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夢の沼<4>

「っぁ……!」


 目を閉じることも出来なかった。だから、ぎりぎりの所で植物の茎が滑り込んだ瞬間がよく見えた。ほとんど身体を掠め押されて転ぶと同時に、じゅうと音を立ててシリウスの代わりに繊維が黒く溶ける。

 熱。死がすぐ傍にあった。耳元で心臓が鳴っている。メルとハレーの声が聞こえたが、意味のある言葉に変換されず何とか呼吸だけを繰り返す。

 死蝶は黒い刃を植物から引き抜くと、メルに向き直った。座り込んで麻痺した身体が微かに震える。あの悪魔人形の視線が逸れただけで泣きたいほどだった。でも、崩れかけた元妖精は星の森の魔女を標的にして動こうとしている。あの人は怖くないのかな、と場違いなことを考え、シリウスは無意識に地面を爪で引っかいた。

 弱い。

 そうはっきりと自覚してしまう。

 自分が脆い。武術や魔術面を抜きにしても、すぐに動揺する。仕方がないじゃないか、と心の隅で叫ぶ気持ちがあった。所詮住んでいた世界が違いすぎて、魔術にも縁遠く生きてきたのだ。怖い。恐い。こわい。こわい。こわい。

 なのに逃げられない。それでなんの役に立つのか。覚悟でも意地でもなんでもいいから。震えを止めてちゃんと顔を上げなければ。そうしなきゃ、あの人と同じ場所には立てない。向き合えない。一緒にはいられない。


「やれるって……」


 一秒目を閉じてから、腕と足に思い切り力を込めた。まだやれる。耐えられる。平気だろう。

 あの人自身が言っていたのに。

 この力、魔術の通じないこの体質は、このためでなかったらいったい何のために存在するというのか。

 大体、何が怖いんだ。

 自分が恐れているものの正体は何だ。


「死、……本能、なら」


 顔を上げ冷や汗を拭い、しっかりと周囲を目に映す。森は青々と茂り、高い空を狭く囲んでいた。近距離で戦うメルと死蝶、少し離れたところにエマ・ジェネルがいる。メルは植物を従えて死蝶を討とうとしていたが、エマの風刃の援護で阻まれていた。それに元妖精である死蝶の方も魔術めいたものを使えるらしく、それもメルを不利にしていた。要するに個々の能力もさることながら、死蝶使いの真価はこの連携攻撃にあるのだろう。

 なら、それを崩せばいいと答えを出す。怖いのは、死ぬことで、魔術じゃない。だって自分には魔術は効かないのだから、怖いはずがない。だったら――


「エマ・ジェネル!」


 声を出して注意を引き、シリウスは恐怖を振り払って走った。少し痺れたような不安定な感覚はあったが足も手も動いた。黒衣をまとった金髪の魔女は虚ろに視線を向けてくる。濁って茫洋とした目。憎むことで何かを放棄しているような。直感的にそう思い少し息苦しくなったが、頭から無理やり追い出す。

 エマが短い呪文を唱え魔術を発動させたのはすぐだった。

 十歩の距離を切り裂く風の刃。


「え……なぜ……」


 ――風の魔術は、シリウスの身体を引き裂くことは出来ず、掻き消えた。

 死蝶遣いが目を見開いて呟いた。

 緊張が全く無かったと言ったら嘘になるが、それでも実際ほとんど感じることはなかった。独特の不快な痛みもわずかだった。身体の奥の、何かが分かっていて、冷静にさせていた。大丈夫だ、通じない、打ち消せ、戻せ、願え。

 偽物に思い知らせろ、と。

 これで本当に確信を得て、シリウスは勢いのまま佇む魔女の懐へ飛び込んだ。


「すみません……!」


 すぐ傍で混乱気味の呪文が聞こえたが、不快な感覚がしただけで何も起こりはしなかった。体当たりするようにして不気味な杖に手を伸ばし、それを掴む。杖が魔力を増幅させているのだろうと見当をつけたのだ。

 エマ・ジェネルは金切り声で叫び、シリウスを押しのけようとしたが、シリウスも意地でも離すわけにはいかなかった。女とはいえ大人が暴れればまだ成長途中のシリウスにも厳しいものがある。腕や顔や頭を叩かれ、蹴られ、揺さぶられた。痛みを無視して杖を思い切り引っ張った。エマの手から杖が離れる。


「返せ返せかえせわたしの!!」


 安堵も束の間。抱え込み、逃げようとするものの死蝶遣いはシリウスの服を掴み引きずり倒した。思い切り転び、圧し掛かられ息が詰まる。首が、信じがたい力で絞められようとしている。まずい、それは――


