失われた記憶の記録<4>
そんな風に。
私は理解して、心身を汚して、諦めた。
もう未来など考えない。綺麗事を言っても所詮力と運命が全てだ。世界は決して優しくはない。非情で。ただ、在るだけ。だから今この瞬間だけを見ていれば、苦しくない。辛くもない。
荒野のあの人の弧城に戻って、それまで以上に、魔術に没頭した。私の技術はすればするだけ面白いほどに向上した。自然魔術、精神魔術。たった一人で、何日も眠らず、ハレーに何度も声を掛けられても無視して、自己中心的に、自傷するように、石造りの冷たい部屋に篭った。恐らくその姿は異常以外の何者でもなかったが、もはやそんなことはどうでもよかった。昔を思い出すこともほとんどしなくなった。限界が来て床に転がり、薄れゆく灰色の景色の中で私は死を思った。
ワンズと出会った時点で。
あの、私の姿をした子どもは、死んだのだろう。
名前すら知らないあの子に何を期待していたのだろう。
そもそも、本当にあれは私だったのか。
あの人に創られた、あるいは都合のよい脳の作り出した偽りの記憶ということを否定できる根拠もない。
そうだったらいい。
そうだったら、いいのにな。
「どうでもいいことか」
深く考えることも止めた。魔術しかないのだから、魔術を向上させる。今までのちょっとした腹いせに気に食わない悪魔人形を壊してみる。機会があればワンズも殺したい。でもそれはどうやら無理そうだから、早く死なないかと時々考えてみる。
私は身体つきからおおよそのところ十四歳ほどの年齢になっていた。摂理抗争も終盤で、魔術師や魔女は聖人達に逆襲され始めていたが、私はそんなことに全く興味はなかった。
どうせ未来の見えるワンズに敵う人間などいるはずがない。
無駄だ。
運命に逆らえないのと同じように、世界中で魔女があの人だけになったとしても、あの人にだけは逆らうなど出来はしないと、冷めた思考で思った。
「あんた、面白いね。すごく気に食わない」
そう、そして、燃え尽きる寸前のような賑わいを見せる魔術師達の集会サバトにも参加した。そこでは私は見習いとして蔑まれながらも、ワンズの唯一の弟子として恐れられてもいた。
麻薬の匂いと罵声、陵辱、乱闘と酒と欺瞞が飛び交う。汚れた空気の中で、傲岸不遜に声を掛けてきたのが、銀色の髪をした青い目の魔女だった。
危うさが美しく、私と同程度の年齢で、同様に沈んだ目をして、触れれば氷のように冷たそうだった。唇だけが赤い。彼女は、名前をリクレア・アレアと名乗っていた。
「私も同じだなぁ」
ふざけるなと、温度のない視線で見返した。久々に頭に血が上った。喧嘩という名の殺し合いが、私たちの初対面の挨拶だった。
リクレアは自然魔術に優れていた。彼女の銀髪や藍色の目に炎が映える瞬間は華麗で、退廃的な一枚の絵のようにも見えた。他の魔術師達を巻き込みながら、サバトが行われていた広い廃屋を二人で廃墟同然に変えた。それでも勝負はつかなかった。お互いに満身創痍で朝日を拝む頃には、どちらももう殺しあうだけの魔力は失われていた。
似ている。
それだけのことを知り、私たちは互いを哀れんだ。
「街にでも行こうよ。教会を焼いてやろう」
「ああ、いいね」
それ以来どちらともなく、行動を共にすることが多くなっていった。
銀色の華美な衣装を纏うリクレアに対抗するように、私もブラウンの髪に合わせた露出の多い金のドレスを身に纏い、人間界に夜な夜な繰り出した。
人目を引き、魔女だと恐れられ、男の目を惑わし、災厄を振り撒いて歩く。物を盗み、建物を傷付け、家畜を逃がし、声を掛けてきた人間は身ぐるみを剥がして放り出す。つまらないサバトを抜け出し、二人でちっぽけな八つ当たりを繰り返した。
「早く、師が死ねばいいのにな」
「早く、全部滅びちゃえばいいのにね」
リクレアも、有名な魔術師の弟子で、諦めをその身に宿していた。私たちは、一人では魔女でいることも出来ないような気がしていた。もう一人の可哀想な自分を相手に映して、まだ大丈夫だと、繋ぎとめようとしていたのかもしれない。
たくさん話をした。
私は私のことを、彼女は彼女の事情を話した。言えるのは、あんなに素直に身の上を話すことが出来たのは、後にも先にも彼女だけだったということだ。
なぜなら理解できた。誰もわからないだろうと諦めていた苦悩を、溶かしあうことが出来た。
沈み行くサバトの夜に屋根の上で身を寄せ合い、いつまでも言葉を交わした。
