罪と幻の間<4>
殺人を止めるための方法は、強力な魔力媒体である塵の杖を奪った上で、聖人であるシリウスがメルの至近距離で魔力を打ち消すこと。
理屈では簡単でも、今までに相手にしてきた魔術師たちが何だったのかと思うほど、次々と打ち出される魔術には隙がない。合わない視線を捉えようとしても、メルの目線はどこか足元を彷徨うだけだ。気を抜くと立っていることすらできない。細い蔦が足に絡みつき、締め付けようとする。地面が揺れる。時間が命を削る。無残な光景に景色が歪んで、頭が痛んだ。
――消せ。
頭痛の正体である渦巻く本能は好き勝手に叫び、散漫だった。
消せ。消してしまえ。鬱陶しい不自然なものは全て。取り払って、切り捨てて。許すな、決して、決して決して決して……
気体のように揺れて定まらない。響いて渦巻く頭痛に抗ううち、不意に祖父であったらしい聖人ヨハネスのことが思い浮かんだ。直接会うことはなかったが、最後の聖人とまで呼ばれ、智の魔女ワンズを破った彼は、こんな散漫な本能を抱いていたのだろうかと。
「そうか――」
瓦礫の影で何度か深呼吸をするうちに、散漫なのだ、と己の思考から何か掴めたものがあった。
遺伝が正統なものなら、自分にはメルを止められるくらいの力があるかもしれない。それが未だに発揮できないのは、力の方向が好き勝手に動いて定まらないからではないか。
定まったからといって、何をしていいのかはわからない事には変わりないが、気付いてしまえば違和感は膨らんだ。少なくともどこに、何に自分は目標を置きたいのか。消すこと? 切り捨てること? 許さないこと? 違う。消したくもない。取り払うわけじゃない。許さないなんて、一体何の話だ。
一つずつ不本意な声を抑えていくのは、耐え難い苦痛だった。まるで意味のない滑稽な自己否定に思えて仕方がなかった。
その思いまで振り切った時に、単純なまでに消せない願いに行き着く。
〝どうか捨てないでほしい〟
俺じゃなくてもいい。今までの生き方を、ただ一人の記憶を、偶然出会い得た友や、その中で大事にしてきたものを。
簡単なはずなのに、見失い、感触も意識もないまま失って初めて気付く。
ハレーを亡くして心に大きな傷がついても、今まで築いてきたものが救いになる。だから、捨てるな。
一人じゃない。俺だって、皆だって、メルのためにここにいるじゃないか。
「そんなことしたって、意味ないって!」
足元の植物を切りつけて無力化させ、瓦礫から飛び出して距離を詰めた。メルは何の表情も浮かべず、ようやくぽつりと言葉を呟いた。
「……イミなんて、もうどこにもないよ」
孤独で、冷えて乾いた声だった。塵の杖が地面を叩き、視界を紅蓮の炎が焼いた。シリウスは迷うことなくその中に飛び込んだ。頭痛として響いていた高慢な本能は、強固な意志を介して身の外へ流れた。赤く凶悪な炎がシリウスの力に打ち消されて掻き消えた。あと、数歩。メルは素早く後退して残り少ない木の根を割り込ませる。精神魔術には止まらざるを得ない――
そのとき急に魔女は顔を上げた。驚きと憎悪が瞳に閃いたのが見えた。慎重に振り返ると、カサブランカ家の魔術師ノヴァが、隙を突いて悪魔人形と共にぐったりとした二人の信者を解放したところだった。シリウスが壁になるこの機を狙っていたのだろう。束の間、全ての攻撃が止まった。
「なんで……?」
メルの小さな声がくぐもって聞こえた。凍りついた視線はシリウスの背後を抜ける。
――あんなに、なんでもないみたいに、殺されたのに。どうして、人間だったら許される?
「許されるわけじゃない! でも、それでも、メルが殺すのは」
「うるさい――」
皮膚が痛みを訴え、周囲がまた抉られた。
シリウスは引かなかった。
引かないでいられるほど、心は定まっていた。怒りで青ざめたメルの元へ歩を進める。その唇が呪文を唱え、
「シリウス、右危ないよっ」
空からアンクの怒声がして、シリウスは脇へ転がった。同時に近距離で破砕音がして、土ぼこりを舞い上げた。襲い掛かってきたのは、信じがたいことに教会の残骸に見えた。
「うわ……生で見た、無生物に対する精神魔術……」アンクがあっけに取られたように言って、つい最近森で見た光景が重なり、無生物を操る秘術なのだろうと理解する。実在する魔術師の何者も真似できない。
そんな彼女だからこそ確信する。
「メル」
俯いて、灰色の空の下に立ち尽くす魔女は、顔を歪めていた。塵の杖を握る手は、しがみつくように力が入り薄く血が滲んでいる。わかっていた。メルには、できない。
「大丈夫だから」
最初から殺せない。自分も、アンクも、当主も、ノヴァも。
本気になれば難しくない。今もその精神魔術でシリウスを殺せただろう。だが、そんなことはできなかった。
シリウスは立ち上がり、歩き出す。メルは拒絶の意思で首を横に振った。五歩の距離で無視して手を伸ばすと、腕を上げて杖を突きつけた。
「どうしても、死にたいの」
「死にたくなんかないです」
「……なら、どけばいい」
「どきません」
「じゃあ、もう、……しょうがないね……」
言葉の終わりに、杖先が変形し、奇妙に歪曲して、シリウスに襲い掛かっていた。咄嗟にナイフで受け止めるとそれは死神の鎌のように刃先を抉り取る。そうかと思えば槍のように伸び、次には刀剣の切れ味を持った。原型は塵の杖なのだろう、それを精神魔術で生き物のような武器にしている。
斬撃、刺突、横裂、打撃。
力と反射神経では勝っても、魔女の圧倒的な手数はそれらを凌駕した。今までは対自然魔術を考慮し、身軽さを重視して小刀を装備してきたのが完全に不利。ここで引けば、メルは今度こそ二人を殺すだろう。
苦しい呼吸の中、せめて何かないのかと辺りに目を向けたとき、
「使え! さっさと蹴りをつけろ!」
「当主――」
見かねたようにミザミが己の長剣を投げ渡してきた。感謝と共に受け止め、体勢を整えて前を見据える。正面でメルが細く鋭い死神の鎌を振りかぶる。
シリウスは振り下ろされる動きを見極め、全ての感情を込めて長剣を振りぬいた。
捨ててほしくない。ここで終わらせたくない。
傍にいて。俺に出来ることならなんだってやってみせるから――
一瞬だけ止まったような時間の中で、強く祈った。
そして刃物同士がぶつかる衝撃が腕に伝わり、粉々に砕けた欠片が宙を舞った。