いつも同じ世界で<2>
「あ……」
アンクが? 魔女? 魔術師で。
シリウスが目を逸らさなかったのは、懺悔の代わりだっただろう。信頼していると言いながら何も考えない自分が、とてつもなく恥ずかしかった。信頼だけで何もかも許されたりはしないし、謝ったって仕方がない。今言える言葉がほしかった。
「あり、がとう。教えてくれて。軽蔑なんてしない……俺の中のアンクは、今まで俺が一緒にいたアンクで間違いないから」
「シリウスは、嘘を吐かないもんね」
「そうだったかな」
「そうだよ。例えそうじゃなかったとしても、ばれない嘘は嘘にならないんだよ。それがやさしさなのかもしれない。僕には無理だったけどね。メルさんに会ってからわかった。魔術師じゃない僕は、僕ではいられないんだって」
「める」
アンクの口からその名を聞いて、じわりと目元が熱くなった。確信が持てなかった自分がどこかにいて、今やっとあの人の存在が夢じゃなくなった気がした。
手を伸ばし、手袋越しに舞う雪に触れた。一握の白があの人みたいに何度も透明に咲いて、ゆっくりと消えた。
「……会いたい。俺は、いやだ。思い出したんだ。忘れていたくもなかったんだ。なんで……」
「シリウスは、考えた? メルさんが僕らの記憶を封じた理由を、ちゃんと考えた?」
「考えたけど! 本当のことなんてわかるはずないじゃないか。言ってくれなきゃわからない……!」
「例えば、危険のこととか。あの森は、決して安全じゃなかった。初めての時は大蛇を見たよね。それに、グリフォン……パプリカさんみたいな、他の魔女。僕らは運がよかったのかもしれない。シリウスはこれからもそんな危険が無いって言い切れる?」
「そんなこと……!」
あの人は優しい人だ。
いい訳を並べようとして、シリウスは言葉を飲み込んだ。認めざるを得ないことだった。アンクは正しい。例えそれだけの理由でなくとも、あの人も、おそらく正しい。全部じゃない。シリウスが言いたいのは、その正しくない部分だった。
「アンクの言ってることは、わかる。でも……俺達の記憶は、あの人のものじゃないんだ。うまく、言えないけど、あの人にとっても、そんなのはよくないんじゃないかって、思えて」
この雪が融けたらあの人に会いに行く。
「他の皆には、言わないでおくよ。ただ、俺だけは、好きにさせて欲しい。ごめん」
「……うん……」
しょうがないなあという困ったようなアンクの目がひどく戸惑っていた。感じることも考えることも、完全に共有することは出来ない。振り返って、教会に入る振りをして目を逸らした。
せめてそれくらいは許して欲しかった。
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春を待つのはいつものことでも、シリウスにとってこれほど待ち遠しい春も無かった。
毎日、空を見上げて季節の変わり目の気配を探した。期待しては恐れ、勘違いしては安堵する。長かったようにも、とても短かったようにも思えた。どちらかと言えば、やはり長かったというほかは無いのだが。
冬が終わり春が来る。
風と太陽と緑、なにより雪解けでわかった。
ある朝、朝食の準備を手伝う間に感じた陽気にとくんと心臓が波打った。鳥や虫が偶に姿を見せる。川の水も心なしか温かく、魚の影がとおる。風が柔らかい。
「メル」
あの人は、帰ってきただろうか。あの家に戻ってきただろうか────
思わず名前を口に出すと、シリウスはもう気持ちを押し止めてはいられなかった。はやる気持ちを抑え、焦りながら教会の手伝いをし、祈りを捧げ、幼い子ども達の世話を済ませ、食事もそこそこに終わらせ、昼前に星の森へ一人飛び込んだ。アンクに言われた危険なんて頭から消し飛んでいて、前の年に何度も目印をつけた道無き道を、護身用の短刀一本で掻き分けた。
恐い気持ちももちろんあった。記憶を消されたということは、少なくとももう会えなくてもいいと思われたと同義だ。メルにとってはそうだったのだろう。
でも、シリウスはよくない。恐れる気持ちがあっても、事実こうして一人ででも森を抜けようとしている。もしかしたら、だから余計に入り込んできたのかもしれない。記憶を消されて、思い出したから。よりいっそう刻み込まれて、知りたくなった。こんなに会いたいことに過程なんて大して問題じゃないのだが。
ぐちゃぐちゃと考えていたからか、やけに苦しい道のりだった。それでもあの場所に辿り着く。懐かしい、家。森の中にぽっかりと空いた空間に、小さな畑と物干し竿と────
「あ……」
その、魔女の家の窓が開いているのに気付いた。誰もいないのなら閉めているはずだ。胸が痛いほどだった。いるのだ。あの人は、ここにいる。
「メル……」
駆け出して、名前を呼びながら扉を叩いた。心臓が頭の中で鳴っていた。どうしてこんなに必死になっているのか、自分でも不思議に思う。
「メル!」
軽い足音と、衣擦れの音。時間を引き延ばしたようにゆったりと木の扉が開く。ほんの数秒だった。彼女の姿を実際に目にすると、時間は正常に戻り、シリウスはへたり込みそうになった。
「……君は」
星の森の魔女は、記憶のままに存在した。広い大部屋を背景に、真っ白で触れたら溶けてしまいそうな髪、華奢な身体を包む純白のドレスとチョコレート色のローブ、これ以上ないほど儚く繊細な顔立ち、心地よい声と透明な空気。
深くて、何もかもを飲み込んでしまいそうな目だった。
その柳眉が僅かに顰められたのをシリウスは見逃さなかった。
「私の記憶違いかな。いいや、そんなこともないだろうなぁ……不手際? この私が? うんぅ?」
取っ手を持ったまま、独り言ともつかない台詞は、当然核心に迫っている。シリウスは深く息を吸って、深いブラウンの瞳を見つめた。変わらぬ様子に安堵もしたが、なんだか少し腹が立っていた。
「記憶を消したことですか? 確かに、俺は、一度忘れました……でも、思い出した。他の皆は、アンク以外は忘れたままですけど」
「てことは、なんだろうね?」
「知りません! どうして記憶を消したりしたんですか? 俺は、冬の間ずっと、そのことばかり……そんなことしてほしくなかったから」