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春待つ海の音<1>

 

 無名の貴石が崩れゆく様は、時の流れを緩やかに変える。

 幾千の欠片を組み合わせて創られた塵の杖は、負荷に耐え切れず破壊され、白の魔女の手の中で塵へと戻った。

 同時に周囲に満たされていた魔力が維持できずに失せ、異様な圧力と呪縛を解き放つ。

 斜陽の弱い夕暮れ。

 誰もがすぐには動けなかった。瓦礫を残して町は嘘のような静けさを取り戻していた。


「なんとか、なったんだ……」

「全く、聖教のつまらん賊徒のおかげで……」


 少し離れたところに避難していたアンクとミザミが大きく息をつく気配がした。

 近くに見えたのは彼らだけだった。

 殺されかけたあの二人は、今頃ノヴァが医者に診せているのだろう。密猟と災厄を呼んだ罪の処分はカサブランカ家当主が厳しく下すに違いない。

 シリウスは肩でしていた呼吸を整え、右手に持ったままだった長剣を地面に置いた。メルの一部でもあっただろう杖を壊した感触が、まだ手に残っていた。

 終わったのだ。ただ夢中だっただけでどこか現実味がなかった。魔女としての誇りと共に壊れたものが、他にもあったとするなら、それはなんなのか。知ろうとして顔を上げた。


「あの人と、同じ……」


 呟き、所在無く立ち尽くすメルの顔から、綺麗に抜け落ちた怒りの感情。

 代わりに、日暮れの光が諦念の相を浮かび上がらせた。右手が左腕を掴む。少しだけ、唇が微笑んだようにも見えた。


「私が、死ねばよかったのに」


 肩まで伸びた白の髪が風に靡いて、声は灰臙の雲覆う空に混ざった。そう思ったのは迫る夜の気配のせいだったのか。


 空気が冷たかった。いつしか、建物の影と遠くの稜線が彼女の姿を隠してしまいそうで、シリウスは衝動的に両手を伸ばして細い身体を掻き抱いた。

 耐えられなかった。そんなわけがなかった。堪えていた涙が滲んだ。柔らかかった。温かかった。生きていた。ここにいる。確かに生きているのに。

 

「そんなわけ、ないだろう……!」

「違う……ほんとに、意味、なかったから……」

「なくたって、生きていれば、それだけで、」

「無理だよ……だって、もうなにも、意志が……どこにも、ないんだ……それくらい、大事だった」

「今だけだろ……! 今日の内に、何もかも決めてしまうなんて、そんなのは」

「もう……いいんだ……」


 今だけだ。今日や明日や、それでも駄目なら季節を廻って、取り戻せるはずだった。どれだけ大事なものを無くしてしまっても、途切れて終わってしまうものだとは、思えなかった。後悔することがあっても、取り返せなくても、別のものをどうにか継ぎ足して繋いでいって、そうして。

 そうじゃなかったら、どうして何かを信じられるだろうか――

 否定し続ける思いの中、無情に、殺して、と囁いた柔らかな声。

 シリウスに出来たのは、ただ首を横に振って、確かな存在を抱きしめ続ける事だけだった。愛しい人の願いで何かが引き裂かれそうだった。必死で押し留めていた。触れていても零れてしまうものが信じられなかった。


「魔女め……!」


 その内に、耳に飛び込んだ絶叫は、ずいぶん遠く聞こえた。それよりはメルの呼吸と、シリウスの身体を突き放す手だけが全ての感触だった。

 から足を踏んだほんの数秒の間。

 鮮明なのに遠かった。

 建物の影に潜んでいた若い男の信者が飛び出してきて、短刀を振りかざし、メルに体当たりするようにぶつかる。短い呻き声を吐いて、メルは顔を歪め、軽く身震いした。二人が少し離れると、そこからぬるりと液体が地面に散った。


「え?」


 頼むまでも無かったね。

 かろうじて聞こえた声が、少し掠れていて、穏やかだった。茶色の質のいいローブは、脇腹から溢れ出した液体で黒く染まる。呼吸をするのも忘れて見つめていた。引き抜かれた短剣は濡れていた。色。赤い、

