愛しさが見上げる先に<5>
世の中進展があれば後退もある。良いことがあれば悪いこともあるだろう。
具体的に言うと、ようやく正式に恋人としての位置を得た翌日、幼馴染は無情な笑顔でシリウスを迎えにきたのだった。
「どうもこんにちは~お久しぶりです、メルさん。僕はなんとか冬の街で頑張ってます。霊鳥は元気ですか? よかったらまた色々教えて下さい! そしてシリウスはしばらくお預かりしますので、ご理解ご協力のほどよろしくお願いします」
「ああ、久しぶりだね。君もだいぶいい環境に恵まれたみたいでよかったよ。魔術も上達したようだし……どうぞどうぞ遠慮なく」
「むー……わたしも街に行きたいなあ。シリウスがいないとメルにも会えないし、つまんないなー」
「あーあ、ホントにな。シリウスもう行くのかよ。まだまだ森の中案内してやろうと思ったのによぅ」
「待った。ちょっと待って」
薄い陽の射す昼前、魔女の家の大部屋にて。シリウスは他人の間で勝手に進む己の話を阻止しようと顔を引きつらせた。
訪問者は誰であろう、昨日森で突然ヒメリエを迎えに来たアンクである。冬の街を離れて以来連絡もなかったので、カサブランカ当主の下で忙しくしているのだろうとは思っていたが。
「突然来て何を言ってるんだ……俺はまだ冬の街に帰るなんて、考えてもないのに」
やっと曖昧な状況から抜け出したというのにそれはない。あまりにも酷い。態度には出さなかったが、メルの見えないところでは本当に毎日悩みっぱなしだったのだ。
というわけでシリウスは一も二もなく拒否するも、アンクはあっさりと正論を述べた。
「でももうだいぶ経つよ? これ以上休みが長引くと当主も解雇だって言ってるし。色んな事件の期限が迫るしさ、僕とノヴァだけじゃどうにもね……わかるでしょ」
「……まあ、そう言われると……」
任務の困難さも理解でき、何より拾ってくれた恩があるため返す言葉もない。ないが、返したい。街に戻るにしてもせめてもう少し時間が欲しかった。
シリウスの葛藤を察したわけでもないだろうが、アンクはハレーで遊ぶヒメリエを楽しげに眺めながら言う。
「だからしばらく冬の街で仕事して、ひと段落したらまたメルさんの所に戻ればいいよ。それか、メルさんが冬の街に来ますか?」
思いつかなかった選択肢である。それならまだ一緒にいられると僅かな期待を込めたが、星の森の魔女はあっさりと提案を断った。
「ううん。止めとこう。私はまだ、ここにいるよ」
「どうしても……ですか? 冬の街は、嫌なんですか?」
「嫌じゃないよ。むしろ好きかな。オリーブちゃんの料理も食べれるし、退屈しないし。そのかわり確実にミザミちゃんに浮気するよ」
「何でですかっ!」
一瞬ミザミちゃんって誰だと思い、すぐに当主の姿が思い浮かんで冷や汗が滲む。確かにあの高潔さは魅入られるものがあるが。
メルはチョコレート色のローブの裾を揺らし、極めてまじめな顔で答えた。
「だってドストライクだから」
「すとら……?」
「ほら、誰にでもあるでしょ? 好きなタイプって。私にとってはミザミちゃんがこれ以上なくそれなの。あの顔にあの性格、奇跡的だよ。だから大好きなのは仕方がないことだよ」
至極当然そうに理屈(?)を説明されても困る。というかひどい。
シリウスは大部屋の隅の寝床に座り込み、盛大に肩を落とした。この人の一面は根っからの魔女だと改めて思い知る。
「あーもー、そんなのどうしようもないじゃないですか。容姿なんて生まれつきそうなんだから」
「あっ、シリウスが拗ねた! めずらしいね!」
「普段はメルが拗ねてんのにな!」
「へ~」
「やかましい」
ヒメリエやハレーが茶化し、わあわあと言い合う内に結局、シリウスは抗いきれず翌日冬の街へと戻ることに決まった。メルと知り合い対極に生まれた者として、魔術の終焉を見届けたいという気持ちはすでに固まっていた。すなわちそれはミザミの元に居ることだから仕方がない。