「あ、う……? ……?」


 その直後、ぱたたっと何かがシリウスの目の前に落ちて、軽い音を立てた。身体の上の圧力が緩み、咄嗟に身を起こす。必死に息を吸い顔を上げて悲鳴を上げそうになった。いつの間にか黒と紫の蝶の羽を持つおぞましい悪魔人形が目の前にいたのだ。

 ゆらゆらと。

 でも、なぜ。

 どうして。死蝶が今確かに斬りつけたのは、シリウスではなく、主人であるはずのエマ・ジェネルではないのか。エマの腕に裂傷ができ、血が零れ落ちていた。彼女自身にも理解できないのか、痛がるよりも呆然としている。

 疑問に答える形で聞きなれた声が聞こえた。


「悪魔人形だって、半分は生き物で、心もあるのだろうね」

「め、る……」

「感謝はしないけど君が杖を奪ったのもあったし、別に難しくはなかったよ。マインドコントロール」

「どうして?」


 エマが平坦な声で聞き返した。そういうことなのか。生き物の精神を操るという精神魔術で、死蝶の支配権をメルが奪ったのか。もしそうなら死蝶遣いにとってそれは、あるまじきことではないのか――

 シリウスが反射的に考えたことは見事にあたっていたらしい。

 やがてエマは腕を押さえながら喚き散らした。


「どうしてどうしてどうしてそんなことが、わたしのつくった悪魔人形をよくも、ぅあああぁあ!」

「魔女の癖に常識的だね。馬鹿げたプライドとか、いい加減うんざりする。殺しに来るならそれだけの実力をつけてからにしろって、ねえ」


 死蝶がもう一度暗い刃を振り上げ、エマ目掛けて振り下ろした。シリウスは咄嗟に止めようとしたが間に合わず、だが斬撃はエマの肩を掠っただけだった。死蝶遣いと呼ばれた女は今や顔をゆがめて涙を流していた。許せないはずなのに、その姿にシリウスの良心がひどく疼いた。

 唇をかんで考える。同情というものは、弱さや甘さなのだろうか。それとも違うのかな。仕方がないとはいえ自分が誰かを傷つけるのに加担したことが、嫌な気持ちにさせたのかもしれない。

 でも結局何もかもを直接処理したのはメルなのだ。


「鬱陶しいから早く消えて。今すぐに。じゃなきゃ殺す。いや、私の名にふさわしいやり方でやる。それが嫌なら」


 エマは虚ろな目で立ち上がると、メルの台詞を最後まで聞くこともなくふらふらと森の中へ消えていった。

 取り残されたように死蝶だけが不安定に浮いている。

 風が、急に冷たくなったように感じた。


「どうするんですか……?」


 悪魔人形の死蝶をこのまま従えておくのか。シリウスが呆然と尋ねると、傍に立つメルは不思議なほど優しい顔で頭を振った。


「いや。必要無いし。ハレーで十分」


 じゃあ、という暇も無かった。メルが塵の杖を地面に押し付けて呪文を唱えると、瞬く間に死蝶は炎に包まれた。声も無く羽根も身体も赤く燃え落ちてゆく。

 やがてすっかり原型を失うと、メルはほんの小さなため息をついた。シリウスは湧き上がる感情を抑えきれず、地面に膝をついた。


「シリウス?」


 問われても返事が出来ず、黙ったまま手で硬い地面を掘る。指が痺れ、次は木の枝を使ってなんとか穴を作った。そうして狭く浅い土の中に死蝶の燃え残りを埋めて、上から土をかけた。

 どこまでも不恰好だった。こんなことをしたって心は晴れないし、何にもならないことは分かっている。分かっていても、ほんの少しの救いになればいいと願っている。

 ああ、結局その程度のことしかできない。

 今は、まだ。


「……君は、」

「メル」


 もう声が出なかった。

 耐えられず何か言おうとしたあの人を抱きしめて、ローブに顔を押し付けた。謝りたいけれど理由も言葉も知らなかった。やがてあの人は少しだけ抱きしめ返した。温かくて髪を撫でてくれる感触があまりにも優しすぎて、余計に涙が止まらなかった。


「馬鹿だよね。君が傷ついたのは君自身のせいだし、これに懲りたら二度と私の傍に来ないことだよ」


 矛盾している。

 言葉とは裏腹に、他の全てが柔らかいから余計に心が痛むのだと、行き場の無い暗闇の中で、ようやく気づいた。

 






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