白の騒動<1>
灰色の町だった。分厚い雲が頭上を流れ、花崗岩が足元に細々と敷き詰められている。砂に沈んだような無機質な建物群から覗く明かりや飾りが、思い出したように色彩を持つ。今にも雪が落ちてきそうな空気が流れていた。
質実剛健。そんな印象を抱かせるこの場所を、人々は冬の街と呼ぶ。
「ここが、メルがいるかもしれない街か」
「そのはずだよ。デッドキーパーに聞いたら、少なくともここにメルさんの知り合いがいるって」
被っていたローブのフードを僅かに捲り、シリウスは呟く。
星の森から、馬車と徒歩で、町や村を渡り歩き時には野宿でここまで放浪した。決して楽な行程では無かった。隣で混ぜ返すアンクの横顔は少し頬がこけている。満足に眠れず、食事に余裕はなく精神的にも休まる暇が無い。いつの間にか服の色も所々褪せ、汚れが目立つが自分も似たようなもだろうとすぐに前を向く。
「メルの知り合いは、魔女、魔術師……って言ってたね」
「うん。でも、住居は貴族の人の屋敷なんだって」
「ああ。魔術師を保護する貴族か。どんな人だと思う」
「怖い人」
「わかる?」
「雰囲気……この街の人の意識の中では……。陰鬱で……情が無い。容赦無い。不気味で、穢れている。罰当たりであり、恩知らず……けど、その分侮ってはならない」
アンクが不意に目を宙にさまよわせ、ぶつぶつと途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
この周囲の人々の意識の一部を拾い上げているのだ。本来あまりよくないのかもしれないが、その精神魔術の能力のおかげでここまで来れたのは確かだった。もう完全に子どもではないとはいえ、まだ大人でもない。そんな二人が初めて旅をするのに、世間は甘くなかった。隙を見せれば襲われそうになり、親切の裏に詐欺を潜ませる。シリウスは警邏経験と本来の身体能力のおかげで護身の腕には定評があったが、それだけではとても乗り切れなかった。
シリウスは甘いよね。
一度、親切だと思い込んだ少女に荷物を盗まれそうになった時に、アンクはため息と共に言った。申し訳なさはあったが納得は出来なかった。
だってそれは、本来当たり前のことではないのか。アンクのように心を読めるほうが特殊なのであって。嘘と本当、信頼のラインなんてそう簡単に割り切れるものなのか。
――じゃあ、アンクは俺が本当に信用できるって、思ってる?
問うてから後悔した。
今更試すようなことを言って、魔術を差別する発言をした自分自身に怯んだ。
表情に出たらしくアンクはおかしそうに笑って答えた。
「そういうところ。間違いとか、弱さとか、後悔とか迷いとか、本当に感じられたら信じられるよ」
なんてことを言うのだと、アンクの性格の悪さに辟易したが、心の中で反省だけはした。魔力は無くとも人の心の機微に敏感になることはできる。いくらアンクがいたって、思考と責任を放棄するのはただの惰性だったのだ。誰にも全部見通せるわけではないし、それじゃあいつまでも変われないままだ。
「ま、自分の目で確かめるまではわからないけど……この先だ」
「カサブランカ家ね。どんな人たちかなぁ〜」
街路の終わりに辿り着くと、木々囲まれた鬱蒼とした道が現れた。木といっても色あせた針葉樹と枯れ木が連なり、道の微妙な角度で先が見通せない。広い道だけが妙に無機質に林を切り開いている。本来馬車で通るのだろう、車輪の跡が薄っすらと刻まれていた。
寂しい風が吹き抜けるだけの道は永遠に続くような錯覚を抱かせ、いつしかシリウスの呼吸を乱れさせる。街の中から一足に隔離された場所に心が落ち着かない。先が見えないからなのか。星の森とは明らかに異なる、弱まり支配された冷たい自然がこの先にある屋敷に次々に重いイメージを付加させる。足が重くなる。自分の呼吸音がどこか別の場所から聞こえてくるような気がする。
