探し物の森<3>
「シリウス、古登に帰るならついでにこれ渡しといて」
「あぁ、いいよ。誰に?」
ここ一年と数ヶ月、すっかり戦友となった魔術師アンクの声に、シリウスは振り返って聞き返した。投げるように渡されたのは小さな包みと、美食の魔女オリーブが作った人気の砂糖菓子だ。日持ちのするそれは、色とりどりの宝石のようで見ているだけでも嬉しくなる。
アンクは珍しく曖昧な笑みを崩し、仏頂面で「ヒメリエ」と答えた。
「へえ、そっか。了解」
その関係性には気付かなかったが意外ではない。態度で何となく事情を理解し、シリウスは目を細めて頷いた。
冬の街でミザミ・カサブランカに使われるようになり、もう季節が二回りしようとしている。淡い期待を抱いていたが、当主の予想通りメルが屋敷を訪れる気配はなかった。
だがそれと己の修行とは割り切ることが前提である。弱さを律し経験を積むために、ミザミや他の魔術師(主にノヴァ)に従いながら魔術がらみの事件に挑む日々。戸惑うことも躓くことも日常茶飯事で、一筋縄ではいかない彼らを相手にしながら、自分の立ち位置と彼女の立ち位置を少しずつ理解していった。
出会った魔術師達は何れも強い負を振りまき、諦観を宿していた。自ら火に飛び込むように、追い詰められていた。
それが摂理抗争の敗者としての立場なのだ。
だけどあの人はそうならず、孤独でも自分を制していた。
「メル・カロンが帰る可能性があるとしたら、星の森だろう。あそこには智の魔女ワンズが眠るという。骨もそこにあるだろうからな」
ミザミに教えられ、力の強かった魔女の骨を喰う習慣を知ったときには流石に驚いた。そうすることで魔力を増幅できると古くから信じられていたのだ。
だからメルはあの森にいて、ワンズの骨を奪いに来る魔女達を退け「白の魔女」という汚名を広めた。彼女はあの場所でずっと墓を守っていたのだ。
任務が一段落した秋の日、シリウスは故郷の星の森に帰ることを決めた。ミザミに休暇を貰い、魔女たちに挨拶をすると、もう別の場所にだいぶ馴染んだのだという実感が沸く。
冷たい部分はあるが、物事に筋を通す公正な気質の冬の街。
「あら。しばらく帰るの? まあ、少しは寂しくなるわね……少しだけね。旅の保存食を餞別に持っていきなさいな」
「あ、シリウスー、これも要る? なんだかよくわかんないけど木は枯らせるよ! 会えたらメルとハレー君によろしくっ」
「そうか。戻ったらもう少し悪魔の作製について教えてやろう」
皆に一通りの挨拶をし、礼を述べる。アンクは当主と都に行くため帰省を見送ったが、深く残念がる様子でもなかった。
「厳しいけど単純なこっちの空気が、僕には合ってるのかもね。だからって向こうが楽しくなかったわけじゃないけど」
一時の別れの朝、シリウスも若い魔術師の言葉に口元を緩めて頷いた。
「わかってる。故郷は特別でも、大事にされすぎるのかもな。皆に元気でやってるって伝えとくよ」
「うん。……メルさんに、会えると思うよ。シリウスなら」
そう言われて占いでもしたのかと聞き返すと、「魔術師の勘と同情」という答え。励ましになっているのかいないのか、わからないのは相変わらずだ。
やれやれとため息混じりに、随分大人びた黒髪の幼馴染を眺めて尋ねていた。
「変われたかな、俺は」
「ん~、背が高くなった。声も落ち着いた。前より腕が上がった。で、顔が綺麗なのは一緒だけど、色気が出たかなぁ。あとは――」
「色気……? しかし随分また率直な意見を……」
「あとは、自分と世の中のことについて少しは寛容になったんじゃない? 大体優等生に見えて大胆で諦めが悪くて頑固なのか素直なのか微妙で世話好きで正義感が強い真面目な努力家なんて、別に大して変わる必要もないと思うんだよね。これで、相手を追い詰めない余裕があれば言うことないのかも」
簡単なようで難しい助言を貰い、シリウスはあごを摘んで空を見上げた。
「具体的にどうすればいいって?」
「例えば、常識や正論を盾にしないとか、嘘を吐かせないとかね。上手く我慢したらいい」
「なるほど……覚えとくよ。ありがとう」
そうして珍しく踏み込んだ会話を別れの挨拶にして、冬の街を後にした。
