カサブランカ家の奇怪な同居者<3>
「さてさてさて、最後はノヴァだ。一応無事みたいだね」
「うぅ……若干苦手だな、俺……」
カサブランカ家の特殊な同居者はもう一人で最後になる。最後の魔術師は、劣悪の魔女マフィーや美食の魔女オリーブとは異なって、本来の意味で有名だった。実力で評価され、魔術師たちの世界でその名を知られていると言う意味である。
メルは肉饅頭の皿を片手に三階へ上がり、左手の奥の部屋をノックした。
「悪魔博士、入ってもいいかな?」
低い落ち着いた声で返事があり、星の森の魔女はそっと扉を開けた。
入り口の天井に巨大なトカゲが張り付いていた。
「ひぃっ!」
ハレーは反射的に外に逃げようとして、メルの手に捕獲された。kikekeke、と黒くてでかくて性格悪そうな(?)トカゲは甲高い声で嗤った。全長一メートルは超えているだろう。不気味すぎる。こんな玄関二度と通りたくない。怖いし、怖いし怖いし。
「変わった悪魔人形だね、ノヴァ。黒蜥蜴を人形にすれば狩猟も楽にできるとか?」
「来たのか、メル」
星の森の魔女が声を掛ければ、広く、書棚で埋め尽くされた部屋の奥で、一人の男が振り返った。彼は右目に黒い眼帯をし杖をついていた。白髪混じりの黒髪、四十を過ぎた程度の外見は表情に乏しく、周囲に仄暗い威圧感を与えている。白いシャツに黒いローブを羽織った姿は典型的な魔術師であり、一目見ただけでその非凡さがわかる何かを持っていた。
彼は灰色の左目をメルに向けて、変わらんなと呟いた。
「それは貴方も同じですよ。悪魔博士」
彼、ノヴァは悪魔博士と呼ばれていた。それは彼が悪魔専門の召喚魔術師であるためだった。
悪魔のみが彼の興味の対象で、そのためなら手段は選ばない。召喚魔術はこの世ならざるものをどう使役するかを探求し、悪魔人形の製造を主に行うものである。駆け引きが重要な部分を占め、ノヴァはその代償に左目と右足を失っていた。それでも一向に研究を止めないノヴァは、彼自身が悪魔なのではないかと囁かれることもある。
オリーブに預かった肉饅頭を渡して、メルは一度部屋を見渡した。
「ノヴァは、悪魔さえ研究できればなんでもいいんだよね」
「そうだな」
彼は躊躇なくそう言った後、大きな用紙に奇妙な絵を描いていた手を止めた。グロテスクな、見ているだけで精神に異常をきたしそうな絵だ。
「お前も同じようなものだろう?」
ハレーはメルの右肩にしがみつくように乗り、その横顔を見上げた。ノヴァはやはり悪魔博士と呼ばれるだけあって、ハレーに並みならぬ畏怖を与える。それにこの部屋は強大な悪魔の気配が強すぎる。自分が低級だという自覚をこれ以上しては、存在自体が揺らぎそうにもなった。
「まあ、ノヴァよりは、全然どうでもいいと思っているよ。私のこだわりなんて」
「智の魔女ワンズの影響か」
そして、
「口にしないで欲しいな」
Agiiiiiiiii!
一瞬だった。
空気が震えた。
部屋の入り口付近に張り付いていた黒蜥蜴の悪魔人形が、奇声と共にメルに飛び掛かり、メルは首を庇い片手を動かした。目で追えないほどの残像。ぎちり、と黒蜥蜴の牙がメルの左腕に食い込む。血は零れなかった。飛び散りもしなかった。その代わりに、黒蜥蜴の身体が不意に膨張した。そしておぞましい悲鳴と共に破裂していた。ぼたりと口だけが離れて、飛び散った内臓が部屋を汚し、破れかけた金色の目玉がノヴァの足元に転がった。
「この悪魔人形は殺気に反応するようにしていたのだがな」
黒蜥蜴は、凶暴さと素早さで知られている。今の強襲で普通の魔術師なら死んでいただろう。メルは精神魔術の分野に長けていたから何の意味もなかった。精神魔術は生体魔術とも呼ばれ、生物の精神に作用してそれを操る。メルは降りかかる危険に対して、無意識にでも防御するよう普段から自らに暗示を掛けていた。肉体が破損しない程度の身体能力の増加は容易い。そして、基本的に魔術は感染式であり、魔術師を中心に発生せざるを得ないのだが、黒蜥蜴が腕に触れた時点でその弊害もなくなった。メルの血は蜥蜴の体内を這いずり内側から食い破った。
メルは。目を細めて。
笑っていた。
「ノヴァって、無神経だね。すごくひどいね。何にもないみたい。馬鹿にしようとも思ってたわけじゃないんでしょ? ただ思ったことを喋っただけなんだ。他人の精神なんて頭にもない。なんとなくわかるんだよ。私、今ノヴァのこと殺したかった。他人の口から聞きたくない言葉って存在するから。でも悪魔人形壊したら少し気持ちも壊れちゃって。どうしよう? どうしたい? どうしよぉ? キモチワルイなぁ。キモチワルイ。キモチワルクテ……」
「メル……やめろよ。腕とか、部屋に帰ってちゃんと治そうってば……」
悲しんでいた。メルは自分の感情だけを悲しんでいた。その他の全てがどうでもいいと思っていた。感情を蘇らせないために、そのどうでもいいものを全部消せばいいと考えているようだった。ハレーは耳元で低く語りかけた。ノヴァは召喚しか優れていないから、護衛がない今メルは彼を簡単に殺すことができる。それでも、憎んでいるくせに、殺したら殺したで後悔すると知っていた。それに、ノヴァを殺せばカサブランカはメルを見捨てるだろう。そういうことを、どうにか拙い言葉で表現し、言い聞かせ、メルが落ち着くことを祈った。
バカみたいだ。
未だにあの人はメルを支配していた。ハレーを呼び出し、魔術師たちの頂点であり、メルの師であり、メルを壊した人。聖人たちを殺し、最後にはヨハネスに敗れ、そして……。
バカみたいだ。
まだ、だめなのか。メルは解放されないのか。一生、このまま。あの人の影で。
ハレーは飛び、メルの左腕に思い切り体当たりした。既に固まりかけた血が身体を染めた。わずかに身体が動いた。
「そんなに……そんなに、もう、考えるなよ。バカだろ? 一生、名前出されただけで世界中の奴ら殺して歩くのか? 死んだワンズがそんなに大事か? だったら俺も殺せよ。一生言わないから。ワンズは死んだんだよ。殺せないんだったら頭冷やしてくれよ……!」
一秒が、怖かった。それでも信じていた。たとえ本当に殺されたとしても、ハレーは消える瞬間まで信じていただろう。ずっと一緒にいたから。これからも自分だけは傍に置いてくれると思っているから。
「…………」
メルが、ハレーの身体を抱いて、踵を返した。暖かいような冷たいような暗闇と血の匂いに包まれて、ハレーは気づけば部屋に帰り着いていた。
「どこか、行けないかな」
薄暗い部屋の、簡素なベッドに倒れこんで、メルは呟いた。ハレーはその傍に舞い降りて、答えた。白い指が黒い羽をなぞった。
「行けるだろ」
「どこにだよ」
「どこかに、行けるだろ」
「なんで?」
「足がある、から」
羽が欲しいとメルは言った。あったって、どこにも行こうとしないじゃないかと、ハレーは言えなかった。