Epilogue つぎはぎな魔法
気持ちよく晴れましたね先生、と明るく声を掛けられて、トウフウは、診察室の窓ガラス越しに青空を見上げていたことに気付いた。
「あー、そういえば。晴れてる……久しぶりだっけなぁ、こんな天気がいいの」
「そうですよ。とってもいいお洗濯日和です」
ちょうど午前の診察が終わった時刻で、なんだかぼーっとしていた。
取り繕いながら振り向けば、笑顔で受け答えするニシウミコノミの手には、シーツやタオルや包帯などたくさんの洗濯物が詰め込まれた籠がある。いつも診療所を手伝ってくれる近所の優しい女性に、トウフウは慌てて頭を下げた。
「って、あの、なんかそんなにやらせちゃって大変申し訳ないです……後は俺が」
言いかけたのを、コノミは首を横に振り、籠をしっかりと抱えなおす。華奢なのにてきぱきと働く姿は驚くほどだ。
「いいんです。ハヤテ君には勉強がんばって欲しいですし、先生はいつも忙しいんですから」
そう、だっけ。なんとなく耳に痛くて、トウフウは笑みを引きつらせた。
「う、ハヤテはともかく、俺はやろうと思えば……」
「じゃあ、わたしが手伝いたいっていうのが本音だって言ったら?」
「え?」
見るに見かねて、優しい性格だから義務のように感じているのではないかと、そう思ったのだが。
何気なく聞き返すと、真っ直ぐな長い黒髪を揺らして、コノミは少し声を詰まらせた。薄い青のワンピースがよく似合っている。僅かに、頬に赤みが差しているように見えた。
「トウフウ先生、……あの……」
意を決したように、小さな声で何か言いかけ、
「トウフウー薬くれ!」
「うるせえよ」
まあ、そうだと思った。
所詮真面目な話には縁がない。勝手に不法侵入してきた軽薄男、ハルサキナミキは何もかもを一掃し、人の休憩時間を無駄にしながらどうでもよさを辺りに撒き散らした。
遠慮という重大な二文字を知らないのだ。手に負えない。
「あっ、コノミちゃん、洗濯してあげてんの? ほんといつもごめんね~。トウフウなんかだらしない奴だからさ、俺がよく言い聞かせて」
「……先生はだらしなくなんて、ないと思いますけど」
「へ?」
相も変わらずぺらぺら喋りまくるナミキに、コノミは珍しくむっとした表情で呟き、軽く頭を下げて物干しのある外へ出て行った。水色のワンピース姿はすぐに見えなくなる。ナミキは三秒停止して、トウフウを振り返り、
「えっと、俺のせい?」
「じゃねえの」
「なんで!? そんなひどいこと言った覚えはないのに……!? コノミちゃんに嫌われたら俺生きて行けない!?」
「さあなあ。自分の行動を全て振り返ってみればいいよ。全て振り返ってみればいいよ」
「二回言った!」
「大事なことなので」
あーどうでもいい。
腐れ縁の軽薄男を冷たくあしらいながら、トウフウは仕方なく薬を調合する。こいつはとにかくうるさいのでいくら優しいコノミでも我慢ならないときくらいあるに決まっている。
初夏の日差しは曇りなく、レースカーテン越しに木の床を乾かしていた。春は過ぎ、もう薄いシャツ一枚でもいいくらいの気温だった。
ナミキがわざとらしくため息を吐いた。
「トウフウさぁ、きっとお前のせいだって。お前がいつまでもぼーっとしてるからだめなんだって」
「何を責任転嫁してるんだてめえは」
「ちーがうって、絶対それもあると思うわけ。自分で気付いてないの?」
「気付くも何も、俺はずっと前からこんなんだし」
「ちがうんだって。今はそれよりひどい」
「じゃあ疲れてるんだろ。休憩時間に来る奴とか、どうでもいいこと話しまくる奴のせいで」
「なー。まだ気にしてんの? カロンさんのこと」
皮肉を無視され、不意にその名を出されて、トウフウは一瞬手を止めてしまっていた。
散らばった草の香り。あの、雨の日。丁度初夏の、こんな気温の中で。あいつは急に姿を消して、そしてもう――
「もう、一年も経つってのにさ」
