失われた記憶の記録<3>
「メル……メル……、朝だぞ、……大丈夫か?」
「う、ん……」
翌日の目覚めはひどくだるかった。
慣れない身体の酷使が響き、私の未熟な身体はぎしぎしと悲鳴を上げていた。寝床は暖かくなく食事も十分とは言えず、私は死の気配にひどく怯えた。こんなところで終わるなんて絶対に嫌だった。生きてきっとやり直す。もう一度あの日にたどり着くまでは──……
ハレーを抱きしめてしばらく固く目を閉じ、精神統一をはかった後、私はゆっくりと起き上がった。魔術の訓練は私に並々ならぬ精神力を身につけさせていた。
「おはようございます……あの、」
勇気を出し心を宥めながら声を出した。信者達はいぶかしそうにしながらも、わずかばかりの食事を提供してくれたし、追い出したりもしなかった。ただし必要以上に関わろうともせず、私は長い間一人でぼうとうたたねをしながらじっと教会の隅で座っていた。
「メル君……だったかな? 困っているんだったね。丁度、住み込みで働ける場所があるのだがね」
昼過ぎ、ようやく恰幅のよい祭司は柔和な表情でそう語りかけてきた。私はもちろん二つ返事で承知した。そのとき、それ以外に何が出来たというだろう。
私には分からなかった。必死で、目の前の食べ物やお金や、今日、明日だけが重要で、それだけしかなかった。もがいていたし求めていた。きっと、渇望していた。
信じていた。
それだけだった。
それだけで、何でも出来た。
「さぼったりしたらすぐに追い出すからな」
端的に言うとハレーの予想は的中し、私はほとんど売られたようなものだった。紹介されたのは薄暗いイン(宿屋兼酒場)で、下働きから給仕、掃除まで何でもやらされた。
そして私は同時に貞操を汚した。何も分からないまま夜にも客を取らされたのは、子どもながらに魔女特有の容姿のよさが裏目に出た結果だった。思い返せば無知で金のない娘が辿る最下層の生活を、私はしていた。
それでもまだ、辛いとは思っていなかった。あの頃より、ワンズの城よりはマシだと思った。いいに決まっている。寒さと酷使で手が荒れて爪がぼろぼろになっても、店主に扱き使われても、下品な客に絡まれても、夜乱暴なことをされてひどい目に合わされても、街で冷たい目で見られても、哀れまれても、毎日ひどくだるくて呼吸が苦しくても、きっと、絶対に──……なぜなら希望も残っていたからだ。
「メルっていう名前なんだね……その年で、大変だったね。でも君はこんなところにいるべきじゃないと思う。少なくとも僕は」
ある日私の前に現れたその人は優しかった。働いていた安宿で出会い、決して美形でも金持ちでもなかったが、誠実で温かな目をしていた。何よりこんな私のことを心から好きだと言ってくれた。
なぜだろう、戯言や情事でうるさいほど何度も言われてきた好きという言葉が、初めて本物の言葉だと思った。私はただ嬉しくて、彼に会うためなら何でも出来るようになった。抱きしめてくれる。頭を撫でてくれる。優しい笑顔で、飾らない言葉で、澄んだ目で、いつか一緒に暮らそうと言ってくれる。過酷な毎日の中で、彼だけが私の未来に存在していた。
そして夏の都市に来て一年近く経ち、ほんの少しだけまた大人に近づいた頃、とうとう二人で逃げ出そうと誓った。
ハレーも劣悪な生活環境にたびたび憤っていたから止めなかった。身も心も文字通り汚れきった私だったが、本当に幸せで、逃亡を予定した前日の夜は何度も神に感謝した。彼に会うためにこの街に導かれたのだと心から思えた。
だから、信じられなかった。
翌日予定の場所に辿り着いた時に目にした光景を。
見るなと、ハレーの意味の分からない悲鳴が響いても。
「え……?」
「久しぶりだね」
あの人がいた。
微笑んでいた。漆黒の美貌を纏う智の魔女ワンズ。そして彼。あの人の足元に、将来を約束した彼が跪いている。
私は固まったまま不思議な心地で呟いた。思考が追いつかない。なぜ。どうして。あの人に、相変わらず何も変わらない圧倒的な女王に、ただ一人の魔女に、彼は、私の愛する彼は、
「メル。まあ、そんなにみすぼらしい姿になって、どうしたというのです? だから言ったのだよ? 魔女が人間になれるはずがないと。何も知らないかわいいメル。もう理解したでしょう。運命など決まっていて、犠牲のうえに幸せになれる人間は一握り。後は慰めに偽りを重ねて己を騙すのみ。落ちぶれて惨めに腐るのみ。優しさなど欺瞞。希望など幻影。お前は魔女で、この美しい世界の麗しき悪病なのに」
見蕩れていた。
ワンズだけに魅入られていた。彼は智の魔女しか見ていなかったし私のことなど振り向きもしなかった。声を掛けても振り返らない。どうして? ああ、どうしてかな。好きだよ。すきなんだよ?