あの人はいるのだろうか。この道の先に。会ったら何を言えばいいだろう。何か言えるだろうか。何を言いたいだろう。
考える。例えば旅をして、少しだけわかった世界のこと。優しいばかりじゃない、生きていくことの難しさ。知らないことの多さに愕然とし、思い通りにならない現実に疲弊する。
それがあの人の経験したものとは限らないけれど、最近あの人のことを考えるたびに思う。シリウスにもアンクにも古登の村という故郷があること。温かい故郷があるおかげで、辛い旅にも一定の余裕を持てる。
もし本当に辛くなったら帰ればいい。そう思うからこそ頑張れるし先へ進める。
――メルには、そういう場所はあるんですか。星の森には、誰もいないのに。あんなに苦しがっていたのに……
顔を上げると、ようやく遠くに黒塗りの門が見えた。わずかな緊張に胸に手をやり、祈りに近い気持ちを抱く。
もし出来るなら、あの場所がメルにとって安心できる場所でありますようにと。
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「……今更だけど、まずいって、絶対……」
「あはは〜今更今更。もう遅いよー」
そしてシリウスはこめかみに手をやって顔を引きつらせた。笑っているアンクの気が知れない。これでよくふた月近く二人でやってこれたなと改めて頭痛がしてくる。それくらいよくない状況だった。
まず、陰鬱な林の道を抜けて重厚な門まで辿り着いたのはよかった。
しかし当然のように門は閉ざされていた。見たところ鍵はついていないが押しても開かない。予想してしかるべきだったとシリウスは愕然としたわけである。そりゃあ客が来る予定がなければ開けっ放しにするわけが無い。だが、それでも慌てないのが相棒の相棒たる所以だった。
「門なわけだし、開くよね?」
「え?」
「うん、せっかく来たんだし、このまま帰ってもどうしようもないし、開けるしかないよね?」
「え?」
「えーと――ingsT+`→……」
「え?」
聞き取れない文言とアンクの体内から発する独特の波動でやっと事態を飲み込めた。要するに遅かった。集中とともにアンクの杖から放たれた風の魔術が門を直撃していた。
後ずさりしそうなほどの金属音がシリウスの思考も一瞬破壊した。とはいえそのまま放心しているわけにもいかなかった。
「え。ええええ! ちょ、何してるんだアンクーー!?」
「自己流だけど、風弾」
「俺がそういうこと聞いてると本気で思ってるのかっ?」
「どうかなー??」
「くっ……あーもう……!」
天然に見せかけて実際結構天然だが捻くれて複雑でもあるというなんとも厄介な幼馴染に悪態をつき、シリウスは門に駆け寄った。壊れていないだろうか。壊れていたらどうしよう。弁償など出来る当てもないし、いっそ逃げるか……と逃避しかかっていたのだが、
「ん……? 全然、大丈夫だ……」
「えー?」
残念そうなアンクの声は黙殺し、恐る恐る門に触れて確かめてみる。幸い、びくともしていない。相当派手な音がしたのに、アンクが未熟だったせいだろうか。しかし、メルに才能があると言わしめたアンクで、死蝶遣いの魔術と比べても遜色無い程の感覚ではあったのだが。
そしてすぐに、そんな思考も途切れざるを得なかった。
直接門に触れた手に伝わる覚えのある感覚にぎくりとする。もしかして、これは……。
「魔術による、封鎖、か?」
死蝶遣い、エマ・ジェネルとの戦いの際、シリウスは一時家に閉じ込められたことがある。あれもメルが使った魔術だった。その一種ではないかと、意を決して体重をかけると、案の定嫌な痺れを伴ってゆっくり扉が開く。
「流石シリウス! これで入れるね」
「じゃなくて! だから勝手に入ったらまずいだろ、アンクっ……」
止める間もあればこそ。そうしてなんとも情けない、冒頭の状況に戻るわけである。