愛しさが見上げる先に<3>
――そうして私がまた人間を取り戻して、どうなるのだろうと思う。
春の町を去り、メル・カロンは、もう何もしまい、どこにも行くまいと森で目を閉じた。現実を薄める、まだ作用が解明されていない薬草を調合して、頻繁に服用するうち時間の感覚はなくなっていた。
曖昧な世界で目覚めるたびに、もうどこにも行けないんだなと、窓の外をぼんやり見ていた。懐かしい面影が蘇る。いつの間にか、外に出ることも、窓を開けることさえしなかったあの人のことを考えていた。
そうして目を開けたときに懐かしい人がいた。
ひどく悲しそうな顔をしていた、それは最後の聖人だった。
「どうしてあのとき、あの人を終わらせてあげなかったの?」と、ずっと聞きたかったことを尋ねた。
古城で出会ったあの瞬間が、互いの運命だったのに。人には過ぎた力を持った孤独な王を、目の前に見たのならばわかったはずだ。
けれどヨハネスはワンズを殺すことが出来なかった。本当は、その気持ちは一部分かるようにも思う。
彼は証明したかったのだ。役割を認めず、運命に逆らったとしても生きてゆけるはずだと、信じたかったに違いない。
ところが目の前にいたのは、よく似た別人だった。
美貌といっていい優れた容姿は共通していたが、若さや微妙な顔のつくり、雰囲気が違った。それどころか見たことがある。面影が蘇る。シリウス。
星の名を持つ聖人。
様々な記憶が蘇って理解した。この子は、ヨハネスが守り隠していた一人娘、マリアの子に違いないと。
どうにも出来ない事実を知り、それ以上にどうしたらいいのかわからなくて、絶望の影がただ恐ろしく、それを遠ざけようとした。同時に打ちのめされてもいた。
まだ、現実がこんなに傍にある。
欲しい、欲しい、欲しい――縋ってでもそこに戻ることを、身体も心も渇望している。醜い衝動があふれ出し、みっともなさにいくら押さえつけても、抵抗することまでは出来なかった。身体を包み込んだ仮初は、不思議なほど暖かい闇だった。
あの子は傍で暮らし始めた。
メル・カロンは、流されるままに人間の振りをして、また思い込み始めている。あれほど恐れていたのに、いとも簡単に曖昧な世界から抜け出した。
「ね、シリウスはメルのこと好きだって言ったんだよね?」
そして現在、初冬の午後。大部屋のテーブルに座るかわいらしい少女が、魔女に向かってそう聞いた。かつて記憶を封じたのだが、奇妙な縁でまたここへやってくるようになった子どもである。
それにしてもずばりといった質問に、メルはヒメリエに編み物を教わっていた手を一秒止めた。教わっているというより、二人して試行錯誤しているという方が正しい。
「どう? こうかな……違う。何これ。何なの。大丈夫、私はすごい職人私はすごい職人……うん、聞いた気はするね」
「あれ? 違った? じゃあ一回ここに通してみたら。うん、独特だね!」
「おやぁ独特だね! けど芸術は凡人に理解されないからね? やめておくとして、わかった、正解はこうだ」
「わぁ、メルすごい!」
お互い正面に腰掛け、遅々とした珍作業が進む。ハレーは左側の棚の上から呆れながら見ており、シリウスは土間のほうで夕食の準備をしていた。ヒメリエが作ってあげると提案したのだが、この間頼んだら独特の味だったので、やめておくことにしたのだ。不器用というわけではないようだから、好奇心というものは時に恐ろしい。
ヒメリエは靴下を編むのを一旦止め、再び無邪気な質問を繰り出した。
「じゃあ、メルはシリウスのこと好きなの?」
「ぼふっ!」
ハレーが奇声を上げる。まあ確かに、核心をつかれても困るといえば困る。
メルは鈎針を見つめ、そこに文章が書いてあるかのように説明した。
「それはね、私なりに分析してみると、今こうして一緒に暮らしてるわけでしょ? そうすると、嫌いな人とは住めない確率のほうが高いと思うんだ。そうすると、好きかどうかは別として、少なくとも嫌いじゃないってことだよね」
