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罪と幻の間<3>

 

 塵の杖が地面に触れ、太い街路樹が薙ぎ倒されて地にひびを入れる。近いはずの距離が埃と黒煙に遮られた。その間に木の根が増殖してのたうち、轟音と共に辺りの地面を引き裂く。馬が鋭い鳴き声を上げ、シリウスに襲い掛かった。


「こんな――」


 突然暴れだした馬の前足を避けた瞬間木の根がシリウスの足を払っていた。視界が回転し、なすすべもなく地面に倒され、全身を絡め取られそうになる。呼吸を奪う鈍痛に焦って振り回したナイフが、樹皮に跳ね返されて手から離れた。視界がざらついてあっけなく現実感が遠のいた。

 指先にさえ、力が入らなかった。目の奥が熱くなり、重大なものを手放してしまったような虚無感が、身体を支配した。

 ああ――空が見えない。

 遅かったのか。

 俺はまだ、ここで、生きていたいのか? 


 目まぐるしい展開に動悸だけが自覚され、呆然と目を見開き、


「何をしている、愚か者」


 引き戻したのは鋭い叱咤と、降ってきた小瓶だった。細い瓶はシリウスを締め付けようとする枝に落ちて割れる。


「!」


 頭を殴られるより、遥かに衝撃的だった。目が痛くなる強烈な異臭がして辺りの根が文字通り溶けた。誤って呼吸をしてしまい気管が焼けたかと思う。本当に、ありえない。

 おかげで拘束は緩んだが、一歩間違えば身体まで溶けていた。こんな酷い凶器をつくれる人物は一人しか思い当たらない。

 すなわち、カサブランカ家に住み着く劣悪の魔女だ。


「熱っ……うぐっ、げほっ……! 急に、そんなもの」

「それでも聖人の末裔か。せめて一人で立ってから物を言え」


 不愉快そうな声を聞きながら、シリウスは植物を払いのけ、無理矢理身を起こしてナイフを拾った。

もう眩暈はしなかった。馬上から正装の貴族が降りてくる。

 東国の陰を持つ風貌、冬の街を統制するシリウスの現在の雇い主、ミザミ・カサブランカだった。


「助かりました、一応……」

 

 粗雑すぎる助けに吐き気を催しながら、呟く。声が少し掠れたのはわざとではないのだが、カサブランカ家当主は一蹴した。


「つまらん挨拶はいい。しかしやってくれるな、あの魔女は。何が目的だ? 教会が標的のようだが、信者の皆殺しか」

「全員じゃありません。二人……今日、星の森でハレーを殺した奴があの教会にいて、メルはそいつらを追って」

「ハレー……なるほどな。あれか。楽には死ねそうにない」


 つられて視線を向けると、アンクが消し止めたのか、炎は止んでいた。いつの間にか上空に鳥が集まり狂ったように飛んでいる。

 煙が風に四散して目の前が開けると、木々や亀裂の障害の向こうに人影が浮き、シリウスははっとした。見覚えのある信者がまだ生きていた。理性が生きていることを後悔し、本能が何とか生きたいと抵抗する瀬戸際が存在するとしたら、どれほどの苦痛だろうと、試すように。「いぃ、やめ、ひぐ」植物が身体に絡みついている。間断なく絶叫が聞こえた。


「うるさい」


 焼かれた教会を背景にメルの声はむしろ優しかった。神に対する魔が、まるで何をしても無意味だと、そっと教えているようだった。

 冷えた風に乗って悲痛な泣き声が聞こえる。

 町全体が痛みに呻いている。


「あの二人が死ねば収まるなら、私はそれでも構わんがな」と、ミザミの言葉は冷然としたものだった。「手が回る以上に町を破壊されると手間だ」


 今までの記憶と未来が交錯して、沈むイメージに心が砕けそうになる。


 森で出会った救い、ハレーの裏表ない声、繰り返した別れ、雪の中で手を伸ばしたあの日。例えば取り戻せるものと、本当に失えないものはなんなのか。先ほどの恐怖を思い出して震えが走った。絶望に支配されて生きていることを、やめそうになった。考えてもここには「今」しかない。まだ間に合うなら――迷っている場合か。

 約束したのだから。


“勝手に置いていったりしない。絶対”


「あなたがどうでも、俺はメルを止めます。得体の知れない俺たちの話を聞いて、今まで雇ってくれた当主に逆らうつもりはありません。本心から感謝しています。それでも、傍観していろと言われれば、どうしてもその命令は聞けない。だから俺はここで死んだものとしてください。勝手を言ってすみません」


 ミザミの元で働こうと決めた意志は、決して軽いものではなかった。そうではあっても、メルを助けられないのならここで解雇してほしい。

 宣言し、シリウスは全て切り捨てて一人で進もうとした。

 だがすばやく、「おい。ふざけるな」と、剣のある声が歩みを遮った。


「なにが――」

「本当に、勝手としか言いようがないな」


 カサブランカ家当主は憮然として言った。


「誰が解雇すると言った? そもそも傍観していろなどと命令した覚えもない」


 予想外の言葉に戸惑う。


「それでも構わんとは言ったがな、それでいいとは言っていない。可能ならこれ以上被害が広がらないに越したことはない。……それに、メル・カロンには、それなりの借りがある」

「……つまり」

「大体、何のためにわざわざここまで足を運んだと思っている。のんきに処刑を見学しにくるほど、お前は私が暇に見えるのか」

 

 ミザミは間髪いれず、軽く顎をしゃくって続けた。


「精神魔術は手強いぞ。摂理抗争では自然魔術が主流であまり注目されなかったが、操られた生物は魔力を打ち消してもその瞬間には止まれない。その勢いだけで聖人を殺せる。お前はなるべく生物に近づかずにメルを止めに行け。時間稼ぎぐらいはこちらでする」

「――ありがとうございます」


 複雑な言い方だが、協力すると言ってくれたのだ。少なくともここにいる誰かのために。

 不意に押された背中に人の温度を思い出して、シリウスは前を向いた。無表情に少しずつ二人を死なせてゆく魔女は、くすんだ町に呑み込まれて希薄に見えた。アンクが悪魔人形の飛竜に乗ったまま自然魔術で植物を焼き、道を作る。ミザミが集まり襲い掛かってくる鳥達を引き付けて退ける。

 いつの間にか余計な力が抜けているのに、気付いた。

 まだ何も失っていない。

 諦めても、負けても、絶望しても、生きていれば、終わらない。死んでしまったとしても、一人じゃなければ、きっと。


「メル!」


 亀裂を超えたところで魔女が眉を顰め、シリウスは風の魔術をまともに受けた。右肩を酷い痺れが襲う。立ち止まりそうになるのを堪えた。圧倒的な魔力だが、多少は手加減されている。

 注意をひきつけるために大声を出した。

 



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