悲境に寄り添う落日<3>
振り返って確認できたのは、深い紺と金糸の祭服を身に着け、美麗な権杖を持った年齢不詳の男だった。
聖教大教主フランシェスコ。秋の都の教区を半分以上取り仕切っている人物の台詞に、ディークと名乗った間抜けは目を剥いた。
「か……、カサブランカ? ミザミ……王の鴉?」
「だったら何だ」
冷たい目を向けて言い放つと、間抜けは「魔女、呪われる」などと情けない悲鳴を上げ、慌てふためいた猿のように逃げ出していった。考えを改めざるを得ない。嘲るメルの態度もあながち間違っていたわけではないようだ。
そして、改めてフランシェスコに目を向ける。ミザミ・カサブランカにとって彼は、敵でも味方でもない。ただ、極めて敵に近い存在ではある。
「何か言いたいことでもおありですか? フランシェスコ猊下」
ミザミが距離をとったまま尋ね、心外の意を示す。気をつけておかなければならない相手だった。なぜならミザミは、魔女や魔術師たちに寄り添っている。正確に言えば、寄り添うことを仕事としている。別にミザミやカサブランカ家が魔女の家系だからというわけではない。
カサブランカ家は王の臣下だった。二十七年前にあたる月暦529年に勃発した、魔術師と聖教の対立「摂理抗争」。それが、その二つの勢力のみの問題で終焉するはずもなく、当然この国にも王にも何らかの悩みを与えた。結果として、王は何にも味方せず、静観に回ることを選んだ。それがよかったのか悪かったのかはわからない。悪くはなかったことだけは確かだ。
もちろん聖教が勝利を収めた現在、そちらにある程度の融通を図っているが、今でも摂理抗争の名残はある。
王はどちらにも味方しなかったが、どちらの動向も興味深く監視していた。聖教側、そして魔術師側。カサブランカ家は、魔術師側の、監視役だった。魔術師たちがどのような動きを見せるか、国にどう影響を与えるか、それを魔術師たちにある程度味方することによって常に監視し、王の耳に入れる。十六年前、月暦540年に摂理抗争が終焉してからもそれは細々と続いていた。魔術師たちは激減したが、滅びたわけではない。倫理観こそ欠けるものの能力としては際立つ存在は、不穏分子として、それに利用価値として、ミザミはイグドル王の命に従い彼らを監視していた。
聖教サイドとしては、罪である魔術の世界に公然と身を浸すカサブランカ家が面白くないのはもちろんのこと、何よりイグドルが利用価値として過剰に魔術に興味を示すことを恐れている。今更罪人の復権など認められるはずもないのだろう。だからミザミは出来ればいないほうがいい。偶にはいなくなるように、ちょっかいをかけられることもあった。
魔女たちに関わることで、数々の畏怖や畏敬や不名誉を浴びせられるミザミは、今更何を言われようとほとんど動じない。王の鴉だの呪われた当主だの馬鹿馬鹿しくて腹も立たなかった。だが実害を被ったり暗殺対象となることはもちろん別のことだ。
「いえ、もしやと思いましてね……そちらの、」
メルはフランシェスコに目を向けられても、相変わらずつまらなそうにそっぽを向いていた。確か彼女自身が摂理抗争に参加した事実は無いし、別に聖教自体には何の感慨も無いらしい。
「そちらの方は、ずいぶんと、有名な方ではありませんでしたか?」
白の魔女。
星の森の奥深くからほとんど動かず、魔術師達の世界に姿をあらわすことも無く、必要以上に交流さえしようとしないにも関わらず、この魔女の異名はどこまでも有名だった。
生ける伝説、といったところか。理由はありすぎるほどにある。ミザミはそれが、望まない名誉であり不名誉であることしか分からないし、それだけ分かっていれば十分である気もしていた。結局のところ哀れだった。メル・カロンは、どこへ行っても魔女にしかなれない。
質問に答えた。
「だったら何か? 今はただの私の護衛ですよ。少々見栄えはしすぎるようですが──今はね」
だから迂闊に手を出すな。ただでは済まさない──ミザミはそう伝えたつもりだった。
フランシェスコは、流石に大教主だけあり柔和な表情を崩すことは無かったが、内心では鬱陶しく思ったかもしれない。魔女に近寄ると穢れる、というのが世の風潮で、聖教信者ともなればその傾向はより強くなるのは必至だが、フランシェスコは平然と佇み、いかにも支配者の顔をしていた。そういう本音と建前がミザミは気に入らない。
「未来は改めることが出来ます。あなた方に癒しの雫が落ちんことを」
本気でやりあうつもりはなく、ただこちらの状況を確認したかっただけなのだろう、フランシェスコは読めない定型句を並べ、あっさりと踵を返した。
そしてその途端ぽんと肩に手を置かれて、ミザミは思わずびくりと身を震わせてしまった。
「な……んだ、急に」とメルを見上げると、
「ぅんん? ちょっとした補給。ミザミちゃんかわいい。追い払ってくれてありがと。心配しなくても、言ってくれれば三人くらいは始末してあげるし、ミザミちゃんを傷つけた奴にはちゃんと報復してあげるよ」
「頼もしい限りだな……」
なでなでなでと、頭を撫でる白い手袋をため息混じりに追い払う。連絡係の兵士が目を丸くしており、ミザミは若干気まずく会話を再開した。
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居心地がいいわけがないのだけれど、それにしても空気が悪いと思う。
メル・カロンは人間のような格好をし、彫像のような表情をして、意味も無く腐り落ちそうな都というものを眺めていた。
ミザミは会議に参加しているから今はいない。ハレーは人間達にとって異物だから連れてきていない。ここには何でもあるようで、その実何も無い。だってメル・カロンという存在は非常に退屈している。
「あの、」
それからここの人間は綺麗なものが好きなのだろう、と思う。まるで、綺麗なものを手に入れてそれに囲まれていれば、自らも美しいのだと言わんばかりに。
吐き気がしそうな幻想だ。もし美しいものの本質が分かるのなら、誰一人として自分に話しかけたりしないだろう。外見に惑わされ、忌むべき魔女に自ら近づいたりしないだろう。不愉快で、内側から壊してやりたくなるけれど、ミザミに文句を言われたくはないから、その気持ちだけで耐えていた。
じっと待つのは諦め城から少し離れて、人のいない小さな池のほうへ歩いた。空気がよくないのか、雑草も薄汚く汚れて見える。細い水草を踏んで緑色に濁った水面を覗き込むと、輪郭の曖昧な女の顔がこちらを見た。わたし。魔女。どうして、こんなところまで来たのだろう?
星の森は、もっと静かで温かった。
ハレーと二人きりになってから、ずっとその中に浸かっていた。最初の方は、星の森で冬を越そうとしていたし、実際そうしたこともある気がする。だんだん面倒になって、デッドキーパーと取引した金で冬の間は旅をすることにした。そこで偶然ミザミと出会って、冬の街に滞在するようになった。ミザミは公正だ。負い目も不満も抱かせない。それに子どもだから、受け入れられた。子ども──子ども、か。
ふと、少しの間仲良くなった子ども達のことが頭に浮かぶ。あれは予定外の出来事だった。宝石も霞むような美しい金髪の少年を助けたのは気まぐれで、それから遊びに来るようになった子ども達は風のようで、予想もつかなくて、少しだけ愉快だった。でも、もうそのことを覚えているのはメルとハレーとアンクだけだ。アンクには、弟子には取らないが少し力の使い方を教える必要があったから。
思い出したりしたくない。メルには覚えておきたいことなど何もない。記憶が消せれば一番いい。でも、無理だった。