星の森を目指しながら思い出したのは、初めてメルという魔女に出会った日のことだ。森に迷い、進めば進むほど深みにはまり、心が空になるほど不安に押しつぶされそうだったあの日。
一歩ごと人の世から離れていくような感覚を味わいながら、怖いはずなのに、不思議と懐かしくて、泣きたいような気がするだけで、そんなことをしたって何の意味もないと知っていた。頭に浮かんだのは見たこともない両親の顔だったり、妙に儀礼的な祭司の顔であったりした。
見ない振りをしていた孤独と目が合った。生まれたときから大勢に混じって一人だったな、と思う。時々無意識に、同じ場所に立つ人を探していた。気付いて自分を引き止めた。飢えることも凍えることもない賑やかな場所で何ておこがましいのかと。
だけど、深い森の中には引き止めるものが無かった。
居ない家族、無意識に一目置く大人達、それに従う大勢の子ども達、期待に応えて優等生をなぞる自分。
葉を踏みしめ生い茂る木々を掻き分けながら、押し込めてきた「悲しい」という感情を見つめていた。
俺は他の人と何が違うんだろう。みんな違うとわかっているけれど、こんな風に思うのは俺だけじゃないのか。何か大切なものが足りてないんじゃないか。
このままで、俺は俺を続けていけるのかな。
だめだから、間違っているから、神様はもう俺を森から出さないのかもしれない。
そうやって正しい答えを探していたけれど、違った。
『諦めるのはまだ早いな。往生際は悪ければ悪いほうがいい』
声がして、驚いて、顔を上げた。人がいて、涙が出そうになった。
ただ。
一人で消えていくなんて怖くて、嫌で、誰でもいいから傍に居て欲しかった。その人はとても孤独で、透明で、優しくて、悲しい目をしていた。
伝わってきた。
大丈夫だよと、心の中に確かに声が聞こえた。
一番欲しかった言葉だった。一人じゃなかった。
一番近くて一番遠いところにいるその人に恋をした。
「シリウスだ! おかえり!」
「おかえりっ! どこ行ってたの? アンクは?」
「聞いてよフィーがね! あのねっ」
古登に帰り着くと、まず教会の子供達に歓迎され、次に姿を見せた祭司達に挨拶を受けた。集まってきた懐かしい村人と秋の広場で笑顔を交わした。歩くたびに家々の戸が開き、挨拶に訪れた人とめまぐるしく話をする。心配をかけたことを実感する。故郷を離れてようやく、シリウスは包まれるように守られていた子どもの事を代えがたく思った。
それから歓迎がひと段落ついた後、ようやく気の置けない仲間達に再会する。
「お帰りなさい、シリウス。元気そうで良かったです」
「ほ、ほんとにほんとだよっ、アンクは大丈夫だよね!?」
「随分経験を積んだみたいだな。面白い話はあるのか?」
「アンクの奴、相変わらず空気読まないな。こういうときくらい帰って来いっての」
ますます女性らしく綺麗になったディアナ、相変わらず心配性だけど随分背が伸びたヤジャ、大人の顔つきをするドライセン、皮肉の中に柔らかさを交えるようになったロイ。
「ただいま。長く帰らなくてごめん。やっぱりここは落ち着くよ」
それこそ夜通し談笑して、時間を取り戻すように尽きることなく話をして、そのまま子どもの頃のように床で眠った。途中で目が覚めて、思い出してヒメリエの家を訪ねた。一人だけ出迎えに来なかった少女は、シリウスの前に立って少しばつの悪そうな顔をして笑った。それでもアンクからの贈り物を渡すと、黙って受け取り、中身を守るように抱きしめた。
「アンク、元気?」
「元気だよ。仕事があって今回は帰れなかったけど、その内絶対帰るって言ってた。あいつは俺よりずっと強いから安心して」
「そ……っか。だいじょぶなら、いーの。いいんだよ、こんなのくれなくても、私、よかったんだ」
言葉の合間にぽろりと一つ、二つ、涙が頬を流れる。ヒメリエはすぐにごしごしと涙を拭って「ありがと、シリウス」と笑った。
頷いて話しながら、会いたいという気持ちが胸の深い場所にあるのを自覚する。ヒメリエやアンクのように約束をしたわけでもないけれど、まだ拒絶されないのなら、傍に居ても許されるのなら。
何も考えずに一晩泥のように眠った。
そして夢から覚めて、用意されていた朝食を食べ、シリウスは懐かしい星の森に足を踏み入れた。