例えば何だったとして<1>
返事を待つ様子もなく、患者を診るそいつの周りだけ空気が違って見えた。異質なのに違和感が沸かない。背景の一部のように馴染んで何もいえなくなる。
だから「わかった」と口の中で呟いて、トウフウは目の前の作業に集中した。すぐ傍の小屋の軒下を借りて応急処置を施す。浅い傷を酒で洗い膏薬を貼り、布を当て包帯を巻き、打撲と骨折を圧迫固定する。骨接ぎは整骨医に任せるとして深い傷を縫う。この時代麻酔薬は存在するにはしたが、やすやすと使える代物でもないから、針を突き刺す痛みには耐えてもらうしかなかった。悲鳴とうめき声を聞き流しながら縫合を終え、薬と布で処置を仕上げながら、トウフウは額の汗を拭う。今は屋根の下だがびしょ濡れのまま着替える暇もなく、寒い。しかし感覚が麻痺し、汗が出た。灰色のローブはトウフウの右前方に膝をついていて、男の傷口を縫っている。手袋をはずした白い手が糸を通す。不思議なことに患者はほとんど痛がっている様子がない。静かで身体の力が抜けているように見える。傷に触れるのに、技術でどうにかなる問題だとも思えないのだが――。
「センセイ、お疲れ様でした」
「あ? はい……」
集中し続け、手についた血を洗い流していたトウフウは、近所の顔見知りの女性に声を掛けられて我に返った。定食屋の美人な若奥様だ。柔らかくていい香りのするタオルを差し出されて当然悪い気はしない。手を拭いながら明日にでも店に顔を出そうかと単純な思考に流されかけていると、彼女はちらちらとある方向を気にしながら言葉を濁らせた。
「あの、それで、あの方はお知り合い?」
「え? えー……うーん……」
雨はまだ降り続いている。強くもなく、弱くもなく、降り止む様子もなく。
馬車は綺麗に片付けられ、事故の痕跡はほとんど消え、患者はそれぞれに行くべき場所へ運ばれた。「あの方」が今治療を終えた怪我人で最後だった。誰かがそっと水の入った桶を差し出して、そいつはそっけない礼とともに手を洗った。この町の人間じゃないことは一目でわかった。だからといって差別するような人々ではないのだが、残ったみんながみんな気にしながらも話しかけられずにいる。それも仕方ないと思う。
異質だ。あれだけ綺麗な造詣をしてそのくせ薄汚れた格好で、医学の腕は驚くほど確かでいて医者には到底見えない。濡れたままのローブで、周りを気にする様子もなく再び手袋をはめている。雨を見る。そのまま行ってしまうつもりかと、確信すると同時にやっと声が出た。
「待った! あんた、医者なのか?」
ぼんやりと遠くを見るような不思議そうな目がこちらを向く。ああ――綺麗で、底が見えなくて、暗くて、どこまでも落ちてゆけそうだ。トウフウは視線をそらしたいのをぐっと堪えた。
「いや」
返事はくれないか、言葉が違ったかと危惧した途端に、短い返答があった。そういや会話は通じていたっけ。僅かに面白がるような光が目に灯っている。みんなが息を殺して注目しているのがひしひし感じられる。なんもおもしろくない。やめて。ホントに。
「じゃあ、その……えっと、……なに?」
わけがわからなくなって、わけのわからない問いを発していた。そいつは口元に手の甲を触れさせながら噴出した。
「なに……ってさ」
ひとしきり笑ってから、満足したように口元を緩め、目を伏せる。
その表情に、顔の熱が一気に冷め、息を呑んだ。なんで。
「……悪魔」
なんで、そんな顔で、誰のことも見ないで、笑って、言ったのだろう。
胸がつまって声が出なかった。その間に、そいつはなんでもなかったかのように雨の中に出て行った。誰も引き止められないまま。濡れて消えてしまうように。
大体いつだって、謝らなければと思ったときにはもう遅い。
後悔って言うのは都合がよくてキレイな言葉なんだ。
※
夕方になっても雨はしとしとと降り続き、トウフウの診療所にはぽつぽつと絶え間なく患者が訪れた。昼の疲れがどっと出て、身体がだるい。もう看板をおろしたい。なのに助手の居候の少年、ユキナリハヤテは優しくない。
「イヅキ、さっさと帳簿書いてよ。次つかえてるから」
「代わりに書いてー」
「別にいいけど、診療所たたむ手伝いならしねえよ」
「へい、もーしわけござーません……」
冷たい目と言葉を頂き、トウフウはだらだらと文字を綴った。まだ診断待ちがいるらしく、ハヤテは待合室に呼びにいく。空元気で営業スマイルを作った割りに、最後の客はどうでもよかった。
「飲みすぎですお気をつけて」
「一目も見ずに追い返すの止めろよトウフウ」
「嫌なの! 俺は断固嫌だ! 今日はてめーの具合なんか見てたまるか!」
「ひどすぎるよ」
