まどろみの記憶<1>
肌寒さを感じて、メル・カロンは目を覚ました。
暗い室内。見慣れても未だに何の愛着もわかない古い天井は、薄暗い日中にあれば魔女の家にふさわしく陰気だった。皺のできたシーツをどけて起き上がり、窓ガラス越しの外界に目を向ける。今にも落ちてきそうな曇り空が垂れ込めていた。
冬が来る。
カタカタと薄いガラスを揺らす風や、鮮やかな色をくすませた森を見て、魔女は一人瞬きをした。
もうすぐ冬が訪れる。一月もしないうちに今年始めの雪が舞うだろう。多くの生き物たちは、遠い眠りにつく。そして森は白銀に埋もれて、静謐な檻となる。
「メルー、そろそろ畑の薬草どうにかしないとさあ……メル? どうかしたか? 聞いてんのか?」
メル・カロンはいつの間にか寝室に飛び込んできた黒い子羊の悪魔人形を、心底不思議そうに見つめていた。自分でもなぜか預かり知らぬうちに。
それから、ふと思い当たった。名前を呼ばれることにずいぶんと耳慣れたものだと。
もう何年も、この森で頻繁に自分の名を口にするのはハレーだけだった。商人も外敵も「白の魔女」としか呼ばない。それが不満と言うわけでは全く無く、むしろそれでいいと思っていた。
思っていた――オモッテイタ?
星の森の魔女は長い白髪を整えながら、微笑してみせた。
「聞いてないけど畑のものは全部収穫して、使えるものはとっといてー」
「前置きが不要だってーの!」
ハレーに意識の表層で返事をしながら考え続ける。
大体、名前を呼ばれたから何なのだろう。それで存在価値が決まるわけでもない。今だって十分それでいい。自分さえ自分の記号を覚えていれば、世界中の誰もそれを知らなかったとしても、別に構わない。
魔女としての矜持、思考を放棄して、メル・カロンはベッドにもう一度倒れこんだ。
まどろみも人も生も死も自分も存在も、全部同じ茫洋とした無気力の海に沈みこむ。現実は何をしても意味など無く、ただ流されてやり過ごすだけのもの。運命にも神にも逆らうなど無意味。
そう。
嘲笑って、嘲笑われるのみ。
意味のない自分は、世界がどうであろうと、何が起ころうと、希望に満ちていようが、絶望で覆われていようが――ひたすらに、どうでもよかった。
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地面を覆い隠した枯葉を踏みしめ、シリウスは初雪を思わせる曇り空を見上げた。
星の森の魔女、メル・カロンに会うためにこの道なき森を歩くのも幾度目になるだろうと不思議な感慨を持って思い出していた。初めて出会ったのは全くの偶然だと思っていた。けれど、もしかしたら時期は多少違えど、自分が森に迷い、そして彼女に助けられるという可能性は意外に少なくなかったのかもしれないとも思う。
思いたいだけかもしれないけれど。
「メル、寒くしてないかなあ? 風邪ひいちゃったら大変だよっ」
「そういう柄でもない気がするけどね……」
「ヒメリエの薬をくれたから、お礼言わないとね」
ヒメリエはメルの薬ですっかり元気になり、また皆を率いて星の森へ出かけるようになった。ヤジャは初め魔女を恐れていたけれど、今では信頼しているようだし、ロイやドライセンもいつの間にか心を許している気配がある。ディアナは誰にでも丁寧で公正だ。先入観で人を判断したりしない。
ただ、アンクだけはよく分からなかった。あの、ヒメリエの薬を二人でもらいに行った日、上手く言えないが、例えばどこか追い詰められたような微かな焦燥があった気がした。メルも普段のようないい加減な雰囲気ではなかった。帰り道、何を話していたのか尋ねても、アンクは要領を得ず黙しがちで、シリウスは途方に暮れるしかなかった。翌日からはまるでいつも通りのアンクで、それが逆に不自然にも思われたのだが……。
そして、自分は。
「着いたよ〜」
「すっかり魔女の家を見慣れるとは」
