A day of the end 冬の街
歌声が響いていた。
暖かくなった日差しを浴びて、緑が輝き花々が蕾をふくらませる春の庭で。
まだ幼いその女の子は、覚えたばかりのお気に入りの曲を、惜しげもなく披露していた。拙いものの、聞くものを惹きつける透明さを含んだ旋律だった。家の窓辺で目を閉じて聞いていた老婆は、声が途切れるとにっこりと微笑んだ。
「やっぱりお前はとてもいい声だね。将来が楽しみだよ」
「うん! かしゅになって、おばあちゃんにももっとたくさんうたってあげるね!」
「楽しみだこと」
老婆にはにかみながら答え、女の子は家の庭を出て、近所の野原まで駆け出した。祖母や母親に、野苺を摘んであげようと思いついて。
春の丘は柔らかい新緑に包まれていた。
足を踏み入れるとバッタが跳ね、遠い鳥の声が響き、蝶が羽を広げた。
綿のような雲が鮮やかな青空の下、白や黄色の花を咲かせた野草を掻き分けながら、女の子は夢中で赤い宝石を探す。
暖かくて優しい春の風が、その柔らかい茶髪を撫でていった。
「こんにちは」
「?」
小さな片手にいっぱいになるくらい赤い野苺を集めた頃、不意に女の子の側に影が落ちる。同時に綺麗な女性の声がして、女の子は顔を上げた。
「こ、こんにちはっ……!」
春の野原の真ん中で。ぽとりと数個野苺を落としたことにも気付かない。
いつの間にか側に立っていたその女の人は、絹のような長い髪、今までに見たこともない繊細に整った美貌を持った華奢な姿をしていたから。
まるで精霊のような。その人の濡れた瞳を、女の子はぽかんと見つめる。瞬きも忘れてしまったのではないかというほどに。綺麗なだけではなくて、とても不思議な感覚に包まれたから。
美しい女は優しげににこりと微笑む。
「見つけた。とってもかわいいね」
上等そうなローブから白魚のような手が伸びて、女の子の頬に触れた。夢のような感覚は、少し冷たかった。
そして、おいで、という彼女の澄んだ声を、女の子はやはりぽかんとしたまま聞いていたのだった。
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冬の街は、寒く暗かった。
日照時間の長い春夏は広場や歩道を散歩する人々が多くみられるが、雪の気配が近づけば外を歩く姿はぐっと少なくなる。星の森に比べれば、温暖かつ適度の湿度を持った比較的暮らしやすい気候となっているが、一年を通して小雨や曇天がやや多かった。
王国のある半島を、横断するように流れる河がある。街はその中腹に位置し、古い城壁が残され、歴史ある町並みと整然とした繁華街が厳格で冷たい印象を与えた。かつての大火で街の三分の一を失い、石と煉瓦で再建された灰色の街。その深々とした景観を、メル・カロンは馬車の中からじっと眺めていた。
「一年ぶりか」
「そうだなぁ。いつもは思わないけど、久しぶりって感じだなっ」
「皆変わりないかな」
「どうにかなるっていうような連中か? 相変わらずじゃねえの?」
「だろうね〜。一応言ってみただけ」
「感じ悪……」
黒塗りの馬車は街路を通り抜け、住宅もない鬱蒼とした道をしばらく行く。そして重厚な鉄の門を潜り抜けると広大な庭をしばらく進み、ようやくその館に辿り着く。冬の街の少し特殊な有力貴族の館だった。メル・カロンは馬車を降り、被っていたローブのフードをはずして玄関口の短い階段を上る。
ノッカーでおとないを告げると、初老の男性使用人が扉を開けて出迎え、深々とお辞儀をした。
「遠方よりようこそいらっしゃいました、カロン様。心から歓迎いたします。お部屋までご案内させていただきますが、その後お疲れでなければ、主がぜひお目にかかりたいと申しております」
「ご丁寧にどうも。もちろん、すぐにでも」
魔女の荷物を受け取ろうとする使用人の手をやんわりと断り、深紅の絨毯の上を歩き出す。例年借り受ける部屋に杖と荷物だけ放り込み、ハレーと共に案内に従って長い廊下を歩いた。屋敷の最上階である三階の、階段を上って奥の部屋が当主の執務室であった。そこまで辿り着くと、初老の使用人は奥に声を掛け、返事を聞いてから扉を開けた。メル・カロンはそっけなく礼を言い部屋に足を踏み入れて、部屋の中央で優雅に膝をつく。
述べるのは他人行儀な仰々しい口上。
「久しくお目にかかります、カサブランカ様。白の魔女、ただいま到着致しました。数月ではありますがご厄介になる身であれば、この私、微力ながら出来うる限りの協力はさせていただきたいと存じます」
「ほう」
殺風景なほど必要なもの以外置かれていない部屋の中、奥に位置する机の前で、小さな影が面白そうに呟いた。
声も姿もまだ若い。
濡れたような黒髪と端正な顔立ちに、垂れ目気味だが不敵な目を持つ当主は、どう見ても十代中頃だった。ただし、大人びた雰囲気とこの地方にはない東国系の顔立ちが奇妙に調和し、はっとするような独特の色気すら醸し出している。
ミザミ・カサブランカ──このカサブランカ家当主の少年は、机に肘を付き、尊大に両手を組み合わせて、跪く魔女を見下ろした。
「いつになく殊勝だな、メル・カロン。何か頼みごとでもあるわけか?」
「それは、敢えて言えば……」
白髪の魔女は小首を傾げておもむろに立ち上がると、チョコレート色のローブを引きずり机の前まで歩く。そしてハレーの嫌な予感を的中させるように、
「久しぶりだから思う存分触らせて欲しいなあって! あーかわいいかわいい相変わらず美味しそう! 久しぶりのミザミちゃんだ垂れ目もこの髪も柔い肌も最高っていうかもういっそ私がここに来るのは当主を撫で回したいからだ!」
「メルーー!?」
「オイ」
堰き止めていた水がいきなり流れ出すようにはしゃぎだした。我慢の限界と言わんばかりに机の上に寝そべる勢いでミザミに手を伸ばし、頭といわず顔といわず撫で回す。ハレーが体当たりで渾身のつっこみを入れるが全くお構いなしだった。こうなればもう誰にも止められない。近寄り難い雰囲気も何もかも全て形無しである。
当の少年は脱力しながらも、やっぱりかと諦観の色を見せていた。慣れたくはないが、慣れたものだ。一応咎めの声は掛けるが嫌がるほどではなく、珍しい猫にじゃれつかれた程度と考えることにして。彼は身内に限り、寛容なところがあった。ある意味放置、無気力ともいう。
「とりあえず、元気そうではあるな……」
「もちろんだよミザミちゃんに会うためなら病気なんてふっ飛ばしてくるよ」
「そう言われて納得しそうになるのも貴方ならではだな……。まあいい、許す。その代わりこれまで以上の働きを期待しているぞ」
「任せて〜」
全く真剣みのない返答に、一体これは飼い馴らしているのか飼い慣らされているのかと、ミザミ・カサブランカはしばらく悩んでいた。