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探し物の森<2>

 そして私たちが身を隠したのは、大河沿いの新興都市にある屑街の一角だった。

 追われる立場と利便性を考えたあげく、多様な人間の入り乱れる都市のイメージしか浮かばなかったとも言える。

 天変地異のその日のうちに実行出来たのはハレーがいたからで、闇夜に紛れて汚れた街に入り込み、精神魔術を駆使して空き部屋を手に入れた。魔女と悪魔だけしかいない空っぽな部屋全体が、自分そのものを表しているように見えた。

 そのうち最下層の澱んだ貧民街にさえ、噂は微かに流れてきた。聖教の勝利と魔術の敗北。聖人ヨハネスを称える詩。煌びやかな祝祭の空気。

 凍り付いて放心していた心に、じわじわと何か得体の知れない感情が浮かんでくるのを止められなかった。

 暗くて寒い部屋は広いとはいえない。あの人はまだ目を覚まさない。するべき行動を助言して疲れきったハレーは気を失うように休んでいる。不完全に蘇らせたもう一体の悪魔人形は像のように動かない。

 座り込んでいた床から立ち上がり、ふらりとベッドに近づいた。

 蝋人形のような魔女の顔を上から見下ろす。

 今まで出会った誰よりも麗しい顔。超越した笑みを湛えるだけのそれがどうしてこんなにも無防備なのだろう。家族を奪い、故郷を奪い、記憶を奪い、人権を奪い、希望を、信ずる心を、未来を、恋人も友も何もかもを奪った永遠の魔女が、どうしてこんな落ちぶれた姿を晒しているのだろう?


「……なん、で……?」


 殺してやりたい。

 目の前の魔女を前にして、身体が崩れてしまうような眩暈に襲われた。立っていられなくて膝が床を擦る。痛いという感覚も無い。激しい衝動と共に縋り付いたシーツが手の平に食い込む。

 殺してしまいたい。

 何よりも強く自分を殺してやりたかった。

 そう、私はいつしか信じていたのだ。この強大な存在が在り続けることに一片の疑いも抱いてはいなかった。あの全てが終わった日、色褪せた春の野であの人に出会ったことを思い出す。

 一度も優しくしてくれたことなんて無かった。

 必要外に触れられたのは出会った日のそのとき、ただ一度だけ。何年一緒にいても、掛けられたのは命令と、魔術に関する言葉のみ。助けてくれることもありえず、悪魔人形に暴行されるこの身をいつでも笑いながら見ていた。絶望に堕ち続ける私を繋いで逃げ出すことすら決して許さなかった。

 ハレーがいつの間にか目を覚まして名前を呼んでいた。メル。メル。あの人が決めた名前を呼ぶ。空っぽの魔女の名を繰り返す。ここはどこだろう。今何時だろう。何でこうしているの。どうして私だったのかと、朦朧とする頭で思った。

 思い返しても何もわからない。

 なぜこうなったのか、誰のことも何の事情も驚くほど何も知らなかった。

 私は何をしていたんだろう。

 何の意味があってメル・カロンを生み出した? 傷つけて壊し尽して、楽しかった? 何か期待していることがあった?

 応えてよ。

 教えて。


「……お、ねがい、……」


 誰も答えをくれない、信じるものを失った、靄がかかった世界の中で何度も呟いた。

 そして私はやっと本当に、深い深い自らの愚かさを悟った。


            ※


 それから幾日経ったかもわからない朝に、あの人は目を覚ました。ああ、当たり前だと私はただそんな風に思って思考を閉ざした。

 結果的にあの人はまだ魔女と呼べた。大量の魔力を失ったものの、並みの魔女と比べれば少しは勝るほどの力は残していたのである。だがそれはどう取り繕おうと、以前の残り香に過ぎないのだった。

 そして決定的に壊れたものを見ないようにして過ごす日々は、まるで幽霊になった如く曖昧だと知る。

 悪魔人形のように、短い命令に従って動けば日が過ぎ、いつの間にか街を歩いていて、時間が飛び飛びになる。あの人に触れるときは感触が無くなる。食べ物には味が無い。自分が何をしていたのか時々全く思い出せない。


「星の森へ行く」


 ワンズがそう言い出したのは、確か生温い光が部屋に篭る午後だった。窓の外の狭い通路には、ゴミと一緒にもうすぐ死体になりそうな病人の身体がぐたりと投げ出されていた。

 聞き覚えの無い土地で、星の森とはどこにあるのかわからなかったが、私は頷いていた。あの人が行くというのだから何がどうであろうと行かなければならない。考えることなく少ない荷をまとめた。

