過去への放浪<3>
知っていた。時の狭間に幻を見ているのかと思う。古い古い一番初めの、記憶の奥に閉じ込めてもう誰にも見られることのない、唯一の思い出の中で知っていた。
古く冷酷な城の中で、未来だけを抱えて走った広大な枯野ヶ原で、黒々とした貪欲な大都市の夜に、誰も居ない深い森の朝に、何度も繰り返し歌った。どうしようもなく心が軋む時、誰にも聞かれないように自分のためだけに歌った。そうすると、呼吸が楽になり、気持ちが静まる気がした。
叶わぬ望郷の歌。宵闇に星と雲を渡り、生誕の地に帰りたいと願う流浪者の歌。願いながら、故郷に背を向けて遠ざかる鮮やかな光景。
「そっ……か。星と雲。素直な題名で、好きだな。よかった」
「どうかしたか?」
「え?」
「大丈夫?」
上げた視線が真っ直ぐにトウフウとぶつかって、心臓が波打った。ハヤテもこちらを見ていて、思わず自分の頬に手を触れた。少し熱い。身体が温まって、心地よくて。
「うん。大丈夫」
もし友人や家族がいて、平和な町で人間のまま暮らしていたとしたら、なんとも思わなかったかもしれない。鬱陶しいと思ったかもしれない。
余分なものばかり持っていて、大事なものが欠落している魔女であるから嬉しかった。
ハレーと初めて出会ったときに貰った言葉に今は、大丈夫だと答えられる。夢だったらなんて思わないし、この生活の損失も思い描かない。手触りのある確かな現実として存在していると肌で感じた。
夢じゃないけど、嘘みたいだ。
矛盾する気持ちに心の中で笑って、目を伏せた。周りの喧騒と、間を縫って耳に届く懐かしい曲を聴き、少しずつ自分の中身が満ちていくのを止めないでいた。ああ、もういいだろう。誰も知らないこの場所なら、きっといいだろう。許されないことを思い出さなくても、生きてゆけるはずだ。
「この歌ね。俺も好きだなー。なんつーか、メロディーが明るいからさ、すごく暗くなるわけじゃなくて、清々しい感じがして。詩もありきたりだけど、ごてごて飾ってなくていいよな」
自分も酒を飲み始めたトウフウは、若干顔色を良くしながら喋る。その内歌を口ずさみ始めたりする。お世辞にも上手いとは言えなかった。
「下手だなー」とそのまま口にすれば、「うるせえ」と子どもみたいに口を尖らせ、
「お前だって人のこと言えないんだろ」
「君よりはマシだと思うけど」「間違いないなー」
「そーかあー?」
マシというのは、好きだと思うからだ。トウフウが思うよりもっと、この歌のことが好きだと思う。心の支えにも痞えにもなってきた記憶だが、歌うたびにそのときの感情が蘇る気がして。
深く息を吸い込んで、歌詞を声に乗せた。
懐かしい。苦しい。嬉しい。悲しい。痛い。行かないで。逃げようか――感情の海と共に自然と続きの音程が滑り出た。波が引くように、周りが黙った事にも気付かなかった。珍しく気分が良くて、暖かくて、声の調子も良くて、だから。
きりのよい所で口を閉じて初めて、周囲の視線を認識した。トウフウ、ハヤテ、ハレー、周りのテーブルの人間。何だと問う間もなく、トウフウが真っ先に身を乗り出した。
「お前、上手いなー!」
「え……何が?」
「すげえ、いい声だし! 聞き入ったよ、ホント。なあハヤテ?」
「うん。ちょっと、驚いた、かな」
「う……」
まともに褒められるとは思わず、顔が熱くなる。余計なことを言って、歌手でもないのに大げさなのだ。歌手になりたかったのは――
誤魔化すためにグラスに残っていた麦酒を一気に飲み干し、カロンはトウフウを追い払うために手を振った。
「だから! 君よりはマシってだけだよ! 大体みんなこれくらいは歌えるに決まってるんだ、この世間知らず野郎っ」
「はあ!?」
なんだか知らないがどっと笑い声が起こり、いーぞ美人な先生、もっと言えなんて野次まで飛び交う。また別種の酒を勧められて飲み、騒ぎに加わり、文句を言い、たくさん笑った。クリバラに見送られて千鳥を出る頃には、頭がくらくらして足元が定まらなかった。
「あぁもう、どんどん飲みすぎなんだよ……無理なら断ればよかったのに」
「別に、無理じゃないんだから、いい」
「はいはい、ほら、危なっかしいから腕貸せ」
「んん……」
並んで先を行くハヤテとハレーを見ながら、トウフウに支えられ、揺れる夜の中を歩いて帰った。半月が頭上から町を照らし、月影が道に伸びる。眠くて、半分目を閉じながら喋った。
「涼しいね」
「俺は寒ぃけどな」
「ここは、寒くないほうだよ。河を渡れば、別だけれど」
「秋の都の方か……縁がないな、たぶん」
「うん……楽しいような、ところでもないしね。一度通り過ぎれば、十分」
「南の、一年中あったかいっていう国になら行ってみたい。船が港に着くと偶にそう思う」
「暑いのは、苦手」
「苦手そうだな。見るからに」
「そうかな。そうでもないよ」
こんなに近い場所で話していられるのは、トウフウが何も聞かないからだ。どうして旅をしているのか。男なのか女なのか。年齢は。素性は。故郷は。そういう常識を全て。
そんなものは必要ないと証明する人間がいる。
間違っているのだろう。
だが例え間違っていたのだとしても、そこに拠るしかない弱い生き物達のためにどうか、見逃しておいて欲しかった。
「もし、私がまともな人間だったとしたら、」
「うん?」
誰に感謝すればいいのかも、わからない。だから今ここで言ってしまってもいいだろうか?
「わたしは君みたいな人間に、なりたかったと思う。きっと……なにがどうって、はっきりとは言えないけれど」
「おま……俺みたいって、」
触れ合う身体が動揺したのが伝わって、口元が緩んだ。本音を言ってしまった。情けなくもあり、清々しくもあった。
トウフウは絶句した後、木々のざわめきの中でしどろもどろに喋った。
「あのなぁ……普段散々言っといて、急に、そんなありえないような褒め方すんなよ……っつか、俺? 酔ってるから? うわーもう、意味わかんねえ奴……俺は、お前の方が羨ましいのにな」
「え……?」
「あぁだから、その……綺麗とかそういうのもだけど、あれだよ。最初に会ったときみたいに、理屈なしに手を差し伸べられるっていうか……別に報酬とかなんもないのに、知り合いでもないのに、お前、俺も含めてみんなを助けてくれただろ。打算なんて存在しないみたいな、そういう意思の強さが、すげえかっこいいと思ったんだよ」
「そ――」
言おうとした言葉は、熱に遮られて言えなかった。
潮風が印象付けるように香った。
こんな台詞をこの先何度聞くだろう。一生に一度でいい。目に見えるなら、大事に取っておきたい。
「ありがとう」
夜に表情を隠して、やっとそれだけ声に出した。こっちこそありがとうと、トウフウも同じ言葉を返した。遠くから遅いよと、ハヤテとハレーが叫ぶ。
日常が廻れば忘れたくなくても、きっとすぐに忘れてしまうだろう。あの呼び声も含み、全ての記憶は埋もれて遠ざかってしまう。
わかっているけれど、いつかきっと思い出そうと心に誓った。
例えばいつかまた、海を見る日には、必ず。