過去への放浪<2>
医者のくせに根拠のない意味不明な理論を叫ぶし、こちらに向かって今晩は豪華な宴会にするから覚悟しとけ、なんて言う。
覚悟などするわけがない。本当に苦痛なのだ。
魔女になって以来、食事といえば味覚の狂う薬草ばかりで、とっくの昔に空腹感も胃も麻痺していた。よほどでないと食べたいと思わない。例外は料理狂の魔女オリーブくらいである。
しかし俗世に紛れ込んでいれば嫌でも食事をしないわけにはいかず、余計に嫌気が差していた。こんな悪循環は生物としての落ち零れの成れの果てだ。
「悪いけど、別に何も食べたくない。余計なことしないで」
人と食事をするだけで惨めになる気分など、誰にもわかるはずがなかった。
だから子ども達が家に帰ってから、カロンは台帳をつけているトウフウの背中に念を押しておいた。
なのに、こいつは――
「カロン! 早くーはーやーくー、時間がもったいないって~お金も要らないし、大丈夫だって……もー、行くったら行くっつってんだろ! てめえ舐めてんのかコラ!」
夕暮れが訪れて診察時間が終わった途端、押した念などまるで無かったように、出かける準備をし始めたわけである。そして、ぬけぬけと食事に行くぞと言い放った。呆れて言葉もない。
「何でそこまで言われなきゃいけないんだ! 勝手に行ってろ!」
「お前がいなきゃ意味ねぇだろうが! なんなんだよ何が嫌なんだよたぶん楽しいよ早くはやくはぁやぁくー」
「やかましい!」
当然の権利として拒否しても、トウフウが諦める気配は無い。普段はぼーっとしているのにこういう時だけはやたらとしつこい男だ。診療室のベッドに腰掛けて、ハヤテとハレーが退屈そうに言い合いを眺めている。面白くないのはこっちのほうだと言ってやりたい。
「だから、お前がイヤだっていうから、別に豪華でもなんでもない、ただレストランに夕飯を食いに行こうって言ってるだけだろ。それを何でそこまで行かないっていうわけ?」
コートを着込んだトウフウは子どもみたいに顔をしかめて言い募る。こうしていると同レベルになってしまったようで、なんとなくため息が出る。
「だから、勝手に行って来ればいいじゃないか。迷惑な居候なんて居たところで何になるっていうんだ」
「理由になってない! そんなこと思ってたら最初から誘うか! 迷惑だとか、居候だとか、お前が勝手に当てはめてるだけであって、別に誰も……あーもーだからつまり、俺は皆で行きたいの! お前とも行きたいの! わかるっ!?」
「わかる、ってそんな、」
まるで言葉が通じていないみたいに言うことか。
だけど、どうしてだろう。体温が上がる。
「なぁ、別にそこまで拒否することもねえんじゃねーの?」
ぱたぱたとハレーが肩に舞い降りて、内心の動揺を見抜いたように言った。動揺することなんて、無いと思うけれど、トウフウは何故かいつも簡単に心を揺らす。全然計算されていない、馬鹿みたいな本音が直接響いてくる。絶対に、誰にも言われないと思っていた言葉を、いとも簡単に口にしてみせる。楽しいはずないのに。おいしそうに食べられない自分が、一緒に食事をして楽しいはずない。だから一人が一番いい。今更何も感じたりしない。なのに、どうしてだろう? 不思議で、堪らない。
「一緒に食べたって、楽しくないって、わかってるだろ」
ついに自虐とも取れる事実を口にしていた。時々自分が喋れなくなればいいと本気で思う。
そんな醜い思考を溶かすように、トウフウは眉尻を下げて笑った。
「なんだ、それ。お前、いつも好き勝手やってて妙なところで律儀になるなよ。別に楽しくなくちゃいけないなんて思ってない。そんな決まりもない。適当においしいもの食べて、皆で愚痴でもくだらないことでも話してればさ、……うん。俺は嬉しいからいいんだよ」
