夢の沼<5>
口では辛辣なことを言いながらも、あの後メルは安定作用のあるお茶を出し、アンクが戻った後は村まで一緒に送り届けてくれた。
もう来るなと言われる前に、シリウスは無理矢理大丈夫だと笑って振り切った。
「それは意地ではないんだよね?」
事情を察したアンクが夜に尋ねてきた言葉だ。厳しい問いに息苦しくはなったが、不思議と腹は立たなかった。
いつも通り食事の準備を手伝い祈りを捧げ、教会の子供たちが寝静まった後も、ベッドの中で暗い天上を眺めながらシリウスは考えていた。
彼女に会ってから自分の弱さばかりが目に付いてどうしようもない気分になる。でも、決定的に壊れてはいない。それはただあの人がその力で守ってくれたからに他ならない。
目を閉じると子供たちの寝息や虫の声、遠い木々のざわめきが静寂を包み込んだ。シーツを掴んで脳裏に浮かんだ昼間の映像を打ち消そうとした。死蝶、エマ・ジェネル、魔術、血、炎――出来ない。
焼きついて離れない。あんなに直接命のやり取りに関わったことは無かった。メルが本当に、おそらくは優秀な魔女だということも初めて知った。そして摂理抗争や魔術師たちの争いのことも。
怖かったのに、逃げられなかった。
シリウスは逃げたいと思わなかった。
「だって……逃げられるわけ、ないのに……」
目を離したら消えてしまいそうなあの人が前にいて、どうして逃げ出せるだろう。
理屈じゃない。衝動に正論をぶつけてもどうしようもない。
「……だめなんだって……」
もうこのままじゃ、いられない。
呟き身を縮めて、眠れない夜に呼吸だけを数えていた。
闇の温さが肌を包み、泣きたいほど、まだ夜明けはどこにも見当たらない。
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「警邏? お前が?」
「はい。お願いします」
翌日シリウスがそう頼むと、祭司のランスロットはぽかんとして間の抜けた声を上げた。
一応教会の子どもたちの責任者だから、シリウスは彼に話を通す義務がある。もう一人の女性祭司、ユーゼは駄目だろうと避けた。ランスロットとは逆に妙に儀礼的なところのある人なのだ。その辺はともかく――必死に考えた結果、それが一番いいのではないかと結論を出したのである。
古登の村の警邏衆は他の村と異なる面も無く、村人の男達で形成され、外敵から村を守り、時に運搬を護衛する役割を引き受けている。小さな村とはいえ盗賊に襲われることも当然ある。それでなくても有事には必ず必要な人手だった。
まだ子どもだろうと胡散臭そうに言うランスロットに、シリウスはもう十三になったのだし、来年は十四だと説得し、粘った挙句どうにか了解を得ることが出来た。
そうして入った警邏の大人たちにはまだまだ子ども扱いされたが、訓練にはかかさず混ぜてもらい、がむしゃらに努力した。アンクとは森で魔術を試し、法力の具合を探ることも時々した。アンクもいつの間にか、植物を自在に操れるくらいに上達していた。
目標を立てて忙しく過ごせば日々はあっという間で、時々しか彼女にも会えないまま短い夏が訪れる。
エマの事件後も、彼女の態度は特に変わることは無く。
やっと時間が取れて会いに行ったその日も、そうなのだろうと思っていた。実際ほとんど変わったところは無かったのだ。
「あー……なんて言うか、不愉快」
「いつにもましてやる気が無いですね?」
「だって、暑いし。眠いし。くそだるいし。喋るのめんどいし。そう考えると言葉が存在するのとか意味不明だし」
「まあ、夏ですからね。水でも飲みますか?」
「いーらーなーいー」
石のテーブルに突っ伏して駄々をこねる星の森の魔女に、やれやれと苦笑しながらシリウスは頬を掻く。
とりつかれたように研究に没頭している日もあるが、今日は全く何も出来ない日らしい。どちらがいいかと言えば、どうなのだろう。返答が返ってくるという点ではこちらのほうがまだマシか。
メルはしばらく台に額をつけて唸っていたが、やがて耐えられなくなったのか、白髪を掻きながら顔を上げて呻いた。
「水」
「やっぱり要るんじゃないですか」
「はァ? 一秒前の事とかすでに過去なわけ。指摘される意味がぜんぜんわかんないわけ」
「だったら人は過去にしか居られないんですか、結局」
「愚か者! 過ぎたことしかないなんておかしいだろどうでもいいけど。みーずー」
「はいはい――」
シリウスは土間に汲んで置いてある瓶の蓋を開けた。この半島の端の日差しは今が最も強く、眩しい。汗ばむ陽気で比較的過ごしやすい気温なのだが、外見に比例してメルはどうやらあまり好きではないようで。
水をカップに一杯移して彼女に渡すと、何やら蚊が鳴くような声で聞き取れない呟きを漏らす。途端水は白く固まり、氷になっていた。
「うわー……魔術使ったら気持ちが悪い……でも、無理……」
なんだかもう自業自得なんだかどうだか意味が分からない。冷えたカップを両手で包むメルを見ながら、シリウスはふと眉を顰めた。
「メル、顔色が悪いような気がしますけど」
「だから暑いんだよ」
「……それだけですか?」
「どれだけならいいの」
「食事、ちゃんと摂ってないんじゃないですか。それに研究もほどほどにしないと身体に悪いです」
「そんなことどうでもいいし」
「どうしてそんな風に言えるんですか……自分の身体のことなのに」
「だからそれがどうでもいいって言ってるんだけどね」
「メル!」
シリウスは思わず強い声を上げてばんとテーブルに手をついた。ふざけているにしてもあんまりだと思った。いくら個人の勝手とはいえ、自身の身体の健康は生きていく上で絶対の条件なのだ。
それをあっさりと要らないもののように扱ってしまうなんて、今まで彼女に関わってきた全てが意味の無いものになってしまう気さえする。だから瞬間的な怒りに遠慮したりしなかった。
「そんな風に言ったら悲しい! メルはどうしてそんなに自分のことを低く見るんですか? 全然そんなことないのに。自分のことを大事にしたらいけないなんて誰にもありえない。どうでもよくないです。絶対」
青ざめた顔をして投げやりなことを言う彼女が、とても危うく見えて必死に言葉を探していた。この言葉は届かないかもしれないと思っても、言わないわけにはいかなかった。彼女との間には分厚い壁があって、もうそのことを嫌というほど知っているから。
「冷たいんだよ……世界はね、人を選ぶんだ。本当だよ」
だったら何度でも何度でも届くまで言う。忘れない内にもう一度、忘れてしまってももう一回繰り返す。大事なものを諦めてしまった微笑とも呼べないその表情を、どうか忘れて欲しいと願う。
「また、一秒経ったら世界だって変わるって、言ったじゃないですか」
「馬鹿だね。変わるはずないし」
「そんなこと分からないよ!」
「私にはわかるな」
「望まないから……!」
「どこにそんな都合のいい世界があるのかなぁ。もう出て行って。所詮お互い分かり合えないんだから、これ以上は不愉快だ」
「っ……」
メルが入り口のドアを指差して、冷たい声音で拒絶する。初めて出て行けと言われ怯みもしたが、それ以上に取り付く島の無い彼女に腹が立った。
向き合わなければとは思ったが、今は自分もメルも冷静とは程遠い。半分は怒りに任せてシリウスは踵を返し家から飛び出した。
「何で、こんな……」
暑さで心まで乾いてしまう心地がした。手を強く握り締めながら森の中へ足を踏み入れ、深いため息を吐くしかなかった。