魔術談義では、リクレアに自然魔術をずいぶんと教わった。代わりに私は精神魔術について教えた。親交が深まるにつれ、美容や衣装の話もするようになった。ハレーも加わって、くだらないことで三人で笑うようになった。リクレアの前だけなら、心が軽くなって、私は時間も過去も思い出すことはなかった。
「有罪」
本当に、それだけで、その他の事を何か考えることを、放棄していたのだろうか。
「死んでいただきましょう」
そもそも──放棄だなどと言えるほどの可能性だったのか。
「メル。殺しなさい」
大嫌いなサバト。大勢の不徳な取り巻き達。女王として君臨するワンズ。その足元に沈む凄惨な死骸。有名な魔女だった女。リクレアの、師だった、人。双子の兄弟のように痛みを分かち合った銀色の少女は、呆然と師の残骸を見ていた。硝子のような瞳だった。
ねえ、どうして。
むせ返るような匂いの中、その呟きは私の口から実際に漏れたらしい。
「人間どもに媚びようなどと、考えるなんて、許されると思うのですか?」
「ゆるされる?」
「この私に隠れて聖教に和睦をねえ? ああおかしい」
「おかしい?」
もはや完全に劣勢に傾いていたらしい摂理抗争の終盤時期。
現実を受け止め、聖教側に妥協を考える魔術師が出てきたのはむしろ自然なことだった。ワンズに言わせればそれが、リクレアの師とその取り巻き達だった。真偽も分からないのにあっさりと殺した。いい訳も聞かなかった。違うから。平等な世界じゃないから。ここは、ワンズが支配する世界だから。
「メル。殺しなさい?」
その、智の魔女が、私に向かって命令している。漆黒の美貌で微笑みながら言う。
裏切り者の一派を絶やせ。リクレアを殺せと。彼女。リクレアを。たった一人の理解者である。友達だ。じっと蒼い目で死体を見つめたまま身動きをしない銀色の少女。私と同じように、滅びを望んでいた少女。かわいそうな女の子。
「────」
リクレア。
声が出なくて。どうしても声が出なくて、心の中で何度も呼びかけた。
でも、違うんでしょう? そうじゃないよね。望んでいたのは、もっと違う、終りの風景。
例えば、海底に沈んでいくような。
静かに花が散り行くような。
弱い雨が、止むときのような。
わかるのに。
リクレア。
私達は、こんな風にしかなれなかったのかな。
せめて私の手でなんて思わない。
魔力を形に変えながら別れを告げる。彼女に教わった自然魔術は、少しも威力は篭っていなかった。返り討ちにあって私は彼女に殺されようと思った。
だって、殺すなんて出来ない。あの人にも逆らえない。他に選択肢もない。リクレアに殺されるなら、許せる。
不完全な風の魔術が完成した瞬間、私は彼女の硝子の瞳と目が合った。
悟って、息が止まった。視界が揺れた。何もかも遅く、魔力が手から離れて、彼女の身体が引き裂かれ、生温かい血が私の全身に降りかかった。意味の読み取れない歓声が上がった。
「……──?」
例えば、似ていたら、同じことを考えるだろうか。どうなったって絶望的な未来しかなかったら、全てを放棄して終りを選んでしまうだろうか。
後から考えればリクレアが私を殺してくれるなんて、あまりにも幻想的だった。私を殺したところで、リクレアはワンズに殺されないわけじゃない。結局生き残れないのなら、わざわざ私を殺したくはないだろう。それに、もう何かを考える気力も無かっただろう。だからといって、私が殺してあげようなんて、そんなことを考えるわけが無い。不可能だった。リクレアはもう一人の私だった。別々のことを考え、価値観の相違はあっても、確かにもう一人の自分だった。
血溜まりがすぐそこにあった。じわじわと広がって、靴に触れた。跪いて手を伸ばした。赤い黒に触れた指先は、滑稽なほど震えていた。私は声を失ったままゆっくりとあの人を見上げた。あの人は冷たい目をして微笑んでいた。稲光が瞬くような短時間で、わかってしまった。
「あ……、……」
まちがえた。
マチガエタ。
イヤダ。うそだ。
こんな────!
私は気付いた瞬間に、嘔吐した。
リクレアの不器用な表情が脳裏に鮮明に蘇り、目の前が真っ白になって、壊れた暗闇の中でもう二度とこの闇から這い上がれぬだろうと確信した。
私はそのとき初めて誰かを殺した。
決してしてはならないことをして、失った。
ただ抱きしめて、最期まで守ってあげればよかっただけの、たった一人の理解者を、永遠に裏切って、壊した。