空裂く声 -met you in rain-
短く声を掛けられて久々に顔を上げた先に、海と町があった。
山の麓に建物群が白く広がり、光を受けた斜面と浜は小さく霞む。
遠い。
町は頼りなく蜃気楼のごとく、瞬き一つで消えてもおかしくない距離にあった。
長いこと歩き続けて足の痛みなどとっくに麻痺していた。倒れることさえ面倒だった。立ち止まって、また歩いて、座り、立ち上がって、前を向いて、息をして、そんなことをひたすら繰り返して。
足の向くままに町や村を渡り歩き、森や川辺を彷徨った。変わり行く季節の中に身を埋めて、通り過ぎる命を見送った。考えることなどほとんどなかった。たまに空っぽな心を想像して、少し違うのかとわかりもしないことを思った。
「ちょっと、休んでいこうかな」
「お金あんの?」
「どっかで無くした」
「だったよなー……なにやってんだか。ま、いいけど。よくないけど……」
村ではないが、街というほど栄えてもいない穏やかな雰囲気の町を見つめて呟く。少し疲れたのかもしれない。
黒羊の人形の頬を指先で撫で肌寒い風にローブの前をかき合わせた。岩と枯れ草ばかりの斜面をゆっくりと下る。
鈍い蒼の海面が、果てまで続いて空と混じり合っていた。
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思い出す努力をする必要もないほどよく覚えている。そいつを見つけたのは、立ち込める雨の匂いの中だった。
「あー……重い」
トウフウは不平と嫌な予感に思わずぼやいた。
診療所を出たときは晴れていたのに、中央通りで食料やら医療品やら生活雑貨やら大量の買出しをなんとか終えた途端に空は雲行きが怪しくなった。自然と気分も下降してくる。
ここは春の町と呼ばれている。大体いつも気候の穏やかな海辺だ。この時期、急に雨が降り出すことはよくある。そしてトウフウがそれを予測できずずぶぬれになることもまた、よくあった。生まれたときから住み暮らす故郷だが、人の勘は成長しないというわけだ。
冷静ぶってみてもなんだか非常に空しい。まだ肌寒い季節で、またずぶぬれかと馬鹿にされるのも勘弁して欲しいと、トウフウは足を速め腕の重い荷物を抱えなおした。
「うわっ!」
――手が滑った。
抱えなおした途端に袋が傾いて、ばらばらと芋やら果物やら包帯が飛び散る。やばい。アホだ。慌てて拾い集めるが後の祭り、くすくすと笑われ、先生気をつけなさいよと屋台のおばちゃんに思い切り子ども扱いされる始末だった。これでも医者、二十台も半場を過ぎて情けないったらありゃしない。
ははは、と空しい誤魔化し笑いをしながらトウフウがこれ以上無い素早さで散らばったものを拾い集めていると、ふと道の壁際に行き当たった。少し形の悪いオレンジを、拾い上げる手。手袋は焦げ茶色だ。道端に座り込んだままの、灰色のローブの小柄な人影だった。
「あ、どうもすんません……」
被ったままのフードから零れるのは短めの白髪で、年配浮浪者だろう、ばつが悪くて口早に礼を言いながら果物を受け取り、トウフウはさっさとその場を立ち去ろうとした。
そうだ。生ぬるい風とともに弱い雨が降り始めなければ、確実にそうしていただろう。けれど、まぶたに掠める弱い感触が視線を空に引き寄せた。
「降り出した」
とうとう雨が落ちた。少しざわつき急ぐまばらな通行人を見る。どうすべきか迷い、それに急に座り込んだままのその人が意識される。まだ寒いのに、雨に濡れて大丈夫なのか。トウフウは自然とそちらを向いていた。
同時に、人影は顔を上げた。目が合った。
その青白い頬を涙のように、一筋雫が伝った。向けられた優しげな微笑は、深森の泉のように静謐で胸が締め付けられた。
「空が、割れる。早く行ったほうがいい」
深い茶色の瞳が、途方もなく甘い。
滑らかで歪みのない輪郭と形のいい唇、すっきりした鼻、肌は繊細で雪のようだ。薄汚れてもさらりとした触れ心地のよさそうな白い髪。
