夢の沼<3>
「君は家の中にいて。絶対に外には出ないように。ハレー、いつまで寝てるんだ」
「なにかあったんですか?」
「無いさ。これからは知らないが」
大部屋のドアの横に立てかけてあった細身の杖を、メルは掴み取る。それは初めて会った時一度だけ、彼女が持っていたのを見た覚えがある。何色とも言えない、敢えて言えば白が基準だろうか、無限の小さなかけらが集まったような杖だ。それがメルの手に触れると、シリウスの皮膚に僅かな痛みが走った。近づき難い、圧倒的なものを感じる。恐いほどに。これがメルの本来の魔力なのか。
ハレーが窓から部屋に飛び込んで、緊張気味の声を出した。
「なんだ? 魔術師、か?」
「かもね。小賢しい。サンライズならともかく、この森でまだ私に会いに来る奴がいるとは」
「どういうこと、ですか」
「この森の魔女はね、有名なんだよ。殺せば一気に名が売れる」
「殺すってそんな……!」
メル・カロンはシリウスの目の前で扉を閉めた。彼女だけ外へ歩いていく。呆然としていたシリウスは、すぐに我に返ると追ってドアを開けようとした。
「ぃっ……!」
開かなかった。触れた瞬間痺れるような感触がして、思わず手を引いてしまう。これも魔術か──
「メルなら、大丈夫だ。外に出た方が邪魔になる。大人しくしとけ」
ハレーが側に来て、固い声で言った。楽観的に構えている様子は無く、必死で何かを堪えているように見えた。
「大丈夫って、そんなこと言われても──」
シリウスは無意識に衣服の胸元を掴んで奥歯を噛んだ。
嫌だ。何だかとても不安で、苦しい。どうして殺すだなんて物騒な話になるのだ。あの人が何かしたというのか。大体、この森でひっそりと暮らしているだけのメルが、なぜそんな目に合うのだろう。
数歩歩き、シリウスはせめて窓に取り付いた。杖を無造作に持った白髪の後姿が少し離れた場所に佇んでいる。すぐに、森の中から何かが姿を現した。女、だった。金髪を結い、黒いローブを纏ったどこか禍々しい印象を受ける美女である。間違いなく美しいのに、淀んでいる。薄すぎる眉のせいか、骨のような杖や病的に青白い肌、彫りが深く大きな目、それとも薄っすらと浮かんだ酷薄な笑みのせいか。
いや──もっと特徴的な存在がある。
彼女の隣に従う、あれは、一体なんなのだろう?
「蝶……?」
蝶の羽だ。大きい、まるで天使の翼のように。しかし天使のはずが無い。黒と紫のコントラストを描く羽を持つ、その生き物は、人の形をしているが、人にあらず。
顔の半分が白骨化している。右手も。左足も。残っている部分が麗しい女なだけに余計に無残だ。蝶の女はゆらゆらと浮き、金髪の魔女に従っていた。
「あいつ……死蝶遣い、エマ・ジェネル、か?」
ハレーが呟き、シリウスは振り返る。
「知ってるんですか? なんなの、あれは……」
「ああ。元はある妖精の一種族だ……それを、魂抜いて悪魔人形の器にしてんだよ。妖精どもはプライドも高いのに、悪魔人形にされてさぞ屈辱だと思うぞ。えげつない魔女だ。死蝶遣いって呼ばれて、結構名が知れてる方だな」
「ようせい」
衝撃的で、しばらくは景色を目に映すことしかできなかった。鳥肌がひどい。痛ましくて見ていられない。魂を抜く? 悪魔人形の器? どうしてそんなことをして平気なのかが理解できない。
「しろのまじょ」
エマ・ジェネルの声はあまり抑揚が無かった。平坦で不気味で、不快な感触がある。美しい顔を歪めて、唇をつり上げていた。
「白の魔女、メル・カロン。わたしは、あなたが嫌いで……たまらないのです。あなた、サンライズ、様に、過大評価されているから……です。サンライズ様は、勘違い、していると、思うのです。だって……違います? あのワンズの弟子の癖に、こんなところに閉じこもるだけで、そのくせ高みの見物」
シリウスにその内容の意味はほとんどわからなかった。だが、メル自身の落ち度ではない気がした。言葉を聞く限り、それは逆恨みや嫉妬なのではないか。
メルは後姿しか見えないが、辛うじて返答は聞き取れた。
「──なんだ。そんなことかぁ。ね、今帰れば見なかったことにしてやるがね。私はもう興味が無いから。魔術師の世界なんてさ」
「興味が、ないのですか?」
「どうでもいいんだ。どちらかと言えば嫌いなんだよ。鬱陶しいし……あなたのような人もサンライズも皆」
「さんらいずさま」
急にエマの周囲の空気が変わったように錯覚した。悪魔人形、死蝶がシリウスには聞き取れない呪文を暗い声で詠唱し、風を巻き起こす。カマイタチが地面を抉り、草花が千切れ飛んだ。思わず声を上げそうになるが、メルは無事だった。見えない壁が弾き返す。あれは──地面に、何らかの魔力が篭っていたように見えたが。
メルの声は穏やかで冷たかった。
「私の庭で勝てると思ってるのかな」
「殺します。殺します、あなたは、殺します……骨でしょう……ワンズの骨……ワンズの骨さえあればサンライズ様も」
「なるほどね、サンライズの相手にされないワケがよく分かるよ。あんた馬鹿だ」
「黙れ黙れ黙れ────」
ものすごい破裂音と風がエマ中心に巻き起こった。魔力の壁が粉々に砕け散る音だ。そうして死蝶が真っ暗な剣を構え、呪文を呟きながらメルへと踊りかかる。エメラルドのつやを持つ元妖精の黒髪が、頭蓋骨にまとわりつき全てを呪っている。メルが杖で地面を突く。突如地中から現れた巨大な植物の根が、死蝶を阻み、エマを襲う。だが届くことなく一瞬で焼き尽くされてしまう。
「メル……!」
心臓が痛くて、いても経ってもいられなくてシリウスは窓ガラスを叩いた。恐怖よりも焦燥が勝っていた。メルは振り向かない。ああ、そうだ、決して振り向かないだろう。この声が聞こえていてもいなくても、あの人は、そういう人だから──
「ああもうっ!」
「おいっ、シリウス!?」
シリウスは一声で迷いを吐き出すと、再びドアに駆け寄って取っ手を掴んだ。痙攣する。内部をかき回されるような不快な痛みが腕から肩、臓器へ伝わる。知らない。耐えられないほどじゃない。震え、座り込んでしまいたいのを無理矢理うそぶきシリウスはがむしゃらに外へ出ようとした。
嫌だ。
何も出来ないなんて、嫌なのだ。
見ているだけで。あの人に何かあったらどうするんだ。
「こんなもの……!」
願えばいい。簡単なことだと、自分の中の何かが囁いた。シリウスは一も二も無く、その声に従った。
消えろ、戻れ、打ち消せ。
「うくっ……」
「マジか……!」
何かが見えたと思った瞬間には、もう痛みも圧力も消えうせていた。扉がいつものように開く。出来た。出来るじゃないか。夢中で外へ出て顔を上げた。メルは。無事?
「どうして君はそう──!」
「え?」
太陽の光を遮り、目の前に黒と紫のコントラストが広がっていた。所々破れていて、触ると崩れてしまいそうだった。それに、見下ろされている。穴。黒い、眼窩だ。
死蝶が手の届く距離にいた。思わず身体が硬直した。闇を切り取ったような邪悪な刃が振り上げられ、無機質な動作でシリウスを貫く軌道を描いた。