ドライセンの呆れた声に顔を上げると、森が開け、ぽっかりと丸い空間に一軒家が佇んでいた。白い布が物干し竿で風を受けてはためいている。彼女に会えると、顔を見ると、やはり胸が高鳴った。マイペースで嘘つきで自堕落な人。だけれど、明晰で、楽しくて、優しいから惹かれてしまう。
ロイに、魔女はあまり年をとらないらしいと教えられた。子ども扱いされるのは子どもだから仕方ないのかもしれないけれど、簡単には割り切れていない。だからといって大人だったとしたら、メルは興味を示してくれなかったのかもしれなくて、シリウスは複雑な気持ちになった。
頼れる人間として認めて欲しいと、今は目標を立てていた。
「こんにちはっ!」
「お邪魔します……!」
ヒメリエとディアナが挨拶をしながら扉を開いた。「いらっしゃい」というメルの柔らかい声が聞こえた。
石のテーブルの上に薬草が並べられており、メルは棚を整理していたようだった。こちらを振り返っていつもの純粋そうな笑顔で言う。
「いいところに来たじゃないか。この辺のものを箱詰めしてくれたら嬉しいなあ。欲しいのがあったら持って帰っていいからさ〜」
「ほんとっ? わーい!」
「待ってヒメリエ……全く得体がしれないんだけど」
「これは……青いトカゲの干物だと……?」
そしてやっぱり手伝わされるようだった。
ロイとドライセンが呆然としているのを横目に、星の森の魔女の傍に行く。畑をいじっていたのか、今日はチョコレート色のローブから微かに土の匂いがした。
「この間はありがとうございました」
「ん?」
シリウスが話しかけても、メルは振り返らずに物の整理を続けていた。その、袋が並んだ棚の一角は、彼女しか対応できないのだろう。
「ヒメリエに、薬を作ってくれたでしょう? よく効いたみたいです」
「だってヒメリエかわいいからさぁ、私の食料だし、目と心の保養だし、弱ってたら勿体無いってゆーか、世界の損失じゃないか要するに。私は世界の意志を代表しただけなの。だからつまり、お礼とかいらないわけ」
「えーっと……」
嘘、というかなんというか。
ぺらぺらとよく分からないことを喋った魔女の言葉を整理してみて、シリウスは苦笑する。なんということもない、
「要するに、感謝されるのが苦手なんですね」
その瞬間、ぴたりとメルの手が止まった。白皙の美貌がこちらを向いて、完全に見下ろされる形で頭を撫で回される。笑顔なのになんともいえぬ静かな迫力があって、シリウスは思わず顔を引きつらせて半歩後ずさった。
「はァ〜、面白いことを言うね、金色の少年。いいかな? 感謝なんてものは突き詰めれば所詮体裁でプライドや自尊心を満たす道具でしかないわけ。私は魔女であってそういう自己満足は自分の中で終わっているわけで他人からとやかく評価されたりそういうことは鬱陶しいだけで何の価値も見出してないわけ。だーかーらー苦手とかそういう解釈をすることは完全に的外れだからよ〜く覚えておくといいと思うよぉ?」
「あいたっ!」
言い終えると同時に髪を一房引っ張られて、シリウスは頭を押さえた。一体急に何なのだろう。なにやらよく分からない逆鱗に触れてしまったらしい。完全に理不尽だ。
全く――本当にどこまでも素直じゃない人だと思う。
それなのに偉ぶらない分、そういうところさえ不思議と魅力の一つにしているような気がして、少しだけ悔しく思う。
「でも、やっぱりありがとうございます」
「ほぉう?」
だから、わざとメルに負けないくらいの完璧な笑顔を作ってシリウスは言った。案の定メルは形のよい左眉を吊り上げて呟いた。花びらの様な唇が弧を描き、
「君は、とってもかわいいのに全然かわいくないねぇ?」
「あはは、どうもありがとうございます。メルほどじゃないですけど」
「ちょっと二人ともどうしたのっ!? なんか怖いよデンジャースマイルだよぉおぉっ!?」
頬を捏ね回してくる魔女の手を押し止めながらくだらない攻防を繰り広げる横で、ヤジャが慌てふためき、のん気な観客たちが生暖かい目で見てみぬふりをしているのだった。




