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失われた記憶の記録<1>

 智の魔女ワンズ。世紀の魔女。私の師。

 濡れた黒真珠のような長い髪を花飾りで結い、雪のような肌にきわどいローブを纏い、常に幻惑されずにはいられない美貌で微笑む、あの人こそ、魔女だった。あの人が生まれて、あの人を表すためにその言葉が出来たのではないかと思うほどだった。

 けれどあの人に対する呼び名を、未だに私は持たない。


 あの人に関する私の中の記憶は、悲しみでも怒りでも屈辱でもない。例えば、どうにかして言葉にするとしたら、それはとても単純に言える。

 絶望。

 私にとってのあの人は、絶望そのものだった。


「追求すること。自分勝手であること。美しくあること。欲望を持つこと。命を知ること。そして、孤独であること」


 ワンズは何度も繰り返し言い、魔女の戒律を私の中に刻み込んだ。それは彼女自身が模範だった。ひたすらに探求し、どこまでも自己中心的で、誰よりも美しく、ひどく強欲で、あらゆる知識を持ち、唯一の孤独な人だった。


「お前は今日から、メル・カロンと名乗るのですよ。なぜ? 私がそう決めたからです」


 あの春の丘でわけも分からず攫われ、気付けばどこかも分からぬ陰気な古城にいて、魔性の黒い瞳でそう告げられた。

 当然嫌だ、そんなのは違うと幼いなりに拒否した。しかし目の前で笑みを浮かべる魔女があまりに恐ろしく、そして今までの記憶や、本当の自分の名すら思い出せない事実に愕然とし、私は再度気を失いかけた。

 許されなかった。

 顔を容赦なく打ち据えられた。あの時は何者かも知らなかったが、赤黒くそれは恐ろしい鬼のような悪魔人形に。


「私に選ばれたことを光栄に思い絶望なさい。メル。私の弟子は、目下お前だけなのだからね」


 突然の暴力に鼻血を流し、苦しみ、呆然とする私に向かって、ワンズは王座に身を沈め頬杖をつきながら、やはりとても美しく微笑んでいた。地獄の始まりだった。私が推定五歳の頃の話だ。


 一週間もせず、私は壊れかけた。なにしろ城にいるのはおぞましいワンズと悪魔人形ばかりで、突然家族も記憶さえ奪われ、劣悪でわけのわからない環境にぶち込まれたのだから、無理もない。食事は不味い粉と薬草のみで、魔術という正体不明の訓練をほぼ休みもなしに強いられていた私は、ついに殴られても水を掛けられても起き上がる力を失ってしまった。死の感覚を知り、その時ほど闇が優しいものだと思ったことはなかった。


『おい、起きろよ……』


 そして硬いベッドの上で目覚めたとき、側にいたのが、コウモリの羽を持つ小さな黒羊の人形だった。

 懐かしく愛らしい顔。話かけられているのが夢ではないかと思い、けれど辺りはまだ恐ろしい城だった。

 私は不安交じりにじっとその人形を見つめた。そのときの私にとって、他の生物何もかもが恐怖の対象だった。かわいらしいのは姿だけで、罠かもしれない。悲鳴を上げるのも恐い。そう思った。

 そんな恐慌状態に気付いたのだろう、羊の人形は困ったように首を傾け、ぽつりと言った。


『大丈夫、か……?』


 だ い じ ょ う  ぶ  ?

 なんだろうと、一瞬、意味がわからなかった。答えられなかった。声が出なかった。

 突然、何か得体の知れないものが胸の奥からこみ上げてきて、我慢する間もなく身体全体を震わせて、どっと溢れ出した。全身の傷が痛み、熱いのに凍えそうだった。どうしても堪えきれず、私は泣いた。恐ろしい悪魔人形がやって来ないよう、顔にシーツを押し付けるようにして泣き叫んだ。悲しみとも怒りとも不安とも苦しみとも言い切れないものが、凍り付いて堰き止められていたそれらが、その、どうしても手に入らなかったなんでもないちっぽけな確認の言葉によってあっけなく決壊してしまった。

 大丈夫じゃない。大丈夫じゃない。誰か、誰も知らない私を、誰か、何も覚えていない私を、せめて私の本当の名前を、少しでいいから、自由を──……

 泣き止まない哀れな子どもを、自身も生まれたばかりの黒羊は不器用に宥めた。


『める? 結構、いい名前じゃねぇか? 俺は、そう思うぞ。俺もまだ名前がないから、ついでに決めてくれよ。な? 何がいいだろーな……』


 信じられないことに、その羊の人形は悪魔人形だった。けれどもはや私にとってそんなことは些細なことだった。優しさ。常識。思いやり。友達。弱さ。切望していた感情に、私はわらにも縋る思いでしがみついた。ハレーと、そういう名になった小さな悪魔人形に、私は崩壊を食い止められた。それもまたワンズの思惑だったのだろう。