愛してる。アイシテル、ノニ、
「いやぁああぁあああっ!!」
どっと熱いものが溢れ出した目を閉じて、耳を塞いで髪を両手で掴んで、力を込めながら狂乱し、地面に這い蹲った。落ち着けと叫ぶハレーを追い払い、泣き喚き、飛びつくように彼の腕に縋りついた。それでも彼は私のほうを見なかった。呟いていた。
「僕は、この人に出会うために、生まれてきたんだ」
聞き間違いじゃない。ワンズに出会うために。
あれだけ約束した、私、では、なくて。
「メル、そんなに泣いて、みっともない。だから言ったのに。孤独で在れと。魔女の戒律を守るためには、ここから始まりこれで終わる。誰にも。何にも。心を許してはなりません。信じてはなりません。尊敬してはなりません。この私以外は」
あの人の手がゆったりと私に触れた。その途端に懐かしく忌まわしい魔力が私の中にもどってくるのが感じられた。突然の感覚に上手く制御が利かず、手当たり次第に多くの生き物の、とりわけ人間の感情や思考が流れ込んできた。ぐちゃぐちゃと。鬱々と。汚らしい人間の。そして彼の。私のことなど欠片も考えていない、ワンズだけに奪われている彼の心。少しだけ期待していた。彼の心の中の片隅にでも私があればいいと思っていた。それすら奪われて、私は呆然とした。
路地裏。
煩雑ですえた匂いがして薄暗い最下層の一角。
信じていた。
信じようとしていた。
あの頃よりは、マシだと。ワンズの側にいるよりはいいと。
本当にそうだっただろうか?
言い切れるというのか? 最初から。空腹で、みすぼらしい姿になって。騙されて。安い金で売り払われて。扱き使われ、馬鹿にされ、身体まで道具のように汚されて。必死で自由もなく、体調もいつも悪くて。
挙句の果てに、私の全てだったちっぽけな願いまでいとも簡単に裏切られた。
幸福? 希望? 未来? ヤサシサ──?
汚い。
汚い。
人間。大人。
ワタシ。
汚い。汚い。汚い。汚い、汚い、汚い、汚い、汚い、汚い、キタナイキタナイキタナイキタナイ────
「さあ、帰りましょう、メル。コレはどうしようかな? 連れて行ってくれと言われてもねえ。人間など何の役にもたたないからね。悪魔人形の器になるというなら話は別だが。何? それでもいいって? ふふ、そう……」
悪魔人形の作り方というものを知っていた。あれは、ハレーのような本当の人形に悪魔を取り付かせるほうが稀なのだった。大抵はそれでは機能が不足する。だから生き物で殻を作る。要するに生き物の魂を抜いて、精神を破壊し尽くして空にして、そして代わりに悪魔を入れる。
彼はそうしてワンズの悪魔人形の内の一体となった。
私はあの城で、もう抜け殻でしかない彼が聖人達にあっけなく壊される姿を、最期まで見ていた。