夢の沼<1>
そうして、夕食を食べて、もうすっかり暗い森から村に帰るわけにも行かず、その日はとかくひねくれたことを言いながらもメルは家に泊めてくれた。翌日シリウスが惰眠を貪るメルをわざと礼と微妙な口説き文句で起こすと、ものすごい勢いで家から放り出された。ハレーが村まで道案内をかって出てくれたが、メルの激怒がよほど意外だったらしい。道中しばらく爆笑していたのが印象的だった。
とにかく、よかった。
村に帰りついて、勝手に外泊してきたのを怒られているのに、シリウスは思わず頬を緩めてしまう。
それくらい何度も、本当によかったと思う。
あの時勇気を出してよかった。あの人の家に戻ってよかった。
ちゃんと言えた。不恰好でも向き合えた。
例えば何かを為して、やらないほうがよかったと後悔することはあるだろう。
良かれと思ったことが裏目に出て、自己嫌悪に陥ることもある。理解できないことは日常にさえありすぎて、運命を呪いたくなる目にも生きていれば遭遇する。
けれど、そこで途切れて終わってしまうものだとは、シリウスには思えなかった。いや、思いたくはなかった。そんなのは悲しすぎる。きっと後悔することがあっても、人は挽回出来るはずで、取り返せなくても別のものをどうにか継ぎ足して、少しでも思い描く形に近づける。シリウスは実際メルに、浅はかな言葉を浴びせた。糾弾され突き放されて、壊れてしまいそうにもなった。
「シリウス? お前は、人がどれだけ心配したと思って──」
とうとうと説教していた四十近い中年の祭司、ランスロットが、不意にシリウスの頭を乱暴に小突いた。
ランスロットは古登の村の聖教会をやりくりしている大人の一人である。本当に聖職者なのかと思うほど固いところのない人だ。とことん不精で身だしなみやらなにやら子ども達からも揶揄されるが、その分親しみやすく、適当にして間の取り方や気遣いは一級なのだった。要するに物事の本質を見失わない。
「はい。すみません」
と、半分上の空で表面上だけ謝罪を口にするシリウスの事も、見抜いているようだった。
ランスロットはがしがしと髪の毛を引っ掻き、教会の長椅子に勢いよく腰掛けた。
「あーやめだやめ。どうせ言ったって頭に入らねえようだしな」
「もう心配かけるようなことは、しません」
「心配、なぁ。そうなんだよな……お前なんだよな」
「はい?」
「そのまんまの意味だよ。お前とはな。見た目も生まれも性格も色々とアレだから、真面目なだけに育っちまうのかと思ったが、それが蓋を開けてみりゃあ」
「えっと……?」
意味がわからず首を捻るシリウスに、祭服をだらしなく着崩した祭司は、にやりと笑ってみせた。まるで子どもが悪戯を成功させたときのような笑顔だった。
「嬉しいんだよ。俺としてはな。誰かの型の中に居続けるつまらん人間になるなよ、シリウス。自分のやりたいようにやれ。せっかくの人生なんだからな」
自分のやりたいように、やる。
祭壇の後ろにある聖ヨハネス像を眺めながら、ランスロットの言葉をシリウスは頭の中で反芻してみる。
わがままで自己中心的な人間を賞賛しているわけではない事は明白だった。要するに意志なのだと解釈したかった。それを、自分本位と区別することは簡単ではないけれど。それでも、信じ、最善を尽くし、理想を追うことをやめなければ、少なくとも人生を悔いるような事にはならないだろうと思えた。
「うん。でもランス、初めと言ってることが正反対だよ」
「細けぇことはいーんだよ。俺はお偉い祭司様なんだからな」
「すぐそういうこと言うから……」
あの秋の終りから。ずっと、シリウスの中で燻って晴れない思いがあった。冷たい不安と悲しみの感情が、雪のように心の隅に積もっていた。
あの人はまるで冬だった。
するりと放たれる一言一言がとても印象的で、氷のように胸に落ちた。
──私のことで君が決められることなんて、何一つないんだよ。
理解はするけれど、シリウスは信じないだろうと自分で思う。笑顔や優しい声にもう一度触れてしまったから、信じない。
あの人は今確かに、春だった。
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唐突だが、言葉についてよく考えたことはあるだろうか。
「対象の形を、呼吸と同時に取り込んだり吐き出したりするような感覚。集中して。気を逸らさない。やってみて」
「う〜んとえ〜と……こうでそうでそれがあれでどれがかれ?」
「いや、こうでそれがそうであれがどれでかれ」
「あ、なにがしなにがし」
「んー、くれがしなにくれ」
「さのみ!」
「さまで!」
「あのー……」
「「あぁああ!」」
思わず口をはさんでしまったシリウスは、二人が同時に発した奇声にびくりと身を震わせた。二人というのは誰であろう、星の森の魔女メル・カロンと魔術師の卵アンクである。
場所は、森の中のメルの家の前だ。正午過ぎ。二人は地面に座り込んだ状態のまま非難がましくシリウスの方を見てくる。目は口ほどにものを言う。これは、いわゆる罠というやつだったのか。
思わず謝罪を口にしていた。
「すみません……」
「謝れば非難されると思ったら大間違いだ!」
「違いが大きいよー」
「え……?」
落ち着け自分。シリウスは一旦軽く目を閉じ、こめかみを指でほぐした。
とてもいい天気だった。雲も真っ白で、春風が涼しい。木々の新緑も眩しく、青や黄金色の花を咲かせた野草があちらこちらの地面を彩っている。そして一軒の家の前に美女と少年がいるのも別に変ではない。ただし言語が明らかに崩壊している。それも三歩譲ってありえなくはないとしても、問題なのは、二人の間では意思疎通が量れているらしいということだった。
おかしい。明らかに変だ。
果たしてこんな会話が存在していいというのか?
シリウスが言いたいのは、つまりそういうことだった。
「ふざけてるわけじゃあないんですよね」
聞くと、白髪の魔女は右頬を膨らませ、シリウスに向かってまくし立てた。ご丁寧に顔をしかめて手でしっしっと追い払うわざとらしい仕草つきである。
「断じてないね! むしろふざけてるのは君だよ! 君の存在の方だよ! そしてこの状況を認めない全ての生物の事だよ!」
「そこまで言いますか」
「物事は立場をはっきりさせた方がいいと思うんだ。嘘だよ」
「へえ」
「騙されたでしょ。自分で気付かない一瞬のうちに騙されたでしょ。ばぁか。子どもー。あほー」
「はあ」
意味を成さない会話は置いておいて、現在メルとアンクが何をしているかというと、魔術の訓練である。アンクに適性がある精神魔術というものを、植物を使って練習しているらしい。先ほどから、アンクの手元で花が咲いたりしぼんだり、茎が伸びたり葉が開いたり芽が出たり、不思議な光景が繰り広げられていた。
シリウスはその様子を窓辺から見守っているのだが、ついつい口をはさんでは怒られていた。集中が途切れるのとは別に、シリウス自身の体質にも問題があるらしい。
「君が近づくと魔力が相殺するから鬱陶しい」
というのがメルの言い分である。
シリウスには、魔術が通じないのだ。