夢の沼<6>
ドアが閉まるのを確認すると同時に、テーブルに身を投げ出して震える呼吸を繰り返した。
吐き気がして、目覚めているのに幻覚を見そうだった。
「……あ、の、とき……、……」
もっとためらわずに早く殺しておけばよかったと後悔する。どうしてだろうと無意味な問いが浮かんでくる。あの子がいたから。結果的には同じことなのに、煮え切らない無様な誤魔化しをしようとして、結局こんな目にあう。要するに馬鹿な自分のせいなのだ。
もう何日眠っていないだろう。
ずるずると手を引き戻し、椅子の背に体重をかけて立ち上がろうとする。
覚えていない。恐ろしくて眠る気にならない。だがもはやいくら魔術で誤魔化そうとしても、頭痛も吐き気も容赦なく身体を蝕み始めていた。何かを食べることなど到底出来ない。
目の前が白く染まり、眩暈と吐き気で床に這い蹲った。崩壊寸前の理性で這ってほんの少しずつ寝室へ移動する。
苦しい。苦しくてたまらない。
苦しいと、生きていることを実感する。生きていることを実感すると、罪が心を蝕み始める。心を自覚すると運命が存在を嘲笑しはじめる。
惨めだね――みじめだね――なんて意味がないんだろう――なんて哀れなんだろう?
思考を強制的に押さえつけ何分もかけて寝室に辿り着き、ドアを押す。縁を掴んで鏡台の上を手当たり次第に探る。美用品が倒れ、ビンがいくつか床で割れて辺りを汚す。薬。なんでもいい。夢さえ見なければなんでもいい。無いんだ。無い。分かっている。何度も確かめたからとっくに知っていた。
意識が途切れてしまいそうだった。あせって、ごちゃ混ぜにしたビンから薬をいくつも取り出し、口に詰め込んだ。壊れてしまえば何も見えないだろうと思った。ひどい味と異物感に咳き込んで大半を吐き出した。
そうして目を閉じた先に、ざらざらと揺れて震える闇がどこまでも続いていく光景が広がった。
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「ぉうい! シリウスか?」
「ハレー?」
村に帰る気にもなれないシリウスが、メルの家から少し外れた森の中で座り込んでいると、聞きなれた甲高い声が名前を呼ぶのが聞こえた。立ち上がって黒羊の姿を探すと、頭上に生い茂った木々の隙間からハレーは舞い降りてきた。
「久しぶりだなっ。どうしたんだこんなとこで?」
「あ、いや……えーっと……」
ほんの少し、いや、だいぶ答え辛い質問ではある。メルに反発して家を飛び出したのはいいが村まで帰る気にもならず、ぐずぐずしていた。悩んでいるうちに何か魔女の家に戻る理由が見つかればいいと思っていたかもしれない。
答えるのを諦めて質問を返した。
「家に行った後、まあ、ちょっと散歩のような。ハレーは何をしていたんですか?」
「ぅえ? 俺は、その、薬草を探して……ていうかそうだよ! メル、大丈夫だったか……?」
「え? どういう意味ですか?」
予想外のことを聞き返されて瞬きをする。確かに少し顔色は悪かったが、特別ひどく体調が悪いようには見えなかった。ふざけて軽口を叩くのもいつものことで。いや、だが――。
本当にそうだったのかとはじめて疑惑がわき起こる。
だって例えば彼女は誰かにそう簡単に弱みを見せたりするだろうか。シリウスにも悟られるほど?
それに今日に限って早々に追い出された事に意図は無かったのか。第一に杞憂ならなぜ、彼女の相棒である悪魔人形はこんなに真剣なのだろう。
次々に怖い想像が頭をよぎってシリウスはハレーに詰め寄った。
「もしかして、メル、すごく具合が悪かったんですか……!?」
「え゛、それは、その、」
歯切れの悪い、ハレーの困り顔が答えだった。青白い顔のメルがはっきり思い出され、シリウスは少し癖のある金髪を思い切り掻き混ぜた。
「ああもうどうして! そんな大事なこと何も言わないで――!」
「仕方ないだろっ、あいつは」
「仕方ないっていう言葉が仕方ないです!」
「おいっ?」
もうだめだと吐き捨てるように叫ぶと同時に、来た道を全速力で駆け戻っていた。木の根や草を踏みつけながら、どうして気づいてあげられなかったんだろうと悔しさで顔が熱くなる。あの人は何も言わない。何もしない。全て自分のためだとそ知らぬ態度で身代わりになるだけで。勝手に遊びに来る自分のことも、咎めないのだ。
言えばいいじゃないか。
責めればいいじゃないか。
魔女だというのなら人のせいにして、押し付けて、迷惑をかけて、笑えばいいじゃないか。
どうしていつもこんな気持ちにならなくちゃならないんだろう?
