愛しさが見上げる先に<4>
どうかなりそうだった。頭の中が真っ白で、身体が熱いのに寒気がした。
私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃないのに――メル・カロンの中の、始まりの少女はいつもそう叫んでいた。一理ある、そう思えば楽になれるとわかっていた。
「卑怯者」
他人に偶々言い当てられたくらいで動揺する心が恐かった。今自分がどんな状態にいるのか理解できない。都合のいい答えが示されれば、罪が軽くなるわけでもないのに逃げようとする。
それに、本当にああ言ったのは偶々だったのだろうか。シリウスが魔女の願望を察して哀れみ、口にした可能性だって十分にありえる。
「やだ……」
それだけは絶対に嫌だと強く瞼を閉じた時、ばたばたと走ってくる足音がした。
「――メルっ、ごめんね!」
よく響くヒメリエの声が耳に飛び込み、思わず顔を上げた。
困惑でそれ以上は動けなかった。酷い態度をとったのはこっちのほうなのに、どうして。
「あの、わたし今度はちゃんと編み方習ってくるし、料理もできるようにがんばるから。嫌いにならないでね。そういうのじゃないかもだけど、上手くいえないけど……わたしが嫌なこと言ったら、教えて。まだ、やっぱりわかんないんだ。みんな許してくれても、傷ついてないわけじゃないよね」
迷いながらの口調に耳を澄ます。誰が本当は何を考えて生きているのかなど、他人には推し量るしかなく、精神魔術師であっても表面をなぞっているだけにすぎない。ヒメリエが口にしたことも、言葉にすればまた伝わる力が弱まってしまう。
だけれど、そうやって必死に伝えようとすれば、同じように聞かずにはいられない。
「ちゃんと誰かの役に立てるようになりたいから。メルに元気になってほしいし、もっとそう思ってきたのはシリウスだと思うし、だからだから……メルも、教えて、色んなこと」
なんだかよくわかんなくなったけど、また来るから、とヒメリエは言い残して、来たときと同じように慌しく走り去っていく。遠くで少し話し声がして、やがて彼女が家を出て行く気配がした。
メルは堪らなくなって寝室のドアを開け、大部屋へ戻った。シリウスもハレーも少女を送っていっただろうから、当然誰もいない。一人だ。
虚脱した身体を椅子に沈ませれば急に不安が押し寄せて、無意識に右手の人差し指を噛んでいた。
シリウスにもヒメリエにも、当たり前に願っていることがある。声に出せる未来がある。だが、自分はそんな当然が思い出せないでいる。何がしたいのか。どうなりたいのか。何を望むのか。諦めたまま、ずっと前に置いてきてしまった。
「意味、ない……?」
そんな状態でただ生きていても、意味がないのかもしれない。
もうわからなくなっていたし、今までの記憶が重すぎて動けなかった。唯一蜃気楼のように蘇るのは、海沿いに佇んでいた温かい春の町の光景。
そうだ、あのとき、確かに私は――――
「メル、ただいま」
引き戻すように名を呼ばれて、驚いて顔を上げた。思考に気を取られていたせいで足音にも気付かなかった。
家の扉を閉めながら、シリウスは笑った。村まで送ってくるのならばまだ帰って来れるような時刻ではないはずだったが、
「偶然、迎えに来た人がいて……それで、任せてきました。ヒメリエは大丈夫ですよ」
寒さに赤くなった頬をして手袋を外している。心の整理も出来ないまま、ただ見つめているだけで何も言えなかった。わがままをぶつけてばかりだった。逃げるのも限界なのに、謝る勇気もない。もう出て行けなどと、言える強さも無くしてしまった。
「そういえば森の中で綺麗な角の獣を見ました。親子連れだったのかな? ハレーに聞きそびれたんですが――あ、」
急に言葉が途切れ、距離が埋まっても反応できなかった。
シリウスが触れたのは、強く噛んだのとあかぎれのせいで血がにじんだ指。確かな人の感触が曖昧だった意識を鮮明にする。
「薬を……」
「そ、んなのっ、どうでもいいんだって」
ぎゅっと喉の奥が苦しくなって、触れられた場所から身体が熱くなった。どうして? そんな風に己を責めても意味がない。
戸惑いを消したくて椅子を蹴るように立ち上がり、その場から逃げ出した。目に付いた土間を抜け、薄い積雪の地面を汚しながら走る。一気に冷たい空気が肺に飛び込んだが、あまり寒さを感じることも出来ないほど気持ちがぐちゃぐちゃだった。
「メルっ、どうしたの急に! 俺、なにかっ」
慌てて追ってくる足音と声を聞きながら、ぐっとローブの胸元を掴んだ。立ち止まりたくなくて、息が上がるほどに頭の中から余計な考えが減っていく。辺りは凍り、白に覆い隠された森がどこまでも続いている。静かで美しいのに、雪は春になれば解けてしまう。見えない振り、認めない気持ちだっていつかは見えてしまう。
生き物の潜めた足音響く森の中を、奥へ奥へと進み続けた。
灰色の空と冷えた風。
飛び立つ鳥の高い鳴き声。
当たり前なんだよ。
どうでもいいなんて、思ってたら最初から傍にいるはずないって――
「はあっ……はっ……ふ……!」
もう、走れない。
崖の側でとうとう息が切れて眩暈がした。冬枯れの木の幹に手を着きながら途切れ途切れに呻いた。苦しい。ただ苦しい。離れなかった足音と呼吸音はゆっくりと近づいて、宥めるようにメル・カロンの背中を擦った。情けなくて肩が震えた。触らないで欲しい。笑わないで欲しい。話しかけないで欲しい。忘れて欲しい。お願いだから。
「こんなの、どうしたって、無理だよ……」
なのにそう思うほど触れたくなった。
わざと傷つけたかった。笑って欲しかった。くだらない話をして。どこにも行かないで。
そんなこと、言えるわけがなかった。
「本当に、どうしてそんなに無理をしたがるんですか」
「ちが……」
寒い。
そう思った瞬間、包み込むように抱きしめられ、反射的に閉じてしまった目蓋の裏が、身体全体が熱を帯び、背筋がぞくりと痺れた。
そのまま、痛いほどの感触に溶けてしまいたかった。
「メル、どんなことでもいいから……一人で我慢しないで、教えて」
彼の傍に居れば魔女にすらなれなかった。何者でもない存在でしかない。無力さを抱え、期待した。
君なら私を壊せる。憎んで。殺して。首を絞めて。刃物でもいい。なにも分からなくなるくらい滅茶苦茶にして。バラバラにして。傷つけて。火をつけて。壊してよ。そうしたら今度こそ、終われる気がするから。
「大事にさせて。偶にでいいから、好きだって、言いたい」
そんな私に君は言う。
その声が優しくて、優しすぎて、ああもう何を言ったって意味なんかないのだと、もう君は無知な子どもじゃない、覚悟も責任も人の心も知っていて、わからなくても受け入れる強さも持ち、私という人間がどれだけ弱くて脆く、空っぽで無知で、それゆえ虚勢と力に依存していたのかも、何かを望むこともやり通すこともできずにいるのさえ、とっくにわかっていたのだろう。
「いなくなるとき、ちゃんと、さよならだって、言ってくれるなら」
意味のない約束は最後の理性だった。心臓の音と直接響く声が答えた。
「勝手に置いていったりしない。絶対」
風が空から舞い降り、雪の地と梢を揺らす。
僅かな枯葉を攫って消える。
どちらともなく重ねた唇が、温もりを伝えた一瞬の間の出来事だった。