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失われた記憶の記録<2>

「メル……、大丈夫か?」

「うん……平気よ。全然、平気よ。嬉しいの。嬉しいから、ね……?」


 日が暮れかけた荒野の隅で、ようやく動けなくなって座り込んだ私は、ハレーに問われて初めて顔を拭った。いつの間に泣いていたのか、自分でも知らなかった。周りは寂しい枯れ草ばかり、走り続けたために疲労が溜まり空腹で肌寒く、文字通り私には何もなかったが、心は全てを凌駕して満たしてくれていた。

 ここからはじめよう。わたしのはじまりとして。

 少し、遠回りして時間を失ってしまったけれど。きっとまだ、わたしには未来が残されている。

 だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ──……

 ハレーを抱きしめ、何度も何度も心の中で繰り返し呟きながら、私は冷たい荒野の中で幸せな眠りに落ちた。翌日朝日と寒さで目覚めたときの気分は、言葉で表すことは出来ない。夜明けが目の前にあった。徐々に赤く焼けつく空と確かな植物達の生の気配に身体の芯が震えた。草原を包む霧と、露の輝き。魔術が封じられてしまったせいで生物の声を聞くことは出来なかったが、十分だった。

 世界はなんて広いのだろう。なんて不思議で美しかったのだろう。

 感動し、神に感謝しながら、私は凍えて固くなった身体を抱えてまたひたすらに歩き続けた。足は重く呼吸は乱れ、生物の本能に苦しめられながらも、これまでの苦痛を思い出しては耐え、日が傾く頃に一本の道に辿り着いた。それを少しずつ辿る間も、とてつもなく辛い空腹と寒さだった。血が混じるような嫌な呼吸が、腹痛と交じり合った。紛らわすために、ハレーに何度も同じ話をした。私を支えていたただ一つの記憶の話だ。


「ねえ、わたしの、居た……」

「メル、あんまり無理するなよ……」

「うん……わたしの、ほんとうの、家に……たどり着ける、かしら……」

「ああ、そうだな」

「わたし、ね……晴れた春の丘で……野苺を、つんでいたのよ……」

「そうか」

「歌手に、なりたかった、ような気がする、の……庭で、うたを……」

「そうか」

「きっと、おばあさまが……褒めてくれて、それで……」

「うん……」

「わたしの、名前……、わかるかなぁ……」

「きっと、わかるさ……」

「そう、ね……」


 朦朧として言葉が浮かばなくなると、歌を口ずさんだ。古い、題名も知らない歌を、繰り返しながら、彷徨った。苦しい。辛い。足が痛い。感覚がない。認めない。生きる。生きてみせる。もう一度、人間として、わたしは、きっと──……

 気力だけで二日歩いた結果、私はいつの間にか蹲っていた。そして声が聞こえた気がした。確かに人の声だった。重い瞼を開くと、困ったような顔の男性が私を覗き込んでいた。空は夕日で真っ赤に染まっていた。


「お嬢ちゃん? おい、死んでるのか?」

「……生きて……ます……」

「一体、こんなところで──」


 その人は馬車で荷を運ぶ途中の農夫だった。私は、どうにかして街へ連れて行ってくれるように懇願した。持ち合わせもないため最初は渋っていた男性だったが、子どもの哀れさと彼の人の良さが幸いして、私は私の髪と引き換えに馬車の端に乗る権利とほんの少しの食料を得ることに成功したのだった。


「もったいないなぁ……メルの髪」

「いいのよ、そんなの。また伸びるから、ね……?」

「そうだけどさ……」


 夜、服の中に隠したハレーとこっそりと会話をした。私の髪は色素の薄いブラウンで、魔力やワンズの秘薬のせいかもしれないが、十分に売れるほどの質であったと思う。魔女という異端は大抵美しいものだったのだ。

 そうして行き倒れて死ぬことなく、私は街に辿り着くことが出来た。そこは、偶然ながら驚くべき規模と活気のある場所だった。

 夏の都市。

 秋の都に代わり、経済の中心を担うようになった、野心と欲望溢れる交易都市だった。


「すごいね」

「あぁ……」


 そんなにたくさんの人を目にしたのも、賑やかな喧騒に包まれたのも初めてで、私は軽くなった髪をふわりと靡かせながら一人しばらく立ち尽くしていた。石畳、行きかう馬車、煌びやかな店、呼び売り商人、ひしめく住宅の窓、様々なにおいの混じった空気と風、野良犬もどんな階級の人間の姿もそこにはあった。不思議と懐かしく、この場所を夢で見たのだろうかと思うほどだった。

 それにしても早足の人々の流れは不安を煽り、何かをしなくてはならない気分にさせるものである。私はすぐに空腹と明日のことを思い出さざるを得なかった。意識に上ると現金なもので、どこかからパンの香りがして、屋台には魚や野菜が積まれているのが目に入る。水売りの派手な服も目に飛び込んだ。


「交換、しなければいけないけれど……」


 どうやって先立つものを手に入れればいいのか、ひどく途方に暮れたのだった。ためしに手当たり次第に家の戸を叩き、雇ってくれないかどうか、仕事を知らないかどうか尋ねたが、芳しい答えは得られなかった。


「教会に行ったらどうだい」


 比較的人の良さそうな者達はそう口にした。教会。聖教。もちろん知識としては頭の中にある。限界まで気が向かなかったのは、聖教の信者達を蹂躙するワンズを散々見てきたせいだった。

 彼らの憎しみは深く、苦痛に歪む死に顔は、子どもだった私の心を確かに鋭く抉って歪にした。死に対する恐怖と力の絶対、世界に対するある種の諦めが、私の中にこびりついて拭えないほどに増殖してしまっていた。


「死ぬくらいなら、なんでもする。それが、正しいのでしょう」


 だがいい加減空腹も耐えがたく、死ぬ気は毛頭なかったから、私は覚悟を決めて教会の門をくぐった。小さな庭があり丸い苔色の屋根をした、夏の都市にしてはこじんまりとした建物を選んだ私は、まず胡散臭い顔で見られた後、祈りの場の隅で半時間ほど待たされた。がらんとして薄暗い石造りの部屋である。やがて祭司と呼ばれる男がやってきて、色々と質問しながら私を眺め回した。ほとんどしっかりとは答えられなかった。しかし、祭司は最後に笑顔で頷き、パンと薄いスープだけの質素な食事を用意してくれた。


「とにかく、疲れたでしょう。しばらくは休みなさい。近く仕事を紹介してあげよう」


 ありがとうございます、と、頭を下げた気持ちは心からのものだった。聖教に対するこれまでの負い目も交じり合い、私は居心地の悪さと神への消極的な感謝を胸に抱いた。なんだか嫌な感じがするという、ハレーの言葉も食事と寝床の前には耳をすり抜けた。そうして私は質の悪い布に包まって、夏の都市で初めての眠りについたのだった。



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