空気に混じって消え落ちそうな、落ち着いた声音に全身が縛り付けられた。自分の目が信じられなかった。だってありえないだろ? こんな道端の誰も気づかないところに、こんな、冗談みたいな綺麗な――男? わからない。判断できないけれど。
「あ」
自分でも何を言おうとしたのか、わからない。そのとき白い閃光と共に耳をつんざく轟音がしたのだった。
空が、割れる。思考が飛ぶ。陶器を何千個も同時に割ったらこんな音になるのか、それとも世界は終わったのか。急に強まった雨と唸る遠雷。身体を揺らす振動。冷たい布の感触。浮遊するような感覚。
天使がいた。今みたいに、割れた空から落ちてきたのか。だったら――
目を閉じたはずなのに印象的過ぎる白い顔だけが脳裏にこびり付いて、自分がどこにいて何をしているのか、それすら見失っていた。
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「近かったね。落雷」
「あ、あんた」
そして何であろう、トウフウを我に返らせたのも、そいつだった。
閃光で麻痺した目が正常に戻り、改めてその横顔を見てもちょっと動悸がした。初見よりマシだがまだ見慣れない。服装や口調や体つきから男だと思われるが、自信が持てない。なにしろそいつはそれほど綺麗だったのだ。
「一体、こんな所で何して……つうか、何で、さっき……?」
「――い! 先生っ。トウフウ先生!」
「へ?」
センセイ。先生? 自分のことを呼んでいるのだろうか。思わず間の抜けた声が出る。
「大変! 馬車が横転して、いっぱい怪我人が……!」
「っ、どこ? すぐ行く!」
だが悲鳴に近い声を聞けば、一瞬でそれ以外の意識が飛んだ。今の落雷で馬が驚いたか、実際に被災したのか。後者でなければまだ救いがある。
果たして、呼びにきた女性に着いていった先には、横倒しになった乗合馬車と負傷者の姿があった。焼け跡は無かったからまずは胸を撫で下ろす。だがざっと、二十人近くが雨の中に座り込み、倒れている。
「動かさないで! 意識のない奴は? 出血のひどい人も!」
負傷の優先順位、水、布、薬、助手、運べる場所。いっぱいいっぱいの頭でなんとか指示を出す。こういう時一つしか身体が無いのが本当にもどかしい。あせるなと自分に言い聞かせる時間さえ口惜しい。雨が邪魔でたまらない。子どもの泣き声が雨と張り合っている。
泣く男児を母親らしき女が抱えて泣きそうな顔で訴えてくる。母親の身体は傷だらけで服に血がべったりと付着していた。
「この、この子を! お願いしますっ……」
「――大丈夫、それよりあなたのほうがよほど」
「こんなに泣いてるのに、何かあったら!」
「血が……! そんなに動いちゃいけない! いいからその子を下ろして」
「お願いです! 私はいいから!」
どうしたらいい。
母親は半狂乱で、トウフウは説き伏せるべき言葉が頭から飛ぶ。見たところ子どもに異常は無いし、泣く元気があるなら最悪ではない。母親は満身創痍で顔色も青白い。どこにそんな力があるのかという剣幕なのだ。今すぐにでも治療しなければ危ういというのに――
「大丈夫、平気だよ。お母さんが心配なんだね」
「え?」
ザアザアと降る雨が強い。痛いくらいだった。
それなのに刹那、柔らかな涼風が脇を通り抜けた気がした。
灰色のローブには見覚えがありすぎる。フードを被ったままのそいつはすぐ傍に跪いて、男児の額を撫でた。混乱を解くような透明な声で、短く語りかける。泣き声が弱まり、やがて治まってゆく。慎重に、だが素早くその手が男児を母親から抱き取った。そして救援してくれていたまた別の町人の手に渡される。安堵と緊張のあまり崩れ落ちそうな母親の肩の辺りを的確な処置で圧迫しながら、そいつはこちらを見ないまま、微かに唇を吊り上げた。
「大変そうだから手伝ってあげるよ」
今回から春の町になります。気軽な感じで楽しんでいただければ嬉しいです^^