まどろみの記憶<2>
そして、そんな風に過ごしながらも、一連の作業を終える。メルはねぎらいだといってお茶とお菓子を用意してくれた。
気前がいいのは知っていたが、自らお茶を汲んだりと、いつになくサービスのいいメルを不思議に思い、シリウスは乾燥果実を食べながら何気なく尋ねた。
「今日は何かあったんですか? 部屋もやけに整理していたみたいですし」
「冬が来るからね」
年季の入った資料を眺めていた魔女は、それから目を離さぬままそう言った。冬が来ると言われても、シリウスには家の整理と冬の準備の関係性がよく分からないのではあるが。
ディアナがふと思い出したのか、心配そうな顔で口を開く。
「そういえば星の森は、冬の間雪が深いですよね。生活は大丈夫なのですか?」
「うん、だって冬の間は私森にいないから」
「え?」
「そりゃあね、商人が来てくれるならいいけど、雪がひどいといくらデッドキーパーでもそういうわけにはいかないしー、っていうわけで凍死しないために街へ行くのだよ」
「え……あ、そう、ですよね……」
他の子供たちと顔を見合わせながらシリウスは。
戸惑って、しまった。
確かに冬の森での生活は、出来ないこともないが、魔女のような気まぐれな人種にはいうまでもなく難しいことである。だから当然と言えば、当然であるのに。
それでも、彼女が遠くへ行ってしまったら――
動揺して知らず俯いていたシリウスは、堪えきれず顔を上げて、聞いた。
「じゃあ、もうしばらく、会えないっていうこと、ですか」
メルが紙から目を離さずに、口元を緩めた。いつものように。
「うん。そうだね」
「ええー! つまんないよぅ! メル、村に来ればいいのにっ」
「ヒメリエ……」
素直に駄々をこね始めた少女を、ディアナが困った顔で宥める。ヤジャやドライセン、ロイも心なしか寂しそうだった。アンクは目の前の飲み物のカップを見つめたまま、何か考え込んでいる。
星の森の魔女は一人何も気にしていない様子で、おもむろに席を立つと、棚から何か取り出してきた。小さな小瓶だった。綺麗な七色をした鳥の羽が一枚だけ入ったそれをヒメリエの前に置き、メルはにこりと微笑んだ。
「虹の根元で生まれた小鳥の羽。さっき気に入ってたでしょ? いいお守りになると思うから、まあ私だと思って偶に眺めるといいよ」
「くれるの?」
「うん。あげる」
ぱあっと嬉しそうに笑ったヒメリエの頭を満足げに撫で、次にメルは隣にいたディアナの耳元で小さく何かを囁いた。ディアナの顔が真っ赤になったから、何か恋のアドバイスでもしたのかもしれない。そのドライセンには、メルは一冊の本を渡していた。勉強好きだと見抜いているのだろう。そしてヤジャの頬を撫で回し、ロイを抱きしめて頬ずりし、二人を別の意味で真っ赤にさせていた。それから、アンクの頭を撫でて口元にそっと人差し指を当てた。アンクが困ったように笑い、頷くのが見えた。
最後に、メルの手が自分の髪に触れた。
「メル」
「いやあ、やっぱりいつ見ても美しい。君はきっと素晴らしく成長するだろう」
「嘘、じゃないですよね」
「さてはて」
「もっと成長したら、認めてくれますか?」
「ええ〜、かわいいからそのままでいいよぅ」
「そうじゃなくて……」
わざとなのか、どうも的外れなことしか口にしない彼女に、思わず頬を引きつらせてしまう。出会ったときから、そんなことばかりだったけれど。
離れていこうとする白い手を、思わずチョコレート色のローブの端を掴んで引き止めた。まだ自分より背の高い彼女を見上げ、言った。
「春になったら……また、会いに来ます。だから、だから、また……」
途中から何と言えばいいのかわからなくなり、不意に目元が熱くなった。まるっきり子どものようなことをしてしまっていると、情けなくもなった。それでも、寂しかった。この綺麗な人が、どこかひどく遠くへ行ってしまうような気がして。
影が掛かる。
深みのある茶色のローブから覗く白い喉がすぐ近くに見えた。一瞬何も見えなくなって、額に柔らかい微かな感触があった。彼女の匂い。肌に直接触れた唇。後には風に飛ばされた花びらが、撫でていったような温かなくすぐったさだけが残っていた。
現実味が薄れ、遠くで壊れそうなほどの動悸が鳴っていた。顔が熱くて頭がぼんやりして。この人が好きなんだ、と、悲しいほどに思った。白い髪をかきあげながら、彼女が呟いた。
「さようなら、金色の少年」
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そして――――
村に戻ったシリウスは、ふと一度だけ森を振り返り、首を傾げた。
どうして皆で星の森に出掛けていたのだろうと。遊んでいただけだっただろうか? なぜか、思い出せない。
さようなら、という微かな響きが鈴の音色のように頭に広がった。
さようなら?
