探し物の森<1>
鈍く輝く王座の下で、滅びを待つ神と悪魔が抱き合っているように見えた。
現実にありえるはずはないのだが、背筋が凍り涙が滲むほどの圧倒的な存在感は、そうでなければどうしても説明がつかなかった。
重なり合う影は禁忌に触れてしまったと思うほどに美しい。緻密で精巧で神々しくて、別世界に足を踏み入れてしまったかの如くおぞましい。完全という言葉の意味を知り、思考も呼吸も瞬きも忘れてしまいそうだった。
やがて間違いを正すように彼らは二つに分かれた。
重大な喪失感を伴い、神と悪魔――もとい、最後の聖人と、世紀の魔女に。
二人の間を血が彩っていた。魔女は淑やかに笑い、聖人は顔を苦しげに歪める。それはちぐはぐで、まるで逆の仕草だった。魔女の口からつうと血が垂れて、ぐっしょりと濡れたローブに吸い込まれて消えた。
夢?
幻。
どちらだったのだろう。
あるはずのない光景を、私はただ立ち尽くして見ていた。
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そもそも摂理抗争が完全なる劣勢だろうが、裏切りが横行しようが、聖人が群れを成そうが、真の魔女であるあの人に何が影響したというのだろう。智の魔女ワンズは永遠に滅びず君臨し続けるし、その限りにおいて魔術師は敗北を決しない。
未来を知るあの人は、荒野にそびえる城の中から全てを見透かし次々と聖人を殺した。他の魔女たちが敗れ、降伏していく中で、嘲笑うように王座に腰掛け続けた。敗北の気運があの人を避けた。無理もない。
「未来に敵うものとは?」
謎をかけるように自身に向けて問うても答えは出ない。否、存在しない。
そのはずであった。信じて疑わなかった過去を、今でも責めようとは思わない。
「様子がおかしいぞ」
異変は薄暗く、薄ら寒いいつもの城の午後に起こる。
ハレーに声を掛けられた私は、精神統一の深い世界から数時間ぶりに意識を浮上させた。急に五感を取り戻したために眩暈がして視界が曖昧な灰色に染まった。
廊下の方から扉の隙間を潜り、僅かに火の臭いがする。この部屋は三階の端にあり、あの人がまた階下で死体を焼かせているのかと想像させる臭気だった。
もう遥か昔に慣れたことだ。何がおかしいのかと黒羊の悪魔人形に問いかけようとしたそのとき、城全体が大きく揺れ動いた。
「うわっ……! 地震っ?」
「な、に、魔術……?」
壁でも粉々に崩すような轟音、そして城が倒壊するのではと思うほどの揺れだった。直接響く衝撃に、動揺して地面に這い蹲る内揺れは収まる。だが心臓の鼓動は痛いほど高鳴り収まらない。一体どういうことなのか。今のは自然に起きた地震ではない。だとすると……
「ワンズが?」
ハレーの不安そうな呟きに、私は身を起こしながら首を横に振っていた。
なぜならあの人は存外自分の城を大事にしていた。何か仕掛けをしてあったのであろうし、構造も計算され建物自体も念入りに補修させていた。色味や外見はどこまでも暗いが、材質はおそらく秋の都の王城と比べても断然に優れていただろう。だからあの人が自らそれを揺るがすような真似をするとは思えない。
「だけど、さ……なんか静かじゃねえか……? 悪魔人形たちの姿も見えなくて……」
「そんなはずは――」
答えながら、本当は頭のどこかで理解していた。これほど破壊力のある魔術を行使できるのはここにはワンズしかいない。智の魔女と呼ばれ占術ばかりが注目されるワンズだが、自然魔術も精神魔術も他の魔術師とはかけ離れて優れていた。だからこその世紀の魔女なのだ。
大体なぜ今、未来が見通せるはずの彼女が魔術を使う場面に立つのだろうと思考が沈む。あの人は外敵を悪魔人形に処理させ、自分が表に立つことはしない。相手の出方がわかるのだからそれで十分なのだ。
答えは一つしかない。
全てを、未来を上回る事態が訪れた。
「ちがう。そんなはずない……!」
言い知れぬ不安と激情に駆られて私は部屋を飛び出した。ハレーが大声で呼び止めるが聞かなかった。廊下には本当に醜悪な悪魔人形たちの姿がなく、不気味に静まり返っている。息を切らせて先の見えない螺旋階段を駆け上がり、最上階の大広間を目指す。目的地が目の前に現れたとき、足がぬるりと滑った。
大広間の扉の前に転がっていたのは、ワンズの悪魔人形たちの残骸だった。
「……!」
見渡して絶句した。
奇形も様々だった悪魔人形たちは、一撃の下正確に核を破壊され絶命していた。幼い頃から自分を苦しめ、最強を誇っていた彼女の忠実な兵達をいとも簡単に。
朦朧としながら、崩れた死骸を踏み越えた。何を望んでいるのか己にもわからないまま、歪んだ希望を捨てきれずに扉の前に立った。残骸で汚れた金属の扉は、片方が外れかけていて簡単に私の身体を受け入れた。
「――――――」
そして神と悪魔を見た。
それしか目に映すことは出来なかった。
ひび割れ破壊された壁も、ばらばらになった調度品も、荒れ果てた室内も何もかも後から思い出したことだ。
だってあの人が倒れている。心に刻み込まれた永遠が、否定されようとしている。血が赤い。笑う唇が弱弱しい。嘘だ。嘘だ。うそ。
あの人の傍にいた、その原因がふらりと立ち上がった。
たった独りだった。
本当に天の使いではないかと思うほど、ワンズに劣らぬ精巧な顔立ちの男に目を奪われた。青い目に、零れ落ちる光のような金髪。祝福された祭服を魔女の血で染めた人間の名が浮かんでくる。
その類まれな法力に聖教が快哉を叫び、最後の聖人と称えられた、ヨハネスその人。
全ての運命を受け入れたような寂しげな表情を、今でも覚えている。
彼は倒れたままかろうじて息のあるワンズからゆっくりと視線を外して、こちらを、出入り口を見た。そして歩き出す。何も考えられないまま、殺されるとも思わないまま、何事もなくすれ違う。いや。
――すまない。
横を通る瞬間に。そう聞こえたような気がした。
何に対しての謝罪なのか、風の音だったのか、幻聴だったとしても信じられるほど、小さく切ない響きだった。
「っ……」
思わず涙が滲んで零れ落ちそうになる。歪む視界を唇を噛んで堪え、ぐちゃぐちゃな感情のまま叫びたかった。待って。やめて。このままで行かないで。お願いだから。
あの人を。
結局何も言えぬまま、私は動かぬ足を叱咤してあの人の元まで身体を引きずった。真紅の絨毯に跪き、声を掛けようとして、なんと呼べば良いのかわからなかった。触れようとした手が震えてどうにもならなかった。
血が、赤い。顔が青白い。閉じられた目。それでも生きている。死んでいない。ああ、死ぬはずがない。
そう思った瞬間、私はもうその考えに支配され、操られるように窓辺に駆け寄った。
乱れる魔力を捻じ曲げて怪鳥を呼び寄せ、一体の悪魔人形を即席で蘇らせてワンズの身体を運ばせる。ハレーを、しがみつく様にきつく抱きしめたまま怪鳥の背に掴まる。
飛び立つ空は雲が垂れ込め、果ての方で途切れていた。眼下に遠ざかる城が赤く燃え落ちる。
悪魔人形が支えるあの人の身体が滑りそうになり、私は手を伸ばした。
まるで人間みたいな、感触だった。