昼食を済ませアンクとヒメリエが帰ってから、ぼんやりと出立の準備をしていると、メルも黙って手伝ってくれた。この家にだいぶ馴染んできたはずの生活用具は意外と少なくて、シリウスは数秒目を閉じた。また別れが来る。ただ一緒に居るというだけのことが、どれだけ貴重で難しいことなのか、ようやく理解する。わかりたくもなかった事なのに。
大体荷物が出来上がった頃に、メルはいくつか紙に包んだ薬を持ってきた。簡単な処方箋を書き、隣に膝をつき荷袋に詰めてくれる。
「冬の街で売ってるのよりは効くと思うよ。でも、過信はしないように」
「はい、ありがとうございます」
「……まぁ、使わないのが一番だけど」
小さな声で呟くように言う。それから急にシリウスの顔を真正面から見た。普段から目が合うことは滅多にない。唇を引き結んだ、挑むような強い視線に思わず瞬きする。
「な、なんですか?」
「だめだよ」
「えっと、なにが」
「死んだらだめだよ」
お互い床に座り込んだまま。腕を引かれて、距離がなくなって、唇の端に柔らかい感触が押し付けられた。
絶対、だめだよ。
すぐに離れた唇は、耳元で掠れた声を出した。頭を抱きしめられて仄かな植物の香りが喉の奥まで入り込み、心臓が大きく音を鳴らす。シリウスは突然与えられた体温に、悲しいほど愛しさを覚えた。
待っていてくれるのだろう。絶対に言わないけれど、この人は俺を待っていてくれる。そんなことはありえないのに、俺が心変わりするだろうとどこかで諦めてもいる。でも十分だ。
「……死なない。死ねない。すぐ帰ってくるから」
細い背に腕を回して、そっと髪を梳いた。強張った魔女の身体から少しずつ力が抜ける。目の前の白い首筋に口付けると、ふるりと逃れようとする。
「ん、ぁ……しり、うす」
「もうすこし、このまま」
明日にはまた離れてしまうなんて信じたくないから。ずっと見ていたい。このまま触れていたい。
僅かな抵抗を押しとどめて後ろの書棚との間に閉じ込め、頬に手を当ててキスをして、次に鎖骨に口付けようとしたところで……頭をはたかれた。
「って、コラ! 調子に乗るなバカたれ!」
「あいたっ!」
まさしく早業だった。
そして変わり身だった。
叱責に怯んだ隙にメルはぺっとシリウスを押しのけ、すたすたと土間のほうへ歩いていってしまう。唖然とする暇もない。頭を擦りながらその姿を目で追うが、全く持って先ほどの色気も雰囲気も失せている。
「だって……しばらく会えないのに」
と、未練がましく文句を言ってみるが、
「明日早いんだからさっさと湯浴みしてご飯食べて早く寝る! 全く最近の若者はだらけてるね!」
「ますます行きたくなくなります……」
「資源の無駄だよ! 君の年で働かないなんてもはや堕落だよ。なに? 私は魔女だからいいんだって。堕落してなきゃいけないんだよ」
「そんなこと言って……もしかして、嫌だった?」
取り付く島もない様子に、懸念が過ぎり口に出る。すると魔女は刹那動きを止め、やがて振り返ってにこりと笑った。
「うん。嫌」
久々に見た極上の笑顔は、明らかに作り物で、しかも怒気が漂っていた。答えと共に二重のショックでシリウスは頭を抱えた。
「うわ、嘘でも、ひどい……俺だって、結構頑張ってて……」
「今更そんなこと言う奴ほどじゃないし。あー夕食作る気が失せた。もう寝る。おやすみ世界」
「ちょっと! やめてくださいよ! せめて起きてて下さい!?」
「はいはい、嘘だよ嘘。鬱陶しいから泣かないでよ」
ハレーが戻ってきた後、三人で賑やかな夕食をとり、眠りにつく。翌朝、気楽な別れの言葉と共にシリウスは星の森を後にした。メルは体調を戻すために過酷な冬を選んだ。大丈夫だと、互いの言葉を糧にして、別々の時を耐えた。
そしてシリウスが再び森に帰ってきたのは、雪解けの季節だった。