それでいい? 本当に? そんなものなのだろうか。
保っていた緊張の糸が切れて、急に意地を張ることにも自信がなくなって、小さな声を漏らした。
「そういう……もの?」
「そーだよ」
「ふぅん……」
薄闇に目を伏せる。間を埋めたくて、ハレーを撫でながら自覚する。
知らない。
そんなことすら知らなくて、知らないほうがいいのだと言い聞かせながら、余計に遠ざかろうとしていた。
今はそうした劣等感が取るに足らないものに見えるから――少しだけ自分を許していいんじゃないかとも、思えていた。
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そうして訪れたのは海辺の繁華街にある石造りの酒屋「千鳥」だった。
扉を潜って目に入るのは、不規則に並べられたたくさんの四角と丸のテーブルに、樽やビンの敷き詰められた広めのカウンター、小さな演奏用のステージ。柱に取り付けられた暗めの照明や丸みを帯びた窓のせいか、どこか秘密の地下室めいた造りをしていた。
「クリバラのおばちゃん、こんばんはー」
「あぁいらっしゃい! トウフウ先生とハヤテちゃん、それから――」
「こいつ、しばらく前からうちで子どもを診てるカロン。これは生意気なコウモリ羊。やっと連れてこれたよ。なんだかんだ文句が多い奴でなー」
「ふぅん、そういう認識か。そりゃあ悪かったね。嫌なら別に」
「あー嘘です全然思ってません大変申し訳ないです」
トウフウが人聞きの悪いことを言いながら、店主だという女性と言葉を交わす。クリバラエニシという名の彼女は喜んでハレーの頭を撫で、ふっくらした顔で明るい笑顔をみせた。
「やっぱり噂のカロン先生ね! そうじゃないかと思った。子どもらがよく話してくれるよ。いつもありがとうね、今日はサービスするからたくさん食べていきなよ」
「はい……」
予想外に歓迎されて、戸惑いながら隅のテーブルに案内される。あまり周りに人が居るのは好きではないからほっとした。店内は賑やかで、酒と食べ物と生き物の匂いで満たされている。大勢の声が絶え間なく行き交って、不思議な気分になる。ただ眺めているだけじゃなくて自分もその一部になっている。時々トウフウが知り合いに声を掛けられ、こちらにも注目する。酔っ払いに容姿のことで絡まれそうになっても、トウフウやハレーやクリバラや、不思議とハヤテまで庇ってくれた。
悪くないなあ。
思わず零した呟きを喧騒から拾い上げて、トウフウは嬉しそうに笑う。
「だろ? 酒もいいけど、ここの料理は美味いんだよな~。俺、ポタージュとこの魚のパイがすげぇ好きでさ」
「イヅキ、こぼしてるよ。ほら拭いて」
「あー悪ぃ悪ぃ」
「ハヤテよりトウフウの方が断然子どもだなっ!」
トウフウは料理の味のことだと思ったらしいが、なんとなくそれでいいかと思えた。遅遅とした食事ペースを誰にも咎められないから、久々に酒にも口をつけてみる。一日の疲れに程よい熱が喉を滑り、身体が温まる。カロンは息を吐いた。意味なんてない会話だけが、涼しかった。
「そういや、飲んでも大丈夫なんだろうな。具合悪くならないか?」
「平気だよ。君よりは大人だから」
「はあ? 意味わかんねぇ」
「俺も俺も! おとなー」
「ハレーが大人?」
「あ、ステージで歌ってるね……渋い声。いいな」
「ああ、あの人はイザナギカナデさんって、よくこの町に来る歌手だよ。芸名だったかな」
「なあ……俺、聞いた気がする……」
「……この曲……なんて言う題名?」
「うん? 確か、リスム。意味は、えーと」
「星と雲。〝今宵、星と雲を渡って〟だよ」
ぎゅっと、胸が締め付けられた。