていたメルは、振り向きもせず言葉を返す。口調は相変わらずだが声に力が無い。
トウフウは口元を引きつらせてこめかみを掻いた。拭いがたい病の影は仕方がないにしても、トウフウが見る限り終始態度が冷たかった。春の丘で再会を果たしたときは笑みも見せたのだが、それ以降特にシリウスが側にいるときは機嫌が悪いように思われた。肝心の一番近くにいる人物だから困る。シリウスの方は気にしていないように彼女を大事にしているのだが、それが分かるだけに周囲としてはもどかしい。
恋人、なのだろうに。
「ほっとけ! そんで嘘でもちっとは誠意を示しとけ!」
「はいはい、ごめんね」
「この上なく軽い!」
「ああ、トウフウさん。俺なら大丈夫ですから。部屋も紹介していただけたし、もう特別急ぐこともないと思いますし」
シリウスは笑顔で二人のやりとりをとりなした。
「この後食事の買い物をしてこようと思うので、メルは休んでて……その後で、トウフウさんの所に挨拶に行く?」
聞かれ、メルは一瞬だけ振り向いたものの、すぐに目を逸らして微かに頷く。不服そうにしか見えない。釈然としないながらも、どうせ来るならと、トウフウは自宅を思い出してメルに伝えた。
「そうだ、あのさ……お前の使ってた部屋、まだ残ってんだけど」
行方不明になる前、かつてのカロンが研究していた部屋は未だに片付けられないまま。
返ってきたのは意外といい反応だった。曇りがちな目が、不意に澄んだ輝きを見せた。
「本当?」
「ああ」
「行っていい?」
「もちろんいいけど――」
「ありがと」
そして、短い会話の中で椅子から立ち上がる。
「いや別に……って今から?」
「メル、待って。疲れてない?」
シリウスの問いかけにも振り向かないまま首だけ横に振って、彼女は家を出て行く。トウフウは思わず金髪の青年を振り向くが、
「気にしないで下さい。よろしくお願いします」
「まあ、うーん、わかった……」
整った顔に苦笑を浮かべるだけで、怒ってはいなかった。悲しんでもいないように見えた。だからトウフウは頭を掻きながらも、メルを追うのだった。
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診療所の隣にある家の二階は、本当に当時のまま部屋を残してあった。
ベッド、箪笥、椅子だけだった場所にテーブルや棚、壺、いくつもの実験器具と植木鉢、ロープを貼って薬草を吊るし、瓶や石を並べて本を積み重ねた洞窟めいた空間。当初は何もなかった部屋は、住人が町に馴染むたびに複雑に様相を変えた。元の構造が思い出せないほど。いくらわざと呆れてみせても、不思議なことに夕暮れ、ランプの明かりの中で、そこはどこより心地の良い薄闇になったのだ。
「あのとき……楽しかったなぁ……」
部屋を目にした途端表情を和らげて、ものに一つ一つ触れて確かめていたメルは、呟いた。
同じようで、同じじゃない。トウフウも思い出していた。一年前は、性別すらはっきり知らなかった。思い出として語られる時間もなかった。それでもハレーがいて。薬草の匂いの中で、夕闇が見えなくなるまでくだらないことを話して笑った。過去を思い出すことも、未来を考えることもなかった。
背中に向かって、問いかける。
「今、は?」
「……苦しいよ」
苦しい。足元を見ながら少しだけ口元を緩めて、言い聞かせるようにもう一度、繰り返した。
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しばらくベッドに座って思い出に浸り、一階にいたハヤテに軽く挨拶をした後、メルは帰ると言った。診療所と二人の住居の場所が近いので三十分程度しか経っていない。
だったらシリウスの買い物を手伝うかと尋ねても、メルは曖昧な返事しかせず、とりあえず遠回りして中央通り付近を通りながら帰ることになる。トウフウはつい余計な口出しをした。
「俺が言うことじゃないかもだけど、あんまり心配かけんなよ」
「心配ねえ……そうなのかな」
「そんな態度ばっかだと、いつか愛想つかされるぞ……」
「……そうかもね」
そうかも? 淡々とした返事に何か不穏なものを感じて、トウフウはふと目を凝らす。鮮やかな金髪が、ちょうど正面遠くに見える。あれはシリウスだ。見間違いようが無い。若い女性たちと、楽しそうに談笑しているように見えた。
謀られたようなタイミングだった。いやもう絶対何かに謀られた。メルが踵を返すのを見て、トウフウは慌てた。
「ちょっ、……ちがうって、本気じゃなくて……! あの子達はいつもあんなんだよ! おしゃべりなのが売りっていうか――」
「別にいいよ。なんでも。最初から分かってる」
冷や汗は出るし、何が、と尋ねても答えない。カーブの先に、もうじき家が見えてくる。
「あの容姿ならそりゃ注目されるって。それはお前だって同じじゃんか」
「子どもならともかく、私がいつ赤の他人に囲まれて楽しくおしゃべりしたって?」
「それはお前に欠片も愛想がないからだろ……」
「愛想なんて」
