愛しさが見上げる先に<8>
「起きろー起きろ起きろオキロー」
「こぷっ!」
問い。
途轍もなく身近で連呼、身体全体を揺らされて、起きない奴ってこの世にいるんだろうか。
その答えを身体を張って知りたくはなかったハレーは、安眠を破壊されて奇声を上げた。見慣れた家の寝室の中、唐突に視界に入る朝が強烈だ。いじめか嫌がらせとしか思えないが、こんな非常識なことをするのは相棒の魔女しかいない。
ちくしょうめ。ハレーはくわっと目を見開いて喚いた。
「なんだよバーカっ!? 俺が人間だったら心臓止まってんぞマジでこらほんとによー!?」
当の本人はいつものローブ姿で、鏡台の前に腰掛けて肌の手入れをしていた。これっぽっちも悪びれず、それだけはきれいな声で言い放つ。
「だって私が起きてるのにハレーは寝てるんだもん。とりあえず起こしとくことない?」
「つまり起こしたことに何のイミもないってことか!?」
「意味のあることばっかりしても意味ないじゃん」
それこそ、意味フメイ。
酷い言いように顎が下がってたまらなかったが、そういえばいつものことかと思い出して、小さな悪魔人形はがっくりと肩を落とした。もはや「いつも」という言葉自体に腹が立ちそうだ。よくわからないことを言われて、無駄に頭を悩ませた過去の自分がとてもかわいそうでもある。
やれやれと二度寝は断念し、ドアの隙間を潜って大部屋へ行くと、シリウスがもう起きだしてテーブルを拭いていた。孤児院育ちだけあってきっちりしていることだ。
「俺も今日からこっちで寝るかなぁ……」
ぼやきながら金髪の上に着地すると、青年がさわやかに笑う気配がした。
「おはようございます。メルに何か言われたんですか?」
「蛙に聖書を読み聞かせるくらい何の意味の無いことをな」
「まあ、今日は調子がいいってことで納得するしかないかな」
「あーあ、いやだいやだ。お前もあれだよな、大抵気が長いよな。つか物好きだよな。稀人だよな」
「ははっ、そうかも」
忘れそうになるが、メルと比べてもシリウスは遜色ないほど、単純に整っている。明るい青の目と金色の髪が華やかで、じっと見つめても特に欠点が見つからない綺麗な顔だ。体格も引き締まり、背も伸びてバランスがいい。よく笑うし、気が付くし、誠実で礼儀正しい。望まなくてもいくらでも持てはやされるはずだ。
それが、メルをはっきりと愛してくれる。
「……奇跡だよなあ」
ぽつりと何気なく付け加えた言葉が、しっくり胸に落ちた。
長い間ただ待つことだけしか出来なかった気がするのに。
「キセキ?」
「お前は、星だなって」
「星」
「なんとなくな。そんな感じ。あーそういえば、しばらく滞在するんならいいものが見れるぞ! 夜、森が光るんだ。比喩じゃなくて、ほんの何日かだけなんだ。森の奥の方の、春待ち苔ってのが、光ってキレイで」
「シリウス、おはよう」
本当に。
人が説明しているというのに遮ってくる声は、振り向かずにはいられないほど優しくてどこか色っぽかった。背筋に羽が触れたみたいな心地になる。そして振り向いてしまうと、滅多にないほど極上の、魔性の笑みにとらわれる。
「お願いがあるんだけどね」
「な……んですか?」
「ご飯を作って。この草をかご一杯に摘んできて。泉から水を汲んできて。本を片っ端から虫干しして。そして私が指定したところを全部書き写して。それで」
「――ちょっと待って下さい。まず一つ物事が済んでから次に行きませんか? そういっぺんに言われても」
魔女が優しく笑うときなんて大抵そんなものだ。シリウスが正気に返って制止すると、メルはたちまち表情を崩して舌打ちをした。どれだけ我が侭なんだろうか。普通の人なら呆れて物が言えないレベルだ。
「もーいーよ。いちいち覚えてらんないのはこっちの方だよ。おおしけだよ。もうしゃべんないよ。つかどうでもいいよ」
けれど、シリウスは仏頂面で萎びかけた果実をかじろうとする(朝食?)メルと、正面から根気強く対話する。
「それはもう食べないほうがいいですよ。今からパンを焼きますから、ちょっとだけ待ってください。その他のことも俺に出来る限りは手伝います。紙に書いてくれればいちいち指示がなくても見て動きますし。喋らないでなんて言ってない。どうでもよかったら最初から口に出したりしないでしょう?」
こればかりは性格のなせる業なのかもしれない。戯言ならいくらでも吐き出せる魔女だが、案外直球で宥められるのには弱い。手の中の変色した果物を嫌そうに見つめて、渋々とテーブルに戻し、土間のほうに歩いていく。
「メル」
「……自分で作る」
「俺、下準備はもうしてるから」
「じゃあ手伝う」
「本当ですか? ありがとうございます」
そうして青年がにこりと笑ったときにはもう、空気が緩んでいた。
見事なもんだとハレーは心の中で賞賛した。我がままに対してもただ聞き流すだけじゃない。相手の気持ちを考えなければここまでは踏み込めない。
二人で朝食を用意し、広いテーブルで静かに食べる。時々メルが顔を上げてシリウスの顔を見る。シリウスが視線に気付くと、少し笑って目を逸らす。朝の柔らかな光は木の床に留まり、何の意味もない会話を森の葉音が包み込んで溶かす。
そんな光景がとても心地よくて、ハレーはテーブルの端で二人の食事が終わるまでうとうととまどろんでいた。
それから一刻もすると、いつものように魔女の本業が始まる。ハレーは伸びをして、研究に入る前のメルに一言声を掛けた。
「じゃ、見回り行ってくる」
「うん、いってらー」
窓から飛び出して星の森を毎日見回るのが、ハレーの日課だった。森の中は季節によっても天候によっても姿を変える。偶には、子どもの頃のシリウスのように、迷い込んでくる人間も居る。
だがその日巡回コースの後半に見つけた人間は違った。一人でもなかった。ハレーは初めその話し声を空耳かと思ったのだが、念のためにと近づいて、驚いた。
(聖教の信者?)
二人の男だった。見たところ一人は二十台前半で、もう一人は一回り以上年嵩に見える。聖教関係だと思ったのはハレーの勘で、注意深く見つめるうち、徐々に確信する。昔ワンズの城で散々見てきた雰囲気と雫をかたどったアクセサリ。確かに聖教のものだ。
「なんであいつら……?」
思わず呟いた。
星の森は、実際本物の魔の森なのだ。一番近くにある古登の村の村人でさえ滅多に立ち入らない。入れば出てこられるかわからない森に、普通の人間は立ち入る理由がない。
可能性があるならばメルに依頼があるか、ワンズの骨を奪いにきた魔術師か、それともシリウス達のような無鉄砲か。だが聖教の信者という点が引っかかる。
ハレーが見つからないように様子を窺ううちに、断片的な会話が聞こえてきた。
「……本当に……大丈夫……」「お前が聖具を……」「……伝承では……何度も目撃が……」「ちゃんと……罠は……」「……今度こそ……」
肝心なところで話が繋がらず、判断できない。
(何にしろ、怪しいし)
念のためメルを呼んでこよう、とハレーが踵を返したときだった。