愛しさが見上げる先に<7>
祭の舞台は山間の小さな町だった。近くに北の山から流れ落ちる滝があり、妖精が傷を癒したという伝説と共に名水で知られる。
この時期、春の訪れと共に古代偉人の生誕を祝う慣わしは各地で行われていた。聖教の祖ともいわれる神の子だ。
夕暮れ時、簡素な駅に馬車が着く。シリウスは先にそこから降り、振り返って右手を差し出した。続いて降りてくる人物の軽く触れるだけの細い手は、すぐに離れて隣に立った。小さな声で文句を言う。
「いいよ、令嬢でも姫君でもないんだからさぁ、いちいちそんなことしなくても」
「嫌?」
「その聞き方は卑怯だし、鬱陶しいし、面倒くさい」
「だって、俺にとっては――」
「あーあー知らない聞こえない! よし行くかハレー!」「行くか!」
石畳に軽い足音が木霊する。去り行く馬車を追うように、夕闇に紛れて小柄な人影とコウモリの影が遠ざかる。シリウスは同じ方向へ歩き出しながら、束の間空を見上げた。
燃え落ちる空の彼方に、細い月が浮く。胸を締め付けられるような夜降の風景だった。
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屋台の明かりが沿道に明るく灯る光景は、見ているだけでどこかわくわくする。
食べ物のいい香りが立ち込める中、リラックスした様子で隣を歩くメルの表情にもそれは窺えた。
「夕食の代わりに、何か軽食を食べましょうか。何がいいですか?」
「んー、じゃあ、あそこで揚げてるパン。と、そこのスープ」
「わかりました、ちょっと待っててください」
安価でポピュラーなそれらを買いに行きながら、シリウスは口元を緩めた。思いのほか楽しそうで、よかった。来てくれないかと思ったが、思い切って誘った甲斐がある。この日がいつかいい思い出と呼べるような時間になってくれればいい。
少し待つ間に彼女のほうを振り返ると、ハレーと小間物の露店を眺めている姿が新鮮だった。
「お待たせしました。何か良い物がありましたか?」
買い物を終え、近づきながら何気なく成果を尋ねると、
「肩貸してー」
「?」
乞われ、まだ温かい食べ物を零さないように抱えたまま、少し屈む。今日は目立たないように枯黄色のワンピースに灰色のケープと、町娘の格好をしたメルは、濃紺の布をシリウスの肩にひょいと掛けた。そしてハレーと顔を見合わせて笑った。
「ほらね、結構合うでしょ」
「そーだな! 俺は明るい色かと思ったけど、やっぱこっちがいーな」
「どうしたんですか?」
「金色の星には夜明けの青だって話。せっかくヒメリエに習ったから、そのうち服かストールでも作ってあげる」
言いながらその布を買い求める彼女を、ぼーっと見ているだけで、しばらく何も言葉が出てこなかった。作ってくれるって、メルが自分に? 見立てて、それも手作りで?
「ほっ……んとうに? いいんですか? 俺に? 嘘じゃなくて――?」
やがて我に返り嬉しい驚きがこみ上げる。聞き返すと、メルは迷惑そうに眉を顰めた。
「なんだよもう。こぼさないでよそれ。こんな真面目なつまんない嘘吐かないよ。いらないなら私が実験にでも使うし」
「いる! いるに決まってるじゃないですか、ありがとうございます……!」
思わず勢いよく返事をして、「よかったね」と売り子にまで笑われて、それでも嬉しさで全然気にならなかった。大げさだとメルに叱られ、そんなことはないと言いたかったけれど胸にしまっておく。
いつだって確証などないのだ。元気そうに振舞う姿を見ながら、好きでいてくれているのか不安になる。メルはまだ、言えないだろう。愛情を言葉に出来るほど傷が癒えてはいないだろう。この先一生変わらないかもしれない。
だから少しでもいい、メルの中に自分の存在があることを知りたい。知ることが出来れば、いくらでも力になれる。
「ほら早く。広場だったよね? そこで食べようよ」
「先行って見てくる!」
促すのは、降誕祭の目玉だ。偉人の誕生を祝い、祝福の歌を歌う。今宵教会前の中央広場で演奏と合唱が途切れることはない。
ハレーが人の流れを追って飛び立ち、メルも急ぎ足で舞台へ向かった。広場に近づくほどに人が増え、歌声がはっきりと耳に届くようになる。それは子どもの頃に習ったシリウスにも馴染みのある聖歌だった。広場の噴水の前に歌い手達が並んで声を重ね、揺れるいくつもの灯火が薄ぼんやりと辺りを照らし出し、演奏家達が楽器の準備をする中で、黒々とした水が光を揺らした。
さわさわと人の囁く声と夜風の音が混じって、厳かな雰囲気を爽涼に変えてゆく。
「メル、寒くないですか?」
小さく尋ねると、彼女は「うん」と視線を逸らさないまま頷いた。
長い一曲が終わるまで、静かにじっとその光景を瞳に映していた。やがて風に攫われた髪を耳に掛けながら、呟く。
「ねえ、人が大勢いたとしても、こんな空間がつくれるんだね」
「こんな空間?」
「ああ……何もしなくても、気にならないくらい透明な場所」
そう言った横顔がとても美しくて、触れれば消えてしまいそうな気さえして、シリウスは無意識に手を伸ばしていた。柔らかく触れた頬は、指に頼りなく儚く、確かな人の感触を残した。
「どうしたの?」
からかうように彼女が手に指を絡めて、笑う。笑ってくれるから、言いたい事などもうどこにもないのだと知る。
シリウスは感傷を飲み込んで、首を横に振った。
「なんでもないです。まだ温かいうちに食べましょうか」
「そうだね。ハレー、どこがいい?」
「あの階段辺りが良く見えるぞ!」
ハレーを挟んで二人で並んで座り、パンとスープを食べながら、いつまでも広場の音楽に耳を傾けていた。ゆったりと集まる人々と、終わらない演奏の頭上を星と月が通り過ぎる。
「また、来ようね」
「また、来年もな!」
「必ず」
それは同じことを願えるほど満たされた、奇跡みたいな夜だった。