早足で歩き、振り向かないまま、メルは消えそうな声で言った。
「……あの子がいいなら、私はそれでいいよ」
それでいいならそんな顔するな。
家に入る直前、トウフウが掛けた言葉は、風に掻き消されて行き場をなくした。
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翌日カサブランカ家から依頼があり、民間に被害を出す悪魔人形を止める緊急任務を引き受けた。今まで融通して貰った分、シリウスはすぐに準備をし、メルに事情を伝える。現場は近い。
「そんなにかからないと思う。三日で帰るから」
朝の静かな光の中、朝食の片づけをするメルは、無言で頷いた。
泣かなくなってからあまり声も出さない。他人は無理だがトウフウや、春の町のごく親しい人には喋れるから、ここに来て少しは安心したのだが。
狭い調理スペースに立つ背中に、シリウスは手を伸ばした。頼りない感触と共に、驚いて振り返った瞳が、表情が無防備で、衝動を堪える。捉えた痩せた手が強張るのを感じて、彼女が逃げる前に少し下にある白い髪に口付けた。そして手を離した。
「行ってきます」
――メルは返事をしなかった。
それを咎めることもなく出て行ったシリウスの後姿を見つめ、ドアが閉じてもしばらく立ち尽くしていた。やがて影を追うようにドアまで歩き、開けることは出来ずに床に座り込む。
背中に伝う固い木の感触。手と服に僅かな砂埃が付く。
時々全てがバラバラに見えた。膝に顔を埋める。傷が痛む。暗闇の中で手に力を込めて、感覚が麻痺するのを待っていた。
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久々の任務は自然と気が引き締まる。
魔術師の手を離れて暴走したという悪魔人形は、巨大な狼の姿で家畜を食い荒らしていた。知能の優れた部類ではなく、引き回して動きの鈍ったところを仕留めれば、シリウス一人でも問題なくこなせる。カサブランカ当主もそう踏んだのだろう。
にもかかわらず怪我をしてしまったのは、思わぬところに隠れていた子どもを庇ったからだった。最悪の事態は防げたものの、鋭い爪が左腕からわき腹辺りを浅く引き裂いた。シリウスは痛みを堪えながら悪魔人形に止めを刺して、思わずため息を吐く。
案外派手に飛び散った己の血を見ると、情けなかった。
「でもまあ、ちゃんと栄養とって感染に気を付ければ心配ないだろ。若いし、縫合も問題ない」
三日後、事後処理も終えて春の町に帰ったシリウスは、一旦トウフウの診療所で診察を受けた。予想通り大したことはないと言われ、安堵すると同時に苦笑する。
「気をつけても、完璧には出来ないものですね」
「死ぬのは洒落になんねえけど、痛い目見れば身に沁みる。なんでも次は前より上手くやれるよ」
「本当に、そうだといいと思います」
「化膿しないように、消毒と包帯を換えるのは……カロンがしてくれるのかな?」
かつて医術の腕を買って仕事を分け合ったこともある。技術的にできないはずはない。若干言い辛そうにトウフウは確認し、シリウスは正直に首を傾げた。
「そうなら、嬉しいんですけど、わかりませんね。そのときはまたお世話になるかもしれません」
「あいつ、ホント頑固だしな……うん、俺からも言ってやるよ。能力の持ち腐れすんなちょっとは俺の仕事を減らせって」
「あはは……」
トウフウの休憩時間を待ち、雑談をしながら二人でメルの家へと帰った。ドアを開けると数日なのに随分懐かしい空気に感じた。一続きの奥に、見慣れた人の姿がある。いくら関係が捩れても、心が緩むのは彼女の側だけだった。生きていてくれるだけでいい。振り返ると同時に、シリウスは穏やかに聞こえるよう声を掛けた。
「メル、ただいま」
「――――」
カーテンだったのかもしれない。縫いかけの布を手に持っていた。
視線はシリウスの方に定まっていて、初め、きょとんとしているように見えた。何か言いかけた唇は、空気を零した後きつく引き結ばれる。
その後だった。開花直後の白い花を思わせる美しい顔がくしゃりと歪み、驚く間もなく華奢な体が駆けた。布が床に落ち、仄かな甘い香りが思いがけず飛び込んできた。
「める?」
「っ……!」
触れたくて、何度も触れようとして、ためらって。胸に感じる体温を反射的に抱きしめて、シリウスはしばらく呆然とする。一体どうして……。
トウフウが明後日の方向を見ながら頬を掻き、そっと出て行ってから、メルがしがみついた腕に包帯が巻かれているのを見て、ようやく理解した。
なんだ、そうか――
ぽろぽろと頬を流れる涙が沁みこむ。後ろ手でドアを閉めながら、押し倒されるようにその場に座り込み、包み込むように抱きしめて、目を閉じた。
「心配掛けて、ごめん……怪我したけど、大丈夫。すぐ治るから……」
「……っ、う、……!」
「うん……ごめん。死なない。絶対、置いて行ったりしないって……」
離れられない。
本当に、誰にも見せたくないくらい――
顔を胸に押し付け、泣きじゃくる恋人を腕に閉じ込めて、シリウスは言えなかった言葉を伝え続けた。