罪と幻の間<1>
「い、っう……」
メル・カロンは突然胸に刺さるような痛みを感じて、小さく呻いた。
なんだろう、と身体に触れてみながら首を傾げる。それ自体は瞬間的な痛みだった。肉体的な異変というには唐突だ。
表面でもない、臓器でもない。仮にも精神魔術師なのだから身体の状態はわかるはずなのに、なぜかどこだとはいえないような気がして、不安になった。
気のせいだろう。
目の前の薬草に意識的に焦点を合わせながら、一度深呼吸をした。黙々と植物の仕分けを続ける。
だが、不安定な動悸は治まらず息苦しい。集中できない。いつの間にか呼吸が浅くなっているのか。
しばらく事実を無視していると頭痛がし始め、とうとう大きくため息をついて手を止めた。
「おかしいな……」
何があったというわけでもないはずだ。
じっと座っていられず、一人ごちて土間のほうへ歩く。春の陽気を遮るそこは、ひんやりと静まり返っていて、風も今は無い。水を飲めば少しは楽になるかもしれないと思い、途中でカップを手に取った。それでもだめなら、気を鎮める薬を飲めばいい……。
本当に?
水を汲んで置いてある瓶の蓋を開けたところで、魔女はぎくりとした。
身体のどこかが思い出そうとしていた。同時に思い出すことを拒否している。そんな風に理解し始めているということは、もう、ほとんど気付いている。忘れる類のものではない。問いかけるのは残酷な理性の部分。
本当にいいのだろうか?
消してしまってもいいのか?
この痛みを消してしまったら、気付いてしまうんじゃないのか?
「ひっ……」
水に映った虚ろな顔を見て、メル・カロンは恐怖に声を引きつらせた。尻餅をつき容器に注ぎかけた水が服と床を汚す。薄暗い水面にワンズの顔があり、じっとこちらを見ていた。
あのひとが。
あのひとが、あのひとが、あのひとがいる、
パニックに陥りかけた思考を胸の小さな痛みが押し留める。
その痛みはどこか、なぜか優しい悲しみを含んでいる。だからしがみついて意識を留めることが出来る。ちがう。ちがう。ちがう。そんなはずはない。もういない。みろ。ちゃんと見ろ。これは、これはわたしの、顔――
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『メル』
遠い声を聞いて、目の前の景色が変わっていた。
そのとき魔女は白い世界にいた。風景とも呼べない、どこまでも続く、終わりのない深い闇の中だった。その世界を初めて見たとき、メル・カロンは本当に恐ろしいのは真っ暗な場所ではないのだと知った。
そこには音もない、色もない、質感もない。目を開けているのか閉じているのかもわからない。何もない。白々として眩しい。隠れることも気が狂うことも出来ない。自我が切り刻まれて晒される。時々むなしく響くのは、己の心臓の音だけで、そのためにまだ生きているのかという苦痛が断続的に続いた。
ならば今、苦しいのだろうか。
魔女はふと自分に問いかけてその疑問を追ってみる。
相変わらず何も無い世界だが、まだ思考が乱れていないのは確かだった。
そもそもいつからいたのだろう。短い夢を見ながらもうずっとこの場所に留まっていた気がするが、何も感じていない。そう、不思議と静かな気持ちでいる。今ならばもしかしたら歩いていけそうだった。
だけど、足は動かない。歩けない。
歩けたって歩きたくないんだ。
だって、そうしないと、君は
「――! メル、大丈夫ですか!?」
「う……」
呼び声がはっきりと聞こえた。
唐突に意識は引き戻され、五感が悲鳴を上げる。景色がざらついて現実の重みに咳き込んだ。背中を支える手と、切羽詰った声が身体の機能を思い出させる。頭が熱く手足がとても寒い。
視界を確保すると、変わらず土間にいた。零れた水はまだ服を湿らせている。白の幻を見てからほとんど時間が経っていないのだ。
何日、何年もあの場所にいた気がしたのに。
「気分が悪かったんですか? 顔色がひどい……朝は大丈夫だと思ったんですが……」
倒れ、それを森から戻ってきたシリウスが見つけたのだろう。喉に異物を詰め込まれたように感じて声が出ず、呆然としていると、険しい顔をしたシリウスはこちらの身体を抱えあげて歩き出した。