誰に、いつ、なぜ?
自分を含めた孤児たちが暮らす村の教会で、夕暮れに薪の準備をしながら、ぼんやりと呼吸をする。
どうしてこんなに、心に隙間が出来たように悲しいんだろう?
人知れず零れ落ちた涙を不思議に思いながら拭う。ロイや、ドライセンや、ディアナに聞いても、皆首を傾げるばかりで誰も理由を思い出す者はいなかった。アンクが小さくため息を吐く姿だけが、やけに印象に残った。本当は何か知っていたのだろうか。
「うっ……!」
「シリウス!?」
終わりの始まり。
その日の夜、突如気分の悪くなったシリウスは、教会の子ども部屋で倒れた。驚いた他の子ども達が駆け寄り、やがて大人も駆けつけてベッドに寝かされる。
「シリウス? 大丈夫かっ?」
「あ、ぅ、熱……頭が、くるし……ぁああっ!」
「一体なにが……」
熱さと苦痛の中で呻き、一晩中のた打ち回りながら、シリウスは地獄のような夢の中で自分の中にある不自然なものを必死に追い払おうとしていた。縛り付ける、蛇のような白い糸。絡み付いて離れない不自然なもの。異物だった。それが自分の中に居座ろうとしている。苦しい、苦しい、違う、嫌だ嫌だ嫌だ!
喚き朦朧とする中、切って、取り払って、捨ててしまえばいいのだと、シリウスの中の何かが囁いた。簡単なことだと。それは苦痛の内に目を覚ました懐かしい何かだった。
シリウスは縋り付くように、その声に従った。消えろ、戻れ、打ち消せ。力の限り糸を掴み、縛っていたものを解放して――
「はっ……はぁ……はぁっ……」
目を覚ました。
村の診療所のベッドの上で、シリウスはぐっしょりと汗をかいた身体を起し、金色の朝日をこぼす窓を見上げた。呆然と目を見開いて。
昨日までとは、明らかに何かが違っていた。
説明できないけれど、自分の中の何かが変わった。
そして、全てを思い出していた。忘れてしまうところだった大切な記憶を。
「メル……」
どうして、と無意識に呟いて、シリウスは乱れたシーツをただ、強く握り締めていた。
「よかったのか? メル」
「何が?」
「何がって……」
星の森の一軒家、まだ朝日も昇らない早朝に小さな荷物だけを纏めた魔女は、相棒の悪魔人形に向かって首を傾げた。
今日、今から街へ向かう。雪が溶ける春までそこで暮らすのだ。
だから余計なものを整理して清算した。それだけの話だった。
ハレーは困ったような声でもごもごと言葉を選んでいる。
「別に、あいつらの記憶封じることなかったんじゃねえの……? ただ遊びに来てるだけだったんだし」
「だからこれからもずっとそうして付き合っていけって? 忘れてるのかな、ここは星の森だよ? 未だ魔物達が住み、白の魔女がいて、そして智の魔女が眠る土地だよ? 普通の人間が、それも子どもが遊びにくるような場所じゃない。なおかつ色々差し引いても、私は魔女の戒律を忘れたわけじゃないし、人間と仲良く楽しく暮らしていこうなんて死んでもごめんだね」
「それは、そう、かもしれねえけどさあ……」
荷を背負い、ハレーを連れて家を出る。
しばらくは戻らない暗い家を一度だけ振り返った。相変わらず何の感慨も無かった。自分にとって、意味の無い人生を終えるためだけの場所がそこにある。
さようなら。
なのに、どうしてそんなことを呟いたのか、メル・カロンにはわからなかった。
これからもきっとわからないだろうし、わかりたくもなかった。
魔女は思考を止めて踵を返すと、もう二度と振り返ることなく、冬の街へ向かって歩き始めた。
願わくば、全てがまどろみの間の幻でありますようにと――――