ナミキの台詞に、重なる過去の声。
〝……君みたいな人間に、なりたかったと思う。……なにがどうって、はっきりとは言えないけれど……〟
未だに分からないのだから、しょうがない。あのとき、どんなことを考えて言ったのかなんて、あいつ自身だって別に分かっていたわけではないのかもしれない。だけど印象的過ぎて忘れることなんてありえない。信じられなかった。嬉しかった。それくらい。
そのせいか時間の流れがわからなかった。
たった二年、一緒に過ごしただけだっていうのだろうか。
あんな出会いで、別れで、特別に綺麗で、同じくらい不器用で、非常識でマイペース。知識はあっても人との接し方を知らず、子どもだけは好きで、どこかでひどく怖がっていて、時々それを忘れたように笑ってくれる瞬間を探していた。
助けようとすれば、その分を精一杯返そうとしてくれた。
不意に取り乱し、一言の別れもないまま消えてしまった奴を、どうして気にせずにいられるだろう。
無理だろ、そんなの。
「まだってなんだよ。一年ってそんな長いのか? 誰かに言われたからって、何でも忘れられんのか? 俺が俺らしくないって、じゃあどうしてればいいんだよ。仕事だって真面目にやってるし、日常生活だってこれまで以上にまともにやってるつもりだよ。そりゃあコノミちゃんが手伝ってくれなかったらキツイかもしんねえけど、そうなったらそれでも俺は大丈夫なつもりだ」
一言のつもりが言葉が止まらなくなる。察したようにナミキは頭を掻いた。
「あ~、じゃなくてさ……ごめん。言い方間違えた。逆かも」
「逆? なにが」
「やめればいいじゃん。全部」
「はあ? 意味が」
「仕事とか、家事とか、他人の世話とか。放り出せば? そんでやりたいことやれば。つまりできてないんだよ。バカ正直で、誤魔化せないくせにさ。納得するまでそうしたって、別にお前はいいと思うけどな」
「お前はって、そりゃあ……」
ナミキらしい暴論だった。馬鹿馬鹿しくて、大人気ない上に現実的じゃない。毎日のように人は死んでいくのに、今仕事を放り出したら、それこそあいつに面と向かって会えないと思う。
トウフウは椅子に身体を沈ませて深呼吸をした。
ただ、ナミキの提案を想像してみたらちょっとだけすっきりしてもいた。
あいつがいなくなって、戻ってこなくて、もしかしたら生きてもいないかもしれない。それを考えると時々眠れなくて、不安定になった。それを誰かに愚痴ることもしなかった。忙しい仕事の合間をぬっては町を歩いて無意識に探していた。全部中途半端なのに、誰にも頼りたくなかった。
今でも部屋を片付けていない。それを見ると少しだけ落ち着くのは、無事な姿を想像できるからなのだろう。
「俺は大丈夫だよ。お前の言うことは楽しそうだけどな、すごく」
心配してくれてありがとうとは今更言えず、礼代わりに軽口を叩く。
じゃあ、とナミキは腕組みをして言った。
「今日だけならどう?」
「今日だけ?」
「好きなことを、好きなだけする」
身を乗り出したナミキに押され、トウフウは軽く息を呑んだ。それは非常に魅力的な誘惑だった。今日だけなら――
「って、いきなり休業とか、いくらなんでも……」
「そんなことぐちゃぐちゃ言ってるから! いつまでも調子がでないの! たぶん今日はいい日だ! 晴れてるし!」
「なんだその根拠……」
なんとなく追い詰められてトウフウが唸っていると、戸口のほうで音がした。
「イヅキ」
「ハヤテ。帰ってたのか」
背の高い黒髪の少年が部屋に入ってくる。助手で同居人のユキナリハヤテは、いつもの無愛想で買い物袋を床に置きながら、言った。
「いいよ。俺がやるから、イヅキは何もしなくていいよ」
そして数年来の衝撃を受けた。
「あー……ってえー!? 不要!? 俺もう必要無し!? 役立たず!? 解雇宣告!?」
そしたら心底呆れたため息が返ってきた。
