春待つ海の音<2>
――私はこんなところにいたのか。
己の魔術師の象徴が砕け散ったとき、壊れてしまったものが見えた。微細な塵が虚構を取り払い、靄が晴れて彼方まで透明になるように。
復讐に身を投じることで、目を逸らしていた。怒りを剥ぎ取るようにして崩れた。
それがなんなのかと問われても他者に伝えることはできない。目の前にある世界は本当は何も変わっていないのかもしれない。
だが違う。
こんなにも、違う。
白い闇の果て。
全ての思いが風化して残ったものは、どうすることもできない虚無感だった。
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いつの頃からか、あの人の事を考えられるようになっていた。
ほんの最近のことだ。喪失は喪失のまま埋まらず、二度とそんな日は来ないと思っていた。考えてもわかることなど何もなく、眠りに落ちる前の寝台の中で顔や仕草を思い出す。
星の森に来てからの姿だけだった。ヨハネスに敗れ、大量の魔力を失って長い間窓辺に座っていたあの人の姿だった。
斜光の照らす梢を静かに見つめていた、決して振り向くことはない横顔。姿形が変わったわけでもないのに、老いて小さくなったような彼女の傍に食事を運びながら、私は何かを言いかける。夢の中ですら言えるわけもない、たった一言を。
『お母さん』
もし私が、生前の彼女にそう言ったとしたら、殺されていただろう。たとえ確かにあの人が、事実上メル・カロンをつくり出したのだとしても。
今になって思い出すのは、それが後悔だからに違いない。
言えばよかった。もう、未来など見えなかったのだから、言えばよかったのだ。そうすれば、どんなに小さな可能性でもあの人は生きていけたかもしれない。生きていればいつか、何か知ることができたかもしれない。
馬鹿だ。
「う、ぐ……」
ぐらつき、森の中で一度足を止めて、重くなったローブを脱ぎ捨てた。手が震えている。白のドレスが変色して冷たく、随分自分の体が空虚になった気がした。呼吸がどこかおかしい。もう限界がきている。足を引きずって歩いた。平衡感覚が危うかった。やっと追いつけた、あの人の側で骸になることが最後の望みだった。
星の森。
深い、さらさらと流れるような薄墨。
風と緑と生き物の呼吸。
どこかで夜行動物が鳴く。
変わらぬ、穏やかな夜が一面に続いていた。いや、そうではない。春を告げる苔が、あちらこちらで発光している。銀色の小さな光が空を映す鏡のように人知れず輝く。まるで星が降ったみたいだと、思った。楽しみにしていた。もうすぐだと、嬉しそうに言っていた。胸が痛んだ。痛くて、これ以上一体何が痛んでいるのかわからなくて、笑ってしまいそうになる。なのに笑えない。苦しいから。見せてあげたかった。幻のように、澄んだ音が聞こえた。空から落ちた光の中に、背の低い樹が佇んでいる。あの人の側に植えた樹は、確かに枯れずに枝を伸ばしていた。
「……しあわせの、音……」
それがあまりに儚いことを、恨んだところで、恨みきれるはずもないのに。
「だって……ねえ……?」
知りたかった。
だから生きたかった。絶望だけにまみれて死ぬなら、生まれたくはなかった。悔しかった。意地だけでしがみついて、手に入らないものだけを求め、やがて生きていくことが許されないような気がして、罪を背負うことでただ生きていようとして、そうしたら後悔に押しつぶされて苦しくて身動きも取れなくなって、どうしてそうまでして生きているのだろうと思うまで麻痺して。
求め、求め、求め、求め続け、殺して逃げて誤魔化して耳を塞いだあげく、ハレーを失って、やっと気付く。
何かを大事に出来ないのなら、意味がない。
裏切られてもいい。家族を、恋人を、リクレアを、あの人を、ちっぽけでも、たった一人でも、誰かを、何かを信じて、守って、大事だと思いたかっただけだった。
ずっと気付かないまま。
ハレーを失った。失って、辛くて、後悔して、でも、絶望はしなかった。その意味を、そんな大事なことを、今まで深く考えることができなかった。
もう遅い。
目を閉じても胸の痛みは消えない。ごめんと、失った相棒に謝り、その悲しみの中で眠ることを心を覆い尽くした虚無は受け入れる。
闇――もっと深いところへ。
沈んで落ちて。
消える。
そして、
白濁していく意識の中で、名前を呼ばれた。
ハレーかと思ったが、違うような気もした。
光のイメージが脳裏を掠めた。
金色の光だった。
「……て……起きて……! 目を開けて、死ぬなんて、そんなの……!」
メル。生きて。生きろ――――
感覚。身体に触れた感触に、痛みが加わって、意識が呼び戻された。ぼやけた景色の中で、子どもの姿を確認する。必死に血止めをしている。しかし、もう子どもではないことを知っている。
そうして、唇を強く噛み涙を堪えながら、言葉を詰まらせながら、必死に繋ぎとめようとする青年の姿を見つめていた。謝罪したくても声が出なかった。
だって、ずっとわからなかった。
なぜ、君は、側にいてくれたのだろう。
一度だ。たった一度、この森で助けただけの私を、何度も見つけ出して私にした。
どれだけ傷つけても、決して憎まず。
私は光のような君に確かに恋をして。
何にも換えられない大切な時間をくれた。
なのにいつも、私は、
「行くな……そんなの、嫌だ……メル、俺を置いて行くなってっ……!」
〝……行かないで……〟
私が、君を、置いていくんだ。
いつも。
行かないでと。置いていかないでと、壊れるほど、あれほど願った私が。
「頼む、から、――」
肌の上に零れた涙。
幸せを願った星の樹。
澄んだ音が耳の奥で揺れ、薄い闇に儚く力強い光が海のように広がる。その全てが急に感性を傷つけ、意味を成してゆく。
ああ。なんて綺麗なんだろう…
胸のうちに呟けば、そうだろ? と、脳裏に無邪気な声が響く。
やがて喉の奥がぐっと閉まった。目の奥が熱を持ち、唇を噛んでも、閉じた瞼から堪え切れなかった雫が零れ落ちて頬を濡らした。こんな綺麗な景色を今見ているなんて、あまりにも辛い。生きて、そう思ってしまうことが。それでも消えたはずの意志が、ほんの少しでも、唇を持ち上げようとした。
なぜならこれはもう私の物語じゃない。
シリウス。
理不尽に置いていかれる悲しみを、君はまだ知らない。
そんなものを、これから一生知らなくて生きていくことが出来るだろうか。
この世界で君だけは、絶望を知らずに生きていけるというのなら――
「……、……」
〝わかった。大丈夫〟
「メル……!」
嘘を貫いてみせよう。
誰にもわからない。
生涯暴かれることのない、君だけのための、最後の嘘を。