「メルっ?」
そんなに距離は無かったはずなのに彼女の家までがやけに長く感じられた。ドアを開けて名前を呼んでも返事はなく、大部屋には誰もいない。石のテーブルの上でコップに入った氷水が空虚に溶け出している。奥の廊下へと続く扉が中途半端に開いていて、静寂と薄闇がしんと覗いている。
シリウスはいつの間にか浅く早くなった呼吸を繰り返しながら、そちらへ歩を進めた。一歩進むごとに足が重くなっていく感覚。廊下の影に染みが見える。あれは、零れた水――?
「ひくっ……」
身体を引きずるようにして寝室へ辿り着いたシリウスは、思わず短く喉を鳴らした。零れているのは水ではなく、ビンに入っていた何かの液体――
例えば化粧品、そして薬だ。
ビン自体や破片がぐちゃぐちゃに散乱している。白い手がその中に混じっている。ガラスの破片で皮膚が切れて薄く血が出ている。
動かない。
白い手は、床に投げ出されたままそこにあり、ぴくりともしない。その手は誰のものだろう。チョコレート色の、質のよいローブに包まれた身体が当然繋がって、ベッドにも上がれぬまま床で、蝋のような顔色をして、まるで命が尽きてしまったひとがたは
イヤダ。カンガエタクナイ。カンガエラレナイ。イヤダ、イヤダイヤダ
あまりの光景に自失していたそのとき、後頭部に強い衝撃があり、そして搾り出すような金切り声がシリウスを無理矢理現実に引き戻した。
「っ、メル! 大丈夫か! しっかりしろよ! 何やってんだよバカ……!」
「は、ハレー」
「助けろよ早く、シリウス、ぼーっとすんなっ! お前できるだろ吐かせろ薬を!」
「わ、かった」
追いついてきたハレーはメルに飛びつくようにして何度も名を呼んだ。
シリウスはとにかく動かないメルを抱き起こして背中を強く擦った。微かな体温と震えが手に直接伝わって、彼女が確かに生きていることを証明する。馬鹿じゃないのか、死んだりしないと心の中で強く唱えながら歯を食いしばる。動かされたことでわずかに意識が戻ったのか、それともハレーの声に反応したのか、彼女は呻き、身体をくの字に折り曲げた。
「うっ、え」
「吐いていいですから、大丈夫、だいじょうぶです、おちついて、」
ハレーが引きずってきた布をぎりぎりで受け取って広げると同時に、メルが咳き込み嘔吐した。溶け出さない薬や胃液ばかりでほとんど吐き出すものもないことに涙が出そうになる。苦しげな咳と声が鼓膜に刺さる。
「はっ、はぁっ、ふっ……ひくっ……」
「メル、落ち着けよ、聞こえてるだろっ!」
吐いてしまったものをシリウスが拭う間も、ハレーが何度も呼びかける。だが聞こえていないのか、彼女は荒い呼吸を繰り返し、冷たい身体で震えていた。いつの間にか薄目を開けてどこか虚空を見ている。声にもならないような悲鳴が部屋を満たし、シリウスは思わず彼女の身体を強く正面から抱きしめた。
「大丈夫だから、しっかりして!」
あのひとが、あのひとが、あのひとがアノヒトがアノヒトガアノヒトガアノヒトガ壊れて死体あのひとがあのひとがアノヒトガ
叫び、爪を立て暴れて吐けないのに吐き、呼吸を詰まらせ喉を掻き毟ろうとし、もう滅茶苦茶だった。見えない何かを見ていて、アノヒト、と何度も何度も悲鳴を上げた。
嘘だ。
嘘だと、限界が来て意識を失うまで、メルは叫んだ。
シリウスには誰のことだかわからなかった。
わかったのは、体温を通して直に響くぼろぼろになった心だけだった。
だからシリウスは決して離すまいと、彼女の身体を抱きしめ続けていた。