 血。

 頭の中が真っ白になって、自分が何をしているのかわからなくなった。気付けば信者を地面に引き倒して、獣のように声を上げていた。殴れなかったのは単純に、ミザミやアンクに押さえられたからに過ぎなかった。もがいた。叫ぶ。塗りつぶされる。音が濁る。手が届く場所にいた。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ、こんな風にしか――


「……やっと……」


 刺され、濡れた腹を押さえもせず、彼女は空を見上げる。一度咳き込んだ後、何か呟いた。

 呼ばれたのだろう、一羽の怪鳥が舞い降りてくるのが非現実的だった。メルは足を引きずりながら、倒れるように鳥の背に身を横たえた。歩いた場所に血の筋が出来ていた。待て、と叫ぶミザミの声も、自分自身が伸ばした手さえ現実感が無かった。

 巨大な鳥が彼女を乗せて飛び立つところを確かに見ただろうか。

 よくわからなかった。

 まだ抱いた感触が残っていた。それだけが、この世界で唯一の真実だという気がした。

 閉じた瞼から熱いものが零れ落ちる。

 腕を引かれて顔を容赦なく打たれ、シリウスは辛うじて目を開いた。


「魔女があれくらいですぐに死ぬものか……! ここまでやっておいて、お前は」


 空が見える。ミザミが感情をあらわにして怒鳴っている。


「シリウス。ここが終わり? 後悔しないって? メルさんを一人で死なせて、それでいいって?」


 アンクが肩を掴んで射るような目で言う。靄のかかった思考に突き刺さる。二人の声を聞きながら咳き込み、シリウスは右手で目元を拭った。


「一人には、できない……」

「だったら追えばいい」

「わかってる――」


 ミザミが命令を飛ばして馬を引っ張ってくる。かろうじて礼を言って飛び乗ってから、夜の闇から逃れるように駆けさせた。あの人が戻る場所は、ワンズとハレーが眠る星の森しかない。もう何も言える言葉は無く、言う必要も無いような気がした。

 長いようにも短いようにもあった。

 馬を乗り潰して辿り着いた森の家に、明かりは灯らない。

 絶望を押し殺して開いた家の扉の先に、どの部屋にもその姿は無く、シリウスは大部屋に立ち尽くした。


「メル、」


 無意識に名前が零れた。何度も呼んだ。

 届かなかったのか――塗りつぶされていく意識の中で、遠くないはずの記憶が目の前に重なった。静かな朝だった。一緒に、何を話すでもなく、向かい合って朝食を食べていた。何気なく顔を上げると不意に嬉しそうな微笑と目が合って、思わず見つめ返した。なんでもないと、すぐに逸らされた視線の先に、まどろむハレーの姿があった。シリウスは騒ぐ心臓を誤魔化そうとして、急いで食事を口に運んだ。

 聞いておけばよかった。

 あの時、あの人は思ったのだろうか。

 少しでもいい、俺と同じように、幸せだと、思っただろうか。

 幸せ。


「しあわせ……?」


 ふと、その褪せた単語に遠い記憶の中の何かが引っかかる。何もかもがくだらないと思いながらも、無視できない何かがある。無意識に呼び出した光景は、初めてこの家を訪れた日のものだった。森の中を歩いた。メルが指定した薬草を探して。


『見て! すごいですよ、こんなところに――』

『うわあ……! ほんとだ!』


 ディアナの弾んだ声に、同調した歓声。シリウスも少しの間その樹の根元で目を閉じて耳をすませていた。遠い星の瞬くような微かな音色を聞いた。そうだ、あれは、


「星の、樹」


 思い出すと同時に、家を飛び出した。星の樹は、星の形をした葉を持ち、風に揺れると美しい音がする貴重な樹。そして幸せを呼ぶという言い伝えがある。


 なぜ、あんな場所に生えていたのか。なぜあのとき、守るように森の魔物が現れたのか。そして他の魔女たちが探しに来たという、この森で死んだ智の魔女の骨――


 暗い夜の森を駆け抜けながら、シリウスは顔を歪めた。辺りは月も星も無いのに、所々に光るものが見えた。淡い、白銀の光が地や木に宿っている。空の光に驚くほど似ていた。奥へ進むほどそれは数と輝きを増すように見えた。

 ハレーが楽しみにしていた春待苔の幻夜。


 会わせてくれ。

 辺りを包む光の海に、消えかけた心を、託した。
















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