意志と選択の旅路<2>
ずっとぬるま湯の中にいたら、こんな感覚になるのだろうと思った。
例えば、とっくに春が訪れた冬の街でまどろんでいれば、時間すら霞む。
――メル・カロン。帰らなくていいのか?
いいよ。いいんだ。
――メル、ずっとここに住むの?
いいや。住まないよ。
――何かあったのかしら。
ないよ。なぁんにもない。
――お前の中の闇の色が褪せたな。
わかったような口をきくね。
時に若く美麗な当主の声を聞き、劣悪の魔女に取り合い、オリーブの料理を貪り、ノヴァと悪魔と問答する。
緩慢で止まった空間の中にいるような、ただ消費し過ぎることを目的とするだけの日常の中にたゆたう。
魔術など滅びればいい。滅びてしまえ。許さない。骨は絶対に渡さない。
確かに、メル・カロンという魔女は強く深くそう思っていた。強迫観念に近く、自分を壊した全ての終焉を歪んだ心の底から渇望していた。
今は、その気持ちさえ続かない。己でも理由を知りたいと思う。時は絶望すら崩して風化させるものなのか。全ての思いが消え去った跡に何があるのか。もしかしてそれこそが「答え」なのか。
「メルー、見て見てっ! 性別破滅を引き起こす物体ができたかも??」
「……。なんだよその気色悪い明らかに呪われたみたいな腐敗物は……」
「えへへ♪」
「一瞬たりとも褒めてねえから!!」
マフィー・リーフィーが相変わらずの錬金物を披露し、ハレーがじゃれあっていても意識はどこか遠くをさまよう心地だった。
そこから抜け出したいかどうかもわからない。気分は悪くない。恐れていたものは実現すれば、それもまた希薄になるのか。
「ねえ、ハレー。星の森に帰りたい?」
曇りの朝に、部屋の中から遠くの雲海を見つめながら尋ねる。春になっても夏がだいぶ過ぎても冬の街から一歩も出てはいない。初めての長期滞在になるが、ミザミ・カサブランカは決して白の魔女を追い出さない。他の魔術師たちも本気で他者に干渉することは無い。
ハレーは視界を遮るように窓枠に舞い降りた。
「俺が帰りたいって言ったら帰るの?」
「うん……」
その姿を器用だなと、思う。
器用だ。人形だから表情を作ることなんて出来ないはずなのに、ハレーは自分よりもずっと表情も感情も豊かだ。それにほとんど何も出来ないはずなのに決して卑屈にならない。弱さを知る強さほど、得がたいものは無いと柄にもなく感傷に浸る。
逆に強さだけを知る弱さはどうなのだろうと考えれば、すでに卑屈な気分になる。
「じゃあ、帰りたい……よ。ここも悪くは無いけどさ。俺は星の森に帰りたい。ちゃんと、言ったからな」
「ああ、うん……」
あの人の幻覚を見た。触れられそうだった。どろどろに溶けていきそうだった。なのにまた狂えなかった。死にもしなかった。あの人が死んでいた。死ぬはずが無かったのに死んでいた。あの時のまま死んでいた。あの瞬間に私は壊れた。
「じゃあ、帰ろうか」
急にそうしなければならないような気がして、持つものも持たずに冬の街を飛び出した。帰らなきゃ。ハレーがそう言ったから。早く帰りつかないと。
森に辿り着く頃には初秋になっていた。
もう木々は葉を思い思いに成熟させ、涼しい風が強い日差しを妨げようとしている。濃い緑の懐かしい香りがして空気を深く吸い込んでみる。胸が苦しくなって、家までの道のりを早足に急いだ。
決して故郷ではなかった。始まりの孤城も星の森もそんな感覚にはならない。どこにもない春の庭を夢見ることはあれど。
森の狭間にぽっかりと出現する広場も、古い井戸も、ほとんど即席で悪魔たちが造り替えた家も、ちっぽけで大切な薬草の畑もなにもかも、本当の居場所だと実感したりは出来なかった。なのに帰ってくる場所はここしかない。星を探しにきたと言ったあの人が、居なくなってからずっと。
「家ン中……汚れてるんじゃねえの?」
「かもね。しばらくはそのままでいいんじゃない」
「ええ俺嫌だよ! ちゃんと片付けろよっ」
ハレーと一緒にほんの少しだけ高揚した気分になり、久々の扉の感触を確かめながら押し開ける。書物の黴の香りがする見慣れた大部屋の光景に、ふと立ち止まる。わかってしまう。
「メル? どうかしたか?」
不思議そうな悪魔人形の声を無視してぼんやりと室内を確認した。気に入っている大きなテーブルも日の踊る作業台も様々な薬草のビン達も、安堵と静寂を心に落とす。いつからだろうと思う。一体いつからそんな風に思うようになっていたのだろう?
「許されるわけがないよね」
奥へと続く廊下を見ながら呟いてみた。声に出して後悔して、後悔するために言葉にしたのに、寂しいほどに可笑しい。
居場所を見つけて安堵するなんて、まるで幸せみたいじゃないか。許されないことじゃないか。
「メル……ちょっと、さ……これ」
「ん?」
ハレーの声に呼ばれて振り返る。視線を巡らせば、玄関扉の左側にある窓の隙間に紙が挟んであるのが見えた。
なんだか差出人がわかる気がして、とくんと心臓が波打った。出来れば読みたくないから、ためらわずにさらりと開いて目を通した。
「あははっ……」
「……別に、笑うところではねえと思うけどな」
「だって、さ」
――元気ですか。体調はいいですか。
あいたいです。また、会えますように――
「眩しいくらい、そのままなんだから」
深い穴の底に紛れ込んだ一条の光みたいだった。綺麗だが大人ぶっても子どもで、脆弱で、負けず嫌いで、嫌になるほどまっすぐで。あの子の好きだという気持ちが、間違いだと早く気づいてくれることを願う。深く関わったことを謝りたいと思う。
「あのとき、そんな風に笑ってやればよかったのに」
「馬鹿みたい」
浮かんだ笑みをそのままに、手紙を燃やし、床に座り込んで目を閉じた。
遠くへ行こうと思った。
ここを離れよう。今なら行ける。
そして知らない場所へ行く。
この心の中の全てが風化してしまうまで。
「ハレー、旅に出よう。もう帰らないかもしれないけど」
「……メルが、そうしたいなら――」
マフィー・リーフィーが置き捨てていったものから作った性別破損の耳飾り、デッドキーパーとの取引の金、少しの生活用具を持ち、ずっと伸ばしていた白髪を切り落とす。軽く短くなった髪にローブのフードを被り、塵の杖は持たずに木の杖を手にとって外へ出た。
風の香りも森の色も空の様子も変わりなかった。
どこにもない自由の幻が見える。
そうして変わりないものだけが無性に愛しいのだと、思った。