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いつも同じ世界で<5>

 家の扉の前で一度大きく深呼吸して、シリウスは抱きしめたままのハレーのぬくもりを借りて、ドアを開けた。


「メル?」


 大部屋はしんと静まり返り、誰の姿もなかった。正面の、廊下へ続くドアが少しだけ開いていた。シリウスはそちらへ歩き、廊下へ入り、奥の左側に位置する寝室を覗く。


「────」


 彼女はそこにいた。ベッドの上に、横になって目を閉じていた。

 眠っているようだった。手元に睡眠薬だろう、薬のビンが落ちている。

 白髪がさらさらと零れ、窓からのわずかな光と影に彩られ、白いドレスに包まれて、薄く唇が開いて、どんな彫刻家や人形師でも作るのが不可能と思われる、繊細で緻密で柔らかな、触れたら壊れてしまいそうな、邪気のない姿をしていた。

 夢を見ているのかな。

 見とれながら、ぼんやりとそんなことを考える。ひどく厳かな光景に思いがけず出会い、シリウスの中から怒りも悔しさも不安も消えてゆく。


 ――こんな風に眠ることでしか、本当には安らげないのかな。

 そうやって明日また、いつものように過ごすのかな。


 そうっと、部屋の隅に座り込んで、膝を抱えて床を見つめながら祈る。


 メルが、いい夢を見ますように。

 せめて悪い夢を、見ませんように。

 ――神様。


 ハレーを閉じ込めたまま、シリウスは目を閉じる。


 

 +*◆*・。+.*.◇+*・。+..◆+・。*◇・.。+*◆*・。+.*.◇+*・。+..◆+・。*◇・.。



「ん……、」


 そのまま、いつの間にか眠っていたらしい。

 場所は変わらないが、シリウスは気がつくと床に横になり、毛布に包まっていた。ハレーも寝息を立てていて、顔を上げると正面の窓が見えた。外はすっかり暗い。鏡台の上の火を灯したランプが部屋をほのかに照らし出し、時折陰影を揺らした。

 窓の下のベッドにメルの姿はなかった。もう起きているのだろう。そして勝手に入り込んでいたシリウスを起こさず、毛布を掛けてくれた。


「ハレー、夜だよ」

「うぅ……?」


 そっと黒羊を起こし、そろそろと立ち上がる。やっと抱きしめていたハレーを解放して、点けてくれていたランプを吹き消して寝室を出る。少しだけ開いた大部屋への扉から明かりが漏れていた。

 メルは玄関以外、絶対に扉を全部閉めない。ハレーがいつでもどこでも行けるように、日中は窓も開けている。七人で遊びに来たとき誰かがちゃんと閉めてしまってもいつの間にか黙って戻していた。

 優しくないのだったら、何と言えばいいのだろう。

 静かに扉をくぐると、石のテーブルの前の椅子に腰掛ける後姿があった。右奥の土間のかまどに火がついていて、鍋が湯気を立てている。微かに食べ物のいい匂いがした。気付いていても振り向かない背中に、もう大丈夫だと確信しながら呼びかけた。


