いつも同じ世界で<3>
不意に、メル・カロンの右手がシリウスに向かって伸びた。染み一つない手がゆっくりと頬に触れ──
「う、ぇ?」
「なるほど。読めない。なんらかの体質か……眠ったままだったそれが、私の魔術によって覚醒したのかな」
あの、倒れたときに一度経験したような、それよりもずっと微弱な感覚が、やはりシリウスの中を駆け巡った。思わず顔を逸らして軽く頭を振った。なんだろう、これって……一体。
「だとしたら……うーん。あんまり強力な術だと精神壊れちゃうかなぁ……やれやれ」
「じゃなくて! 理由が知りたいんです! 俺にはその権利すらないっていうんですか!」
「権利っていうか」
はっとして思い切り噛み付くと、彼女は全く動じない動作で髪をわずかにかきあげた。それだけの仕草になぜかひどく胸が痛んだ。
「理由って言われても。そうはっきりとわかるものでもなくない? 無理矢理言葉にした時点でもう全然違う風になってたり、伝わらなかったりするし。まあ敢えて言うなら私が魔女だから? 根本的に違うわけ。面倒になったらすぐ放り出すの」
「そんな、こと……ずっと何も、言わなかったじゃないですか。どうして急に」
「わがままで頭がおかしいからね。私」
メルがあっさりと言い放ちながら大部屋に戻るのを、シリウスはほとんど反射で数歩追った。部屋の中の様子は、以前と変わらなかった。左半分の空間を占める石のテーブルと椅子、部屋を囲む書棚、窓際の作業台、隅に積み上げられた沢山の箱。
彼女が本気で答えているとはどうしても思えなくて、腹の中が気持ち悪くなる。これ以上腹を立てても逆効果で、言ってはいけないんだと頭ではわかっていても、無理だった。時間が戻るのなら、きっと押し止めただろう。
「そんなの信じられません。理由ははっきりとはわからないけど、メルがそんな人じゃないことくらいわかる。本当は寂しいんでしょう? こんなところに、ずっといて……だから結局、俺達のことも拒めなくて、」
石のテーブルに寄りかかり、星の森の魔女が振り返った。
その眼光にシリウスは声を失った。底のない淵に立ち、今にも飲み込まれてしまいそうな幻覚が脳裏を襲った。
「寂しい。さみしい、哀れ……そうだねえ。そうだろうね? あはは、見た目どおり子どもだね。かわいいね。正しいね。君はさ、知らないんだ。一つのことしか考えない。私が一人こんな場所で暮らしてるから、寂しくて可哀想な人だと思う。人間達の常識から言って正しいよ。でもね──それがどうしたのかな? 寂しいから賑やかなところで暮らさなくちゃならない? 誰かと楽しく力を合わせていかなくちゃならない? それが私の幸せ? 私の人生? そうだと思う? 金色の少年、ここまで言えば流石にわかるよね。常識って結構迷惑で、枷で、勘違いなんだよ。そういう常識から零れ落ちた出来損ないのナニカのことを魔女と呼ぶのだよ。私はね、どうでもいいんだ。寂しいとか、可哀想だとか、世界だとか、常識だとか、愛だとか、他人だとか、幸せだとか、もう全部どうでもいいんだ。ほら、魔女でしょ? 人間じゃないでしょ? わかったでしょ? だから押し付けないでくれるかなあ……無理矢理。そういうことされると、いくら子どもでも殺したくなっちゃうから」
あれ?
声が出ない。上手く身体が動かない。動悸がして、呼吸が苦しくなって、冷や汗が出て、彼女を視界に入れておくのが辛くなる。この人が、魔法でそうしているのだろうか。そうかもしれない。シリウスはそう思おうとして失敗した。違う。
自分の弱さ。奢り。無知。無力。思い込み。
そういうものが、彼女に無理矢理引きずり出されて、自己嫌悪と恥辱で目の前が暗くなってしまうほどに打ちのめされた。見ないふりももう限界だった。
勘違いだ。全部。綺麗ごと。誤解。魔女? 人間? ナニガ? 何も知らない。知っている振りをしていた。彼女のイメージが全部壊れていく。それなのに、過去の出会いも感触も声も笑顔もきらきらと輝いている。
恐くて、苦しくて、頭痛がして、シリウスは声を絞り出した。
「じゃあ、じゃあ! 何のためにっ……!」
「生きてるのかって?」
メルはにこりとまるでいつもどおりに微笑み、少し考える仕草をした。
やめて。壊さないで。言わないで。答えないで。そんな風に、笑わないで──いくら願っても、残酷な現実はあっさりと続いて、どこまでも平等だった。
「別に何にもないけど。成り行きで。強いて言えば運命。ここまでくるとそれもどうでもよくって。生物の本能くらいはかろうじて残ってるんだろうね。でも、人間でもそんなこといちいち考えたりしなくない? それに今の暮らし結構気に入ってるから。好きなことだけやってればいずれ寿命来るんだし、別段死ぬ必要もないよね」
聞きたくなくても聞こえる。
「そ、んな」
だって、あれほど聞きたかった声だから。
「もう一回言っとくけど、頼むから常識を持ち出したりしないでね」
とても、とても会いたかった。
「俺は、」
この人のことが──
「ああ、君は私が好きだったんだ。綺麗だから。人間って綺麗なものが好きだものね。でも今わかったでしょ? 私はとても汚れてる。狂ってる。この外見ってたちの悪い冗談なんだぁ。いかにも綺麗に見えて、全然そうじゃなくて、がっかりさせて面白がるのが魔女の基本だから。ごめんね?」
──すきだから──
「そんな、こと……」
目の奥が異様に熱い。呼吸が上手く出来ない。喉が鳴る。何かが溢れて落ちてしまいそうだった。ちがう。ちがうよ。そうじゃないよ。言えない。そう言ってあげられない。どうしても声が出せない。
もう、遅い。
止めようにも少しも堪え切れなくて、視界がぐちゃぐちゃになり、しゃくりあげる喉もどうにもならくて、せめて拳で涙を拭っても、間に合わないくらいに次から次に頬を濡らしていった。
なんで、こうなったんだろうと思った。会いたかっただけ。それだけだった。なのにとても遠い。それだけのことが恐い。わからなくて、悲しくて、大切な思い出が真っ黒に塗り潰されていくのが感じられて──
「あーあ。泣かせちゃった。やだな、子どもが泣いてるの見るの。でも全部君のせいだよ?」
足音が近づき、チョコレート色のローブから白い手が伸びて、とても優しく頭を撫でてくれる。あんまりにも心地よくて、せめて目を閉じて、暗闇の中で心の欠片を拾い集めようとして、それでも涙は止まらない。
やさしいんだ。
そう、信じてみようとした。
彼女の柔らかな声が聞こえた。
「ほらまたそうやって常識に従う。不愉快で鬱陶しいからなぞってるだけなのに。だって本当に優しかったら、最初から君を泣かせたりしないよね? こんな風に笑顔で傷つけたり出来ないよね? 勘違いしちゃだめだよ。全部、君が決めることじゃない。私のことで君が決められることなんて、何一つないんだよ」
触れたと思った心さえ、留めておけなくて、さらさらと崩れていく音が聞こえた。