「うーん、じゃあ例えば、そーだ。ヤジャだったら一緒に住める?」
「ああ、住める住める」
「じゃあじゃあ、ロイは?」
「ロイ君はー、ぎりぎりでだめかな。好きだけどね」
「ドライセンは?」
「だめかな。ディアナちゃんが恐いし」
「アンクは?」
「死ぬほど修行させる」
「じゃあだめだねぇ」
今日は白と灰色の上着を重ねて着ているヒメリエは、うーんとしばらく唸り、難問を解く姿勢を見せた。
「でもね、ヤジャとシリウスは同じではないんだよね?」
「同じでは……ないねぇ」
「じゃあメルは恋人がいるの?」
「ううん」
「昔はいたんだよね?」
「たぶんね? ものすごく後悔してるけど」
「もう嫌なの? シリウスは候補に入らないの? おすすめだよ? お買い得だよ? きっと大丈夫だよ?」
「――ちょっと、ヒメリエ……!」
答えようがないというか。ちなみに畳み掛けるように提案しだした少女を止めたのは、慌てて部屋に戻ってきたシリウス本人である。
「何を言ってるんだか……メル、忘れてください。別に、俺が頼んだわけじゃないですから」
金髪の青年の頬は少しだけ朱が差していて、そういう素直さは新鮮だった。何をどこまで忘れたらいいんだろう、と編みかけた毛糸を見ながら考えると、ちくりと胸に嫌なものが刺さった気がした。
……冗談じゃない。子どもじゃないか。私は悪くないのに、気を使うみたいにして、馬鹿馬鹿しい。
いつの間にか口から言葉が滑り出て、ヒメリエ越しにシリウスへ向けて話している。
「あのねえ、私、昔好きな人は居たことがあるよ。一応その時は恋人だったのかな。でも他にもたくさん、その場限りで好きだって言われることがあって、私はその人たちのことも好きな振りをしていた。そういう仕事があってね。で、嫌になってその恋人と逃げようとしたら、失敗してその人、私のせいで酷い目にあっちゃった」
多少なり旅をしたシリウスなら、悪意ある正確な意味はわかるだろう。そして軽蔑して失望すればいい。
メルは遮ろうとするハレーを制して、話を続けた。
「だからね、嫌なんだ。信じられないし、誰かを好きだって思う資格もないし。わかった?」
急に全てが鬱陶しくなって疲労感を覚えていた。疲労の正体である、刻まれた後悔は数え切れない。そうだ、昔の自分はなんて愚かだったのだろう。自分で手を下したわけではないけれど、殺してしまったことには変わりない。
「……わかんないよ。今だもん。わたし、昔じゃなくて今は大丈夫だって思った」
ヒメリエが両手を握り締めて、躊躇うように小さな声を出す。そうかもしれないね、と笑って答えればいいのに、それだけのことが面倒でたまらなかった。思ってもいないことを言って、白々しい笑顔をつくる自分が気持ち悪い。しかし踏み込まれたくもない。喉から胸にかけてじくじくと広がる嫌悪感を無視して、決まりきった正しい答えを言おうとした。
「ヒメリエ、ありがとな。でも後は俺の問題だから、大丈夫」
すっと、目の前のテーブルに片手が触れて、視界と言葉は曖昧に遮られた。
その手には細かい傷跡があり、無骨で大きくて、確かに子どものものでも女性のものでもなかった。腕も肩も声も、違う。見たくない。気付きたくない現実がすぐ傍にある。
瞬間的に頭に血が上って、椅子から立ち上がり怒鳴っていた。
「私は君と話してたんじゃない。余計な口出ししないで」
間近で目が合ったその時にはもう、自らの間違いに気付いていた。修正したくても、そんな暇は与えられなかった。
「……はい。でも、それだけ後悔してるんだったら、俺は、メルのせいじゃないと思いました。すみません」
シリウスが言った台詞に足元が揺れる感覚。
目を見ていられなくて突き飛ばすようにして奥の廊下へ逃げ、寝室の扉を力任せに閉めた。その場所で膝を抱え、激情を堪え、一刻も早く飲み込もうとした。