悲境に寄り添う落日<1>
メル・カロンにあてがわれた部屋は二階の東にあった。
以前は身分の高い者の私室として使われていたようだが、ミザミの代になってからはそういう者もいなくなっていた。数年前、メル・カロンを住まわせるようになり、その広い部屋はずいぶんと様相を変えた。もちろん、なんとも微妙な方向に――
「居るか? 入るぞ」
この屋敷の主であるミザミ・カサブランカは、部屋の扉をノックし、返事を待つ。「どうぞ」と、聞こえてきたのは白髪の魔女の声ではなく、なぜかキイキイした悪魔人形の声だった。
ハレーだけしかいないわけでもあるまいに。
ミザミは嫌な予感に眉を顰めながらドアを開け、
「…………」
部屋は、ベッド以外踏み場もない廃工房のようになっていた。
いや、ようになどという比喩も必要なかった。落ち着いた高級感ある空間は消失し、金属屑や本や何かよく分からない物質が散乱し、何かを燃やした匂いが鼻をつく。
この魔女が来るまで寂しいほど何もなかったというのに、呆れて言葉も出ない。魔女は暖炉(もはや焼き釜?)の前のソファに死体のように突っ伏していた。
「……どういう?」
「ことごとく失敗しててさあ、力尽きてる。あ、その辺のもの別に踏んでもいいと思うぞ」
「はあ」
ミザミは黒羊の言葉に従い、仕方なく廃棄物を踏み越えながら近づいた。メル・カロンがようやく呻き、わずかに顔を上げた。一つに結んだだけの白髪が肩から胸の辺りに落ちて散らばる。
やる気がない。魔女は存在全体でそう主張していた。
「あーもームリムリ。私旅に出て修行してくる。私に足りないのは経験だと思うんだよね。いや違うか。技術? ていうか施設? 情報? つうか全部じゃん」
「……。何をやってるんだ?」
「死人が生き返る薬づくり」
聞くと出鱈目な混ぜ返しがあり、ハレーが即座に訂正した。
「魔術補助の魔道具作りだよ。こないだマフィーに壊されて以来意地になってんだけど、まるでダメだな。まあ、魔力通す技術なんてそう簡単にびゅまっ!」
「ゆーな! 私がつくるって言ったらつくるんだよ!」
「だからって叩くことねーじゃん!? 壊れたらどうすんだよバーカっ! 常識的に考えて出来るわけねーっての!!」
「常識的に考えるとかバーカっ!」
「バカって言った方がバーカっ!」
馬鹿だ。
ミザミはしばらく遠い目であまり景色のよくない窓の外を眺めていた。いつものぐずぐずした灰色の空に、調子を合わせる色の沈んだ街。その後待ってみたが応酬が止む気配がないので、ため息と共にメルと言い合うハレーを摘んでその口を塞いだ。魔女というものはよく分からない生き物である。羊はもがもがと暴れたがとりあえず無視する。
「メル・カロン。頼みがある」
「私忙しい」
「……」
こちらを向きもせずソファの置物と化した白の魔女は即答した。
完全に拗ねた子供以下だった。こうなると扱いはマフィー以上に面倒くさい。ミザミはこめかみに手を当て、深々とため息を吐き、
「……この間、出来る限り協力すると聞いた気がするがな」
「はぁん、出来る限りね」
「この部屋を提供しているのは?」
「ノヴァかマフィーかオリーブに頼めば」
だめだ。それが出来れば最初から頼まない。ノヴァは今適当な悪魔人形を所持していないし、マフィーはどう考えても論外、オリーブは魔術の実力的に心もとない。
これ以上は粘っても意味がないと本能的に感じ取り、年若い当主は仕方なく妥協を口にしていた。
「……魔道具の、細工師を紹介してやろう」
そしてミザミがそう言った途端メル・カロンは飛び起きた。
「わーいありがとミザミちゃん大好きっ!」「ふぐっ」「びゃっ!」
花咲くような満面の笑顔でいきなりこちらに飛びついてきた魔女を、ミザミ・カサブランカは支えきれずに尻餅をつく。当然掴んでいたハレーも押しつぶされる。
柔らかい何かを踏んで意外と痛くはなかったが、変わり身が早すぎるメルに対して思わず脱力感が沸いた。なんだかんだ言って、ただ働きはしないという確固たる意思。間近で光を湛えるチョコレート色の双眸。匂い立つ、毒よりもたちの悪い美形がそこにあった。
「都まで行く。牽制のための護衛として着いて来い」
「ほぉう、秋の都ねえ。いいよ、私の当主に手を出すなんて許さないし」
「ややこしい打算さえなければ貴方は素敵だと思うが」
「ミザミちゃんに口説かれたら何にしろ断らないけどね」
嘘を吐け、と押し倒された身体を起こしながらミザミはふっとメルの眼を捉える。多くの人間を見てきた。その多くがミザミの若さを侮り付け入ろうとするものばかりだった。害虫は容赦なく踏み殺し、徹底的に掃討して周囲の全てに見せ付けた。
「断っても従わせるだけだがな」
本当に味方になるものだけが残ればいい。それ以外はいらない。不要なものも邪魔者も立ちふさがれば排除するのみ。
「その眼がね、大好き」
極端に、隠された、鏡のような本性を、白の魔女の中に見つけたのだから、可笑しなものだった。