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探し物の森<4>

 ずっとずっと昔から生命を育んできただろう古くて美しい森。旅をしても、これほど表情豊かな深い自然を感じる機会はなかったように思う。

 もう古くなってしまった道筋を枝葉を払いながら進むと、だんだんシリウスの胸は熱くなり、口元に笑みが浮かんだ。

 前も、その前も、やっぱりこうして魔女の家を目指したのだ。いくら年を重ねても、変わったような気がするだけで、本当は何一つ変わっていないのかもしれない。ただ時が過ぎて行っただけかもしれない。

 皆で遊びに来て、怒って笑って不安になって嬉しくなって、本当に楽しかった。知らないことだらけで、馬鹿なことをして、何をしたって結局は許された。

 でも、どんなに楽しくても、神様に誘われても、あの頃に戻りたいとは思わない。これまでの自分と、出会ってきた人達を否定したくない。思い出を大切に抱えて今の自分のままで生きて、未来を繋げたい。出来るのならばあの人の傍にありたい。


「もう……仕方ないよな」


 木漏れ日の灯る頭上を見上げて呟いた。白とチョコレート色の柔らかな幻影が脳裏で揺れた。

 きっとあの人が運命だったから。あの時あんな風に出会ってしまったから。

 この先誰に出会ったとしても、もう二度とあんな気持ちにはならない。

 

 辿り着いた森の切れ目から、深呼吸をして踏み出し、顔を上げた。

 荒れて草が伸びた空間に、ザアと風が吹いて枯葉を散らした。

 変わらない井戸ともう使われていない畑の跡。蔦の絡まる物干し竿。静かに建つ古びた一軒の家屋は――頼りなげに開いたガラス窓を揺らした。

 シリウスは体の力を抜いて、一歩ずつ扉に近づいた。立ち止まって、確かめるように三度ノックをした。材木の堅さが手袋越しに届いて消える、その前に、ハレーが窓から飛び出してきて、こちらを見て絶句した。


「ぅあ、シリウス……? ほんとかよ……」


 変わらない姿の、魔女の唯一の相棒である黒羊の悪魔人形。


「ああ、久しぶり、ハレー。会いたかった」

「忘れて、なかったんだな。メルのこと、覚えててくれたんだな。そんで、わざわざこんなとこまで……」


 掠れて震える声で、ハレーは喋った。シリウスは頷いて微笑んだ。


「忘れるわけ、ないじゃないですか。ずっと大人になりたかった。探して、旅をして、冬の街にも行った。俺は、あの人に会いたかったんだ」


 長い間願ってきた。年を経ても変わらない気持ちを、自分でも不思議に思うときもあった。なぜこんなにも惹かれるのか。だけど後悔することはなかったし、この気持ちが尊いものだといつだって思えた。


「忘れられるなら……あの時、記憶を封じられたまま、思い出さなかったんじゃないかな。そんなこと考えられないけどね」


 心のままに伝えれば、数秒痛いほどの沈黙がある。くすんだ紅葉の庭は緩慢に時を刻む。

 やがてふるりと身を震わせたハレーは、こちらに飛びつき肩口で短く叫んだ。一杯に湛えられた水が溢れ出すように、助けてと声の涙を零した。


「安心したんだ。安心できる場所があったんだ。メルも俺も。だから、今度こそ、春の町で、だいじょうぶだとおもったのに、ほんとはだいじょうぶだったのに、なんでだよ? 思い出させて、動揺させて、追い詰めて。勘違いなんだ。今更なんかじゃないのに。最初から許されてるのに。メルのせいじゃないのに。そう言ってやりたいけど、信じさせてやれないよ。今のあいつに言えるかよ。信じて、今度こそ壊れたらどうするんだよ? あいつが傷つくのをもう見たくないよ。痛くて苦しくて、堪らない。俺は臆病者だ。メルのこと好きなのに、口だけなのに、声も出せないんだよ。なんで俺何にもできないんだ? もっと力のある悪魔だったら、どんな罪犯したって何人殺したって、あいつのこと守ったのに、なんで、なんで」