 そのときの旅路の中で、私はヨハネスが死んだことを知った。

 理由は知れなかったが、噂の中に何度か暗殺という単語を聞き、一時的に心が痛みを思い出した。

 ほんの僅かな邂逅で見た苦悶の表情は忘れられない。人には過ぎた力を持つがゆえに、聖教に担ぎ出されたかの聖人は、何を望み、何を憂いただろう。わからぬはずも無いのに、都合の悪いものは見て見ぬ振りをする人間の弱さと狡さ、利用価値に左右されたあっけない幕切れに虚しさを覚えながら、森への道を辿った。

 星の森はこの国のある半島の、張り出した西端に位置した。深い未開の地のワンズが指した場所に、建築家を呼び出し悪魔人形と共に家を建てさせた。

 そこで暮らすようになっても、私たちの関係は特に変わることもなかった。ワンズは家から一歩も出ることなく窓辺に座り、じっと目を閉じているだけで、私はあの人の世話と家の管理、食料の調達と生活用具の確保を義務としてこなす。目的も見えず時間を見送るだけの日々。

 ただ、古来の森は美しく、汚れた街とは比べるべくもなく新鮮だった。

 朝のむせるような緑の呼吸や、季節の合間に表情を変える風景、賢く正しい生を営む動物達に囲まれていた。息づく自然に触れるうち、心はほんの少しずつではあるが、色を取り戻し始めた。

 日が経つにつれて、私は時間が許す限り森の中で過ごすようになった。暮らし始めたのは幸い暖かい季節で、花が咲き木漏れ日の落ちる地をハレーと共に飽きず歩き回った。

 泉を見つけ、薬草の生える場所を知り、鳥や獣の暮らす巣を遠くから眺める。眠るため、世話と管理のためだけに家へと戻る。偶に家の周辺を拓いて庭を確保し、悪魔人形を使って井戸や畑を掘ることもした。

 だが、なぜあの人がこの森に来ることを決めたのか、私は知らなかった。

 どこへ行くでもなく、手慰みに薬草を手にすることはあっても他には何もしない。長く眠り、食事を取ることも時々拒否する。私のことも本当に悪魔人形と思っているよう振る舞い、言葉を口にすることは滅多にない。だから余計にぽつりと零した声と、表情を覚えているのだろう。


「――星を、探しにきたのだよ」


 半分以上中身の残った食器を片付けようと、手を伸ばした秋の夕暮れだった。

 雨を思わせる夕焼けがもう闇に飲まれようとしていて、私は顔を上げてあの人を見た。寂しげな残光に浮かぶ彼女は、じっと窓の外を見ていた。尋ねたかった。

 星とは何ですか。

 それはどこにあるのですか。

 私の手に、触れられるものですか?

 喉は声を紡がず、これまで聞いたこともなかった穏やかで静かな声をもう一度だけ聞きたいと願い、私は日が落ちるまであの人の横顔を見ていた。

 そして結局何も知れぬまま日々は過ぎ、初めて森に雪が降った日。


「積もりそうだな~ふわふわしてる!」

「そうだね」


 いつものように森を歩いていた私は、はしゃぐハレーの声に空を見上げた。白く覆われた空から羽のような雪が絶えず舞い落ちていた。

 この辺りの冬は長く厳しいと聞いたから、そう喜ぶことでもない。が、初めて間近に触れる森の冬は確かに静謐で珍しい。同時に家の釜に火を入れなければと思い、まだ雪の積もらない地面を心持早めに歩いた。

 そうして何気なく開けた家の扉から、見えた光景がとても不思議だった。


「ワンズ……?」


 ハレーの声が驚くほど幼く呆けている。返事はなくて、踏み出しかけた足が動こうとしない。

 あの人が眠っている。窓辺の冷たい床に転がるようにして眠っている。


「おいっ! なんで、なんでだよっ……!」


 私を置いてハレーがあの人の傍に舞い降りて、何か叫んで、世界が揺れる。身体の調子が狂っている。これは夢なのだろうかと思い、じっと目を凝らした。

 血の気を失った手元に落ちた薬のビン。毒草の根を煎じた死の劇薬。奇妙なほど綺麗なままの顔と流れ出した体液が不釣合いだから、きっとこれは

 

「――死ぬなよ、こんなとこで、なんで、逃げたんだよ――!」


 でもやがて、ハレーの言葉にざあっと全身から血の気が引いて、思考が砕け散った。

 無我夢中で走って、しがみついて、揺さぶって、わけもわからぬまま縋り付いて叫んだ。行かないで。行かないで。行かないで、行かないで置いて行かないで こわいよ行かないで、行かないで 誰か、だれか、たす け 

 ぽたりと雫が落ちて視界が歪んだ。何も聞こえなくなった。

 崩れていく。

 壊れた白い闇の中で。

 手を伸ばしても何も掴めずに。


 意味を成さぬ声と共に、私はその場で気を失った。


 そうして私の髪は、永遠の闇の色に染まった。

 
















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