「メル」

「君は、」


 頬杖をつき、読んでいる本から目を逸らさず、声だけが返ってくる。


「勝手に人の家に入って、人の寝室に入り込んで、人の悪魔人形を抱えて、眠りこけちゃいけないって教わらなかったのかな?」

「ごめんなさい」


 態度こそそっけなかったが、声に棘はなく、そこには純粋な呆れしか含まれていなかった。シリウスはもう一歩だけその背中に近づき、礼を言った。


「毛布、ありがとうございました」

「ハレーに付属物がついてたから仕方なく一緒に巻いただけだから」

「いや、その言い訳はさすがにどうかと思うぞ……」

「やかましい。羊の癖に口はさむな」

「今更……!」


 二人のやりとりに、自然と頬が緩んで、シリウスは思い切ってメルの横に立った。白くて真っ直ぐな髪の奥の瞳が僅かに細くなった。


「忘れ物でもしたの」

「そう、かも……とても大きな」

「それにしても何で君は私の魔力に引っかからないのかな。やりにくいね。この距離で全然何考えてるのかわからないし……」

「わからないから言葉があって……だから、言いに戻ってきたんです。昼間、言えなかったこと」

「私が恐くなって逃げたのに?」

「確かに、そうですけど、言われっぱなしで腹が立って。ほら、俺、子どもじゃないですか。すぐ立ち直るし自分勝手だし聞きわけが悪いんで」

「うわー、開き直らないでほしいなあ……」

「メル、言いたいことっていうのは──」


 こっちを向いて。そういう気持ちが自然にシリウスの手を動かして、メルの左手に触れていた。驚いたように引っ込めようとするのを少し引っ張って、その甲に軽く口付けた。


「へっ?」

「おぅっ!?」


 メルとハレーが同時に驚愕の声を上げて静止する。自分でも自分の行動に驚いたが、後戻りしても仕方がないと踏み切り、メルの手を取ったままその足元に跪くと、シリウスは彼女を見上げて微笑んだ。


「昼、メルは否定したけど、メルは本当に綺麗だと思います」

「は……」

「汚れてないし狂ってもない。確かにメルの言う常識からはちょっと外れてるかもしれないけど、そういうことちゃんと分かってるじゃないですか。そもそも誰にだってそういう部分、ありますし。自分を大事にしてないと思います。常識なんて、あいまいで、自分勝手なもの。メルに言われて俺は学びました。人に押し付けちゃいけないんだって反省しました。でも、そういうのも含めて話さないと、わからなかった。話して、自分の考えで人を傷つけたり傷つけられたりして、それで分かり合うんだと思いました。だから、メルが投げやりにどうしようもない話をしたり、俺の言葉を封じ込めたのは、はっきりと悲しかった。違う、そうじゃないって思っても、言葉が出てこなかった。言いたいのに、分かりたいのに、分かってほしいのに、言えなくて」

「──」


 届いてほしい。気持ち。

 本当に、想っているというこの心が。


「だって俺は、メルの容姿だけに惹かれたんじゃない。マイペースで怠け者で全然優しくなくて、自分勝手で嘘吐きで素直じゃなくて、感謝されるのが苦手で子どもが好きで、明晰で照れ屋で楽しくて思いやりがあって、ハレーと仲が良くて森で俺を助けてくれてさっき毛布を掛けてくれて──」


 ほら、嘘なんかどこにもないから。

 全部、大切な思い出だから。


「──誰かのために傷つくことが出来るあなたが、好きです」


 言い終えた後の沈黙の中、メルの呆気に取られた顔が、確かに朱に染まって、少しだけ歪んで、微かに吐息を零すのを見ていた。

 初めて見た。可愛いな。

 年上なのにそんな風に思えて、緊張が緩んで本当におかしくて笑顔が零れる。


「う、うっわーーーー!! ええっ!? シリウスぅーー!?」


 石化していたハレーがぷしゅーと煙を上げながら絶叫した。同時にメルがシリウスから左手を奪い返し、勢いよく席を立って一歩下がった。


「そんな、は、恥ずかしいことを、よくも……」


 どこかおろおろした彼女の様子が好ましくて、わざと全部認める。


「だって、本当のことですから。いいじゃないですか?」

「な……君は、子どもで! 私は容姿こそ小娘だがもう三十年は生きてるわけで」

「ああ! それくらいだったんですね。よかった、びっくりするほど離れてるわけじゃなくて」

「あ、あのねえ、親子ほど違うのにどういう認識を」

「それは、メルの常識じゃないですか」

「ただの事実! そういう揚げ足取りをするには十年早い!」

「じゃあ、十年後も一緒にいて下さい。……あ、鍋噴いてますよ?」

「ああー……もう、食べられなかったら君を煮込む」

「ちょっとなら」

「全部」


 メルの作った簡単な野菜のスープが食卓に並ぶ。パンを切って、果汁を注ぐ。魔女と小さな悪魔人形と金色の少年がささやかで賑やかな食卓を囲む。


「仕方ないなぁ」


 やっとメルが笑った。

 だからシリウスは心の中で何度も感謝した。


 ありがとう、神様。












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