「何言ってんだよ……ここはイヅキの診療所じゃん……。だから、ハルサキさんの言ったこと。聞こえたんだ。今日今からのことだよ。俺はイヅキみたいにはできないけど、知り合いの患者さんに出す薬くらいならわかる。心配するなとまでは言えないけど」
「なんで、お前まで」
「頑張りすぎなんだよ……イヅキは」
顔を背けたまま言ったハヤテの言葉が、なぜだか無性に懐かしかった。
何をしたらいいのかすらわからない人間に、考える時間をくれる。そんなもったいないことを、久々にしてみたくて、トウフウは頷いていた。
疲れてはいたが、じっとしていたくなかった。
昼食も取らずに町中を歩く。晴れた海沿いはいつになく明るく、目に眩しい。波の音や、潮風や、遠くの船、錆びた建物群が心を落ち着かせてくれる。
それでも身体の奥に少しだけ空いた隙間は埋まっていなかった。頭上を飛ぶ海鳥が鳴くたびに、そこへ響く。
「ばかやろう」
伸びをして、海から目を離して、普通の声で言い、歩き続けた。
漁師たちが暮らす浜辺、ざわめく船着場、交易品が並ぶ色鮮やかな通り、馴染みの酒場、町の大門、西に続く静かな石畳。すれ違う人々はのんびりと日常を謳歌している。数刻かけてたどり着いた格式ある住宅街にはライラックの花が涼しげに揺れていた。
今にも雨が降りそうだった日を思い出して、胸がざわめいた。我知らず早くなった足取りの先に、一軒だけ無人の廃屋が映る。晴れ渡った空や白と緑のコントラストは、何事からも干渉を受けない輝きで視界を満たしていた。
「なんで、追いつけなかったかな……」
思わず一人呟いた。
目を閉じれば、驚きで即座に動けなかった自分の姿が浮かぶ。無意識に追い詰めてしまったのだとしても、どうにかして事情を解せばあいつだって落ち着いたはずだ。それができなかったことを悔やんでも悔やみきれない。
澄んだ青空を見上げた。今は眩しすぎた。
生きていればいい。どこかで笑えているといい。一人じゃなければいい。
だが、やはり……
「?」
そのとき帰ろうと首を振って見やった道の向こうに、ちらりと人影を見た。目を凝らして、そのまましばらく動けずにいた。深い茶色のローブが、一瞬目に映って土の道の向こう側に消える。茶色。あの、薫り立つような色が似ていた。記憶に焼きついた、間近で見た双眸に。
「っ……おーいっ!」
――やはり、もう一度会いたい。文句の一つや二つ言ってやらなければ気がすまない。
そんな願望が幻を見せたのではないかと、トウフウは大声で呼んだ。
聞こえるはずがないと分かっていながら、何も考えずに呼びながら走った。
あの日追いつけなかった道の先。
雨が落ちて銀色に染まった視界の先。
広い、町を臨める野原の原風景まで息を切らして走った。
やけに長く感じた距離の先に、捜し求めていた景色を見つける。
晴れた空に映える白い髪。
金髪の青年に支えられるように立つ後姿。
見間違えたりしない。あいつは、立ち止まって、海のほうを見ていた。
膝を押さえて息を整える間に胸が一杯になり、思いの丈をぶつけるようにして呼んだ。
「カロンっ!」
――生きている。
初夏の潮風の中で、今、振り向こうとしている。
目元を拭った。
返事を待たずに、トウフウは、原野の中へ駆け出していた。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました……! これで本編を終了したいと思います。
この後もう少し後日談を書いて完結しようと思いますので、ついでに読んでいただけると非常に嬉しいですm( )m
書くにあたっては、時間の流れに挑戦したかったのと、メルという主人公を書いてみたかったということがあります。
書き辛いことこの上ありませんでした……(そしてそんな偏屈な主人公が好きです)
これはもう読者様のおかげで最後まで書けたと思います。
長い話にお付き合いくださり、本当にありがとうございました……!