夢の沼<2>
それも一種の魔力のようなものだと、星の森の魔女は解説した。
「例えば自然な状態がゼロであるとするだろ。魔術はそれを、マイナス方向に魔力を使って捻じ曲げる技術だと仮定すると、君の力はその逆。プラス方向に働く力だ。いわゆる聖人の法力だね。法力単体では威力を発揮しないが、魔力とぶつかると、必ずそれを打ち消そうとする。自然、ゼロの状態を保つために。これが、摂理を曲げない力ってこと」
今まで自分にそんな体質があることには気付きもしなかったが、メルに言わせるとこの力は相当強力だという。メル自身の魔力を打ち消せることが証拠らしいが、嘘なのか本当なのかはシリウスには判断できなかった。なにしろ彼女が魔術らしい魔術を使うところを見たわけではないのだ。
「けど、魔法みたいに何かが出来るわけでもないし、あまり役に立つとも思えないですが」
シリウスがおずおずと本音を言うと、メルは眉をつり上げてみせたものだ。
「今はね。昔はそれこそどんな手を使ってでも手に入れたい逸材だっただろうね。聖教にとって」
「聖教……?」
「くだらない殺し合いの話。精神魔術はともかく自然魔術が通じない君のような人間は、まさにジョーカーだった」
詳しく事情を聞きたかったが、メルは面倒だと説明を放棄した。なのでシリウスは仕方なく、後でアンクに摂理抗争の話を教えてもらった。大まかな内容に過ぎなかったが、それでも全然知らない事実ばかりで、本当に驚いた。
魔術が悪いことだとか、摂理が正しいものだとか。そういうことに答えはない。あるなんておかしい。事情によっていくらでも変わるし、なんとでも言うことは出来る。ただ、聞きながらシリウスにもおぼろげに理解できることがあった。
それは畏怖だ。
魔術に対する恐怖の感情。知らないものが恐ろしいと思う心。理解できない異能を排斥する習性。
とてもよくわかった。シリウス自身、メルに記憶を消されて、どうにもならない思いをしたのだ。普通は恐ろしいと思うだろう。
「ところでわかってると思うけど、きれいに一切妥協せず神経をすり減らして生命力を込めて作業しないと後で蒸し焼きにするから!」
普通じゃなければそうでもないけれど。
「はい、はい──」
シリウスは、メルに一方的に命じられ、アンクとの魔術訓練の脇で薬草の乾燥の見張り番をしていた。
なんでも結構大事な薬の材料になるらしい。重ならないように、布の上に広げた根や種を偶に裏返したりしながらの平和すぎる日光浴である。ハレーは窓枠の上でいびきを掻き、アンクとメルは相変わらず呪文のような会話を繰り広げている。正直ちょっと暇だ。
──ま、いいか。
陽気と春の風に包まれて、シリウスは最終的に頬を緩めた。
だって、こんな風にもう一度あの人の側にいられる。もう会えなかったかもしれなくて、メルは魔女で、自分は子どもで。でも今、こうして確かに白い花の精のような姿を瞳に映している。
それって結構、すごいことなんじゃないかな。
夢だったら、泣いてしまうくらいに。
「なんごくかじつおやさいおやさい」
「けさらんぱさらんぱうだーぱうだー」
「…………」
しかし意識すると何か聞こえる。シリウスは深呼吸を数度繰り返した。罠だ。これは一種の修行に違いない。耐え抜かないと。耳に入れても脳までは入れてはならない。
正直無理だが。
そんなシリウスの葛藤を見抜いたわけはないだろうが、そのとき空から巨大な影が降りてきた。
「わ……」
影、ではなかった。鳥である。とても大きい、見たこともない極彩色をした鳥だった。
前に見たグリフォンくらい大きくて、人を鷲づかみにすることだって出来そうで、真っ赤な顔と首筋の羽毛、薄桃色のくちばし、空色の足、虹色の羽、エメラルドの尾羽を持っていた。だが黒々と丸い目が知性の色を宿している。その巨鳥は井戸の側を優雅に数歩歩き、羽を整えて畳んだが、しばらくは自分の目が信じられなかった。なんて、鮮やかで綺麗なんだろう。
「昔、遥か南からやって来て住みついた霊鳥だよ。割と人好きで優しいから、アンク、意思疎通の練習がてら森を案内してもらってきたらいい」
「わあ、温かそう!」
やはり何かがずれた感想を述べながら、アンクが霊鳥にそっと近づいた。霊鳥はすました顔で蹲っていたが、アンクが羽に触れても嫌がるそぶりは見せなかった。やがて黒髪の小さな魔術師が巨大な身体に跨れば、風を巻き起こして霊鳥は羽を広げた。
シリウスもぜひ一緒に乗せてもらいたかったが、アンクの魔力が掻き消されてしまうので残念ながらだめだと言われてしまった。名残惜しいが、アンクを見送る。芸術的な色彩が空に映えていた。
だが、その結果がどういう顛末に繋がるのかなんて、誰にもわかるはずがない。
未来が見えるはずがないんだから。
「じゃあ、私はあさってまで寝ようかなぁ。それか剥製づくりの研究しようかなぁ……」
なんて、そんなことを言いながら伸びをしていたメルが、不意に言葉をつぐんだ。それが不自然だったから、シリウスは何気なく彼女の方を見た。振り返ったチョコレート色の瞳と視線がぶつかった。見たことがない、はっとするような、苛烈で険しい目線だった。どうして、急に?
「来て。早く」
「え、あ、メル?」
そして近づいてきたかと思うとぐいっとシリウスの右手を取り、足早に家のほうへ向かう。そんな場合でもないのだろうが、触れられた白い手に心臓が跳ねる。すべらかな感触だけじゃなくて、自分の中の法力がメルの魔力とぶつかり合い、馴染んでいく不思議な感覚がした。