 小さな悪魔人形を支えながら、シリウスは静かに語った。


「ハレー。優しいハレーだから、メルは好きなんだ。ハレーが傍にいたから頑張れたんだ。ずっと一緒にいたんでしょう? だったら、本当はわかってるでしょう?」

「――俺はメルのこと好きなのに、メルはそんなことさえ信じてないのかもしれなくて……!」

「信じてるよ。大丈夫」

「結局俺は、弱くて」

「いつでも強かったら、それは悲しい事だと思う」


 ハレーを窓辺に座らせて、返事のない扉を押し開けた。懐かしい薬草の匂いが胸を締め付ける。


「メル……?」


 見据えた先には、椅子に腰掛け右手の作業台に顔を伏せる白い衣装の後姿があった。長かった髪は肩に届かない程度に切られ、頬にかかる。

 窓辺の光がまばたきの間にその姿を隠してしまいそうで、シリウスは名を呼んで、駆け寄っていた。これは夢じゃない。空気も温度も疑いようがない。


「やっと会えた……!」


 肩に触れようとして、ぐっと踏みとどまり、顔を伏せて眠る彼女に呼びかけた。メル。今まで呼ぶことすら出来なかった名前。

 白い指先がゆっくりと動いて、半分眠ったままの意識で彼女は顔を起こした。白髪越しの潤んだ目が曖昧にこちらを見て、うっすらと乾いた唇を開けた。


「……ヨハ、ネス……ど……して、あのとき――……」


 ヨハネス。

 その名にどくんと心臓が波打つ。幼い頃から聖教の教えで言い聞かされてきた聖人だが、メルは会ったことがあるのだろうか。無意識に間違えた? だったら彼は、そうだったのか。本当に俺の――いや、今はそんなことはどうでもいい。

 疑惑から意識を逸らし、シリウスはまっすぐにメルの目を見つめて笑みを零した。


「メル、俺です。シリウスです。覚えてますか……」

「…………、きみは」


 瞳の靄が失せ、星の森の魔女は身体を強張らせると、椅子から立ち上がった。目が合ったのは一瞬だった。 

 顔が歪むのを隠すように俯き、手をきつく握り締める。青白く痩せ細り憔悴しきった顔をして、白一色のロングドレスは頼りなく華奢な身体を覆っている。今にも崩れてしまいそうで、思わず踏み出しかけたシリウスを、硬い声が遮った。


「言ったじゃないか……さよならだって。今更、無駄なんだよ……今更……? シリウス?」


 くぐもって聞き取りづらい声は無情な絶望の色を広げる。


「ああ、そうだったのかな……星は、君の事だったのかな。その眼……違うけど、確かに、そう。だから……あのひとは、ヨハネスの代わりにきみのこと、殺したかったのかな……だったとしても、わたしには関係ないじゃないか……。かんけいない。カンケイナイ……? でも、あの人がころしたかったのなら、わたし――」

「メル。会いたかったです」


 自嘲し、押し殺すように言う台詞を、そっと押し止めた。

 そんな風に責める必要なんかない。痛みに苦しみながら安堵してはだめだ。

 言い聞かせるように、意識的に穏やかに喋った。


「やっぱり忘れられませんでした。さよならだって言われても、全部終わってはないでしょう? 俺、冬の街に行ったんです。カサブランカ当主に会いました。アンクも一緒に」


 逃げ場を探す身体がよろめく様に後ずさった。日の揺れる本棚に背が触れそうになる。顔も上げられないまま、どこへも行けないまま、ぎゅっと自分の身体を抱きしめる腕が震えていた。

 それでも彼女の唇が、ぎこちない笑みを浮かべたのは、それは。


「言わないで。もう、いいんだよ。ダイジョウブだから」

「え?」

「謝るから……。ねえ、ゆるして……関わったことゆるして。わたしがわるかったから。そうでしょう。おねがい、これ以上、ほしくない。なんにも。ごめんなさい。おねがい。ひとりに、ひとりにして、ゆるして」

「――もういい!」


 自分の目と耳を信じられなかった。

 許して?

 脳が言葉の意味を理解した瞬間、喉の奥がかあっと熱くなって、感情が焼き切れた。運命を本気で恨んだ。ふざけるな。何の権利があってここまでひどいことになる? 恐怖に屈した、懇願のための媚びた笑みが心を滅茶苦茶に掻き乱した。こんな形で僅かでも笑顔を見たくなかった。なかったことにしてやりたい。忘れて欲しい。ああ、なんてことを――――

 心の底から脅えて体面も保てないその人の身体を掻き抱いた。痛みを分けてほしかった。唇を噛んで怒りを堪えて言葉を吐き出した。


「後悔なんてしたことはない! あなたに会えて、俺は救われた。本当に嬉しかった。すごく楽しかった。会いたくて、世界を知りたくて俺は、村を出た。ただ心配で、何でも良いから笑って欲しくて。間違ってたなんて認めません。メル、信じなくて良いから、傍において下さい。絶対に独りにしたりしない。運命にも負けない。俺は、俺は――あなたが好きです」


 随分小さな身体は、くたりと肩に顔を埋めたまま呟いた。

 きみは星なのに、真っ暗だね。

 白い闇の中から響く。

 それだけで何もいらないと思うほど、嘘みたいに、優しい声だった。















 


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