彼女のいない軽薄男の代名詞、ハルサキナミキを罵倒し、トウフウは机に頬杖をついた。顔も頭も雰囲気も何もかも軽い幼馴染は、毎日のようにくだらない症状を訴えては診療所にやってくる。別に金を払わないというわけではないのだが、もう面倒くさい。医者にも患者を選ぶ権利はあるはずだ。
ナミキは勝手に椅子に座ると、へらへら喋りだした。
「センセイー。頭痛くって」
「俺のほうが痛い!」
「なんでだよ」
「頭痛の種が目の前に居るから」
「うまいこというなよ。ていうか薬くれ、いつもの二日酔いに効くやつ」
「めんどくせえな……ハヤテ君〜適当にお願いします」
「うわ最低としか言いようがないっ」
ドライな感じで傍に控えていたハヤテが、トウフウではなくナミキをじろっとひと睨みして出て行く。「こえーな相変わらず」とナミキは笑い、座ったまま会話を続けた。
「今日、馬車の事故あったんだって?」
雨と、閃光の瞬間が脳裏に反芻されて喉の奥が少し絞まる。
「あったけど、何か聞いたわけ」
「いやーちょっとだけど、お前また無駄に張り切ったんだろうなってさ」
「いやいやお前ほど無駄じゃないし」
「いっぱい死んだの?」
「ん……? いや、今日は、別に」
「じゃあ、何そんなに落ち込んでんの?」
予想外の質問をされて、トウフウは何度も瞬きをした。落ち込んでいる。落ち込んでんの? 俺が? 「何で?」と短い声を出すと、ナミキは眉間に皺を作った。
「だってトウフウ、落ち込むと機嫌悪くて、機嫌悪いと俺の診断しないじゃん」
そんな基準か。
やっぱりこいつはアホ野郎だと確信しながら、トウフウは頭を掻いた。外れているわけじゃないから、話してみてもいい。犬に愚痴るような感覚だ。
「……失言したような気がする。結構、ひどい」
「ふーん。珍しいね。でも、だったら謝ればいいじゃん」
「どこの誰かもわかんねえんだよ。そんなのどーやって」
「探せばいいじゃん。気が済むまで」
窓の外は雨のせいで、夜の帳が降りている。火を起こしたくなるような寒さが足元からくる。トウフウはうつむいた。
後悔するのが苦手だ。悩むのが苦手だ。何も出来ないのが苦手だ。誰かの苦痛が、苦手だ。
偶に、そんな苦手が全部圧し掛かってきて何もかも放り出したくなる。放り出した後のことを考えて、寂しくなって堪える。必死で抱えた大事なもの放り出して、楽しいわけないだろ。
「なるほどな。じゃ、そうする」
目が覚めた気がした。ナミキやハヤテの声を素通りして、傘だけ持って診療所を飛び出す。急に周りが暗闇に包まれて、足元で泥水が跳ねて舌打ちが漏れる。冷たい。あいつ、傘も持ってなかったのに。
家々の明かりだけを頼りにして、さあさあと、一生止みそうにない雨の中を走ると息があがった。思えば何がどうでも、あいつは助けてくれたんだ。俺だけじゃなくみんなを。なのに、お礼の一つもしないで、何をしていたのだろう。あいつもそれを当然のように振舞って、痛さを笑って、濡れたがるみたいに去っていった。
謝罪ぐらいさせろよ。人の痛みくらいわかるよ。そこまで馬鹿じゃねえって――……
昼間事故のあった小屋まで辿り着いて、あいつが歩いていった方向に行き、知り合いに灰色のローブ姿を尋ねてはあちこちを探しまわった。門番に聞けば、怪しい証言だが出て行ったとも言わない。疲労で身体は痛いし暗くて人か物かの判別もつかない。この町がこんなに広いと思ったのは初めてだった。止めたいのに諦めが悪い。情けない気分になる。時間だけが無常に過ぎていく。
ちょっとだけ、笑えた。
もしかしたら全部妄想だったりして。
そんなわけないか。
「風邪、ひくぞ」
だって、小さな駅の隅に隠れるように座っている灰色のローブを見つけた。人影は顔を上げて、小さく笑った。
「悪魔は風邪をひかない」
息がなかなか整わなかった。雨の音が静かで、明かりなんかないのにぼんやり相手が認識されて、綺麗だった。
「とりあえず、ごめん」
「なんで謝るの?」
「悪いことしたから」
「勘違いで探し回ったんだ」
「じゃあ、自己満足でいいからさ」
座り込んだままのそいつに手を差し出す。そいつは曖昧な笑みを浮かべてただ見ている。
「トウフウイヅキ。医者。二十五歳。寝る場所くらい、貸してやる」
「自己満足というよりお人好し。同情かな」
「謝罪と、心配と、礼と、好意」
「……」
初めて言葉に迷う仕草を見せた人影は、もう異質でもなんでもなかった。こんな夜には、ただの冷えた小さな塊に過ぎない。
「……悪魔は、君も周りも全部不幸にするんだけど」
「なら、事前に教えてくれるなよ」
案外間抜けな悪魔だと、思わず笑ってしまった。
差し出したままの手に、冷たい感触が重なった。カロンだよ。それは一瞬の重みが教えてくれた名前だった。