束の間目を閉じて、思った。
このまま黙っていればシリウスは寝室まで連れて行ってくれるだろう。そして眠れるまで、労わって優しく看護してくれる。
その眠りを心から欲していた。言ってしまいそうだった。
ねえ。傍にいて。
でも私のことは見ないで。声もいらない。ただ近くにいてほしい。何も知らないまま、暖かい人の傍で、まどろんでいられたら、どんなに――
声を絞り出した。
「待って……降ろして」
「メル。今は」
「ちがう。そうじゃない……」
痛い。身体の奥が痛む。その理由。
「私はなんともないから」
確かめないわけにはいかない。だって、そうしないと、君は
「ハレー、は?」
「ハレー? 見回りに行ってるんじゃなくて?」
ようやく声に出すと、シリウスは身体を離しながら不思議そうな顔をした。予想通りの答えに、メルはもう何も答えられず頭を振った。
それから行った作業に手間取ることは無かった。物置部屋からほこりを被ったビンを探し出す。テーブルを片付ける。銀製のナイフを磨く。
古いビンに入った液体は、黒く澄んで蜜のように見えた。魔女は液体をテーブルに慎重に零して広げた。そして何度も呪文を呟きながら己の左手の平をナイフで裂く。一度、二度、三度。下を向けると血が溢れて指を伝い、テーブルの上の黒い液体の上に落ちて油のように広がった。血が混じるたびに澄んで、やがて映像が見えてくる。
手に力を入れて多量の血を流し込むと、映像は一気に鮮明になった。それは星の森の風景だった。
占術という。
古来、魔術はそこから生まれたのだと、あの人は言った。けれどあの人が生まれた頃にはすでに、時代遅れと扱われ衰退の一途を辿っていた。
ワンズはだが、風潮にも人の意見にも従う必要はなかったし、気にもしなかった。誰もまともに研究することもなくなった占術に目をつけ、ついには未来視を実現させた。
メルに未来を見ることは出来ない。だが、近い過去の映像を再現する術は扱える。
ワンズが死んで以来一度も使うことの無かった魔術は、複雑な心境には関係なく成功した。
「これは……もしかして、ハレーの視界ですか?」
心配げに見守っていた青年が呟くが、答える余裕はない。映像は森の中を軽快に進んでいく。進み、進み、やがて二人の人間を見つける。音までは伝わってこない。だがハレーが不審に思ったことは見ていればわかる。しばらくゆっくりと二人の後を追う。追い、そのうち背を向けて、どこかへ行こうとしたようだった。
そこで何があったのかは、わからない。
瞬間、視点は勢いよく反転し、急加速する。そうして見つける。罠にかかり、瀕死のディーナがもがく姿。喜ぶ二人の人間。動きが止まっていたのは、少しの間。
そのあとの場面はほとんど頭に入ってこなかった。汚い手――千切れた羽――土――空――暗闇。暗闇。黒。黒。動かない視点。
メル。
メル。
どこか遠いところで誰かが呼んでいた。その声は届かない。意味がわからない。じっと映像を見続ける。それは二人の人間を追っている。町の教会に入っていく姿。聖教の、人間。町。ディーナの角を見て満足げに笑っている。笑っている。
める。
める。
める。
うるさいなあ。
手のひらを映像の上に叩きつけた。黒い液体が飛び散り、一瞬で何もかも見えなくなった。誰かが左手を掴む。力任せに振り払った。世界が急に色褪せ、白々しく見えた。水の中にいるみたいに音も曖昧で、不快で、呼吸が苦しかった。耳元で心臓が鳴っている。生きている。なんで? 君はいないのに。君がいないのに。嘘。なんで?
死んでしまえ。
ぽつりと目の前に浮かんだ選択肢を、ためらい無く選んだ。そうするしかなかった。決めた瞬間に塵の杖を掴み、何かの制止を退け、建物から出た。怒りで呼び寄せた巨鳥が不気味に鳴きながら身体を乗せて空へ舞い上がる。
頭上に白い曇り空が延々と続いていた。
何も考えられなかった。
名前を呼んでしまいそうになった。
呼べない。
呼んだら、居ないってわかってしまうから。
――ねえ、待って――
風に声を混ぜた。
夢じゃないことを確認させるように、ずきりと胸の奥が痛んだ。