「メル。やはりお前の才能は本物だね。私には運命がよく見えるのです」


 誰よりも際立つあの人は、私の魔術が上達したときだけ、ひどく褒めた。実際一年二年と月日を重ねるにつれ、私は魔術に没頭し、いつのまにか身体の一部、自らの興味の大部分としての位置を占めるようになった。占術、自然魔術、錬金術、召喚魔術、そして精神魔術。他人の心に敏感だったため、気付けば人の心とはなんなのかいつも考えていた。


 それにしても、あの人は圧倒的だった。

 女王だった。本当の意味でその言葉が似合った。彼女の前には何もかもが平伏した。彼女が主役だった。彼女の他は霞んだ。なにしろ彼女には比喩ではなく未来が見えたのだから。


「無意味なことなのです。未来の前には、全てが。ほら、見てごらん、メル。どんなに素晴らしいようなものでも、強いものでも、知られていれば、無意味になる。惨めな死に様を晒すことになる」


 人間の残骸──まさしく、そうとしか言いようのないおぞましいものを悪魔人形達に積み上げさせながら、あの人はやはり微笑んでいた。その頃は摂理抗争が勃発した初めの頃で、まだ魔術の通じない聖人も存在せず、暗殺を狙う聖教の兵達を魔術師が蹂躙していた時代だった。果敢に女王を打ち倒しに来た者は、彼女を目にすることも出来ずに、待ち伏せる悪魔人形の餌食となった。

 理由は長い歴史の中で停滞と衰退の兆しを見せていた占術。ワンズの真価はそこにあったのである。従来は、相手の情報をある程度把握したり、遠くのものごとを知ったり、曖昧な過去を覗き見る、そういう技術が占術だった。それを、ワンズは未来予測に発展させたのだ。もちろん全ての未来を知る術ではなかったようだが、それでも驚異的な力であり、大勢の者を恐れさせ、支配するに至った。自然とあの人は智の魔女と呼ばれるようになった。


 私は、もちろん恐かった。

 しかし年月を過ごすうち、その恐怖も麻痺するようになり、そんな状態に嫌気がさすようになった。冷たい古城で、滅多に外へも出れず、魔術とあの人だけに生き、絶望したまま幾度も季節をめぐる。春が過ぎ夏が終わり秋が熟し冬が融けても、何の関係もない。冷たいあの人と冷たい古城。ハレーと魔術だけが慰めである毎日。時折不道徳で不快な魔術師達の会合、サバトに参加させられるのも最悪で、むざむざ死にに来る聖教信者達を見るのも吐き気がして苦しかった。あの人に奉公することも、不気味で暴力的な悪魔人形に邪険にされる毎日も、嫌でたまらなくなっていた。


「誰も助けてくれないし、そんなことを期待すること自体、間違いだった。ハレー、わたしは反省したわ。自ら打開を求めなければ、運命は開かれないと思うの。わたしはそれを証明して見せたい」


 従順で虚弱なだけの幼子から人格を形成する時期に入っていた私は、小さな黒羊の人形を抱きしめながら、いつしかそういうことを語り始めていた。

 とにかくここから出たい。

 あの人の下から逃れたい。

 魔女になどなりたくない。

 あの春から、長く閉じ込められ支配され続けるうちにそれは耐えられないほどの願望となり、ついに私は行動することを決意した。脱走したところで、占術の権威であるワンズには必ず知れる。だから正々堂々と宣言し、城を出る。危険だ殺されたらどうするんだと必死で止めようとするハレーを振り切り、私は持てる全ての力を振り絞り、それでも震えて掠れる声で、あの人に決別を宣言した。


「そう。そう……ふふ、とてもかわいい言葉だこと。しばらく好きにしてみるとよいでしょう。ただし、魔術を人間界に入れることは許さないよ。禁じておこうね」


 変わらない笑みで、匂い立つ圧倒的な美貌で。予想に反し、あの人はあっさりと私を放り出したあげく、どうやってか、私がこれまで積み上げてきた唯一のものである魔術を使えないようにしてしまったのだった。ああ、そして――息を切らせて城を飛び出した私に残されたのは、そのとき身につけていた衣服と、ハレー、そして信じられないほどの開放感とわけのわからない感情でいっぱいになった小さな胸だけだった。雲の多い灰色の空と荒れた草原を、ひたすら駆け抜けた。私がおよそ十二歳の頃の話だ。







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