借りたい猫の手<1>
** ロイ **
「食欲なんてなければいいのに」
いくらなんでも人間そこまでいくとおしまいだと思う。
まさしくそんな台詞だった。
俺、ことロイはつい顔を引きつらせてそう言った人物を振り返る。
ほつれ気味な白髪、若干くたびれたチョコレート色のローブを羽織っている星の森の魔女。石のテーブルの前にある椅子に腰掛け、腕をクッションにしてテーブルにうつ伏せながらの台詞だった。なんていうか今までも今まででひどかったけれど、ここまでじゃなかったというか。まず部屋からしてアレだし。
「メル? あの……どうしたんですか? 風邪とか……?」
何かの惨劇があったんじゃないかと疑われる荒れた部屋。本棚の本は床に散乱して足の踏み場も無いし、床や壁に焦げたあとがあるし、テーブルの上も容器や紙、金属が積みあがって一部緑色の液体がテーブルから滴り落ちている。半端じゃなく汚い。そこへ冒頭の台詞だ。俺もたいがいに面倒なことはしない主義だけど、そこまでダメ人間なわけじゃない。
今日もヒメリエの提案で遊びに来たはいいけどドアを開けた瞬間これだったから、皆流石に一時自失していた。シリウスがかろうじて衝撃から立ち直り、床を埋め尽くす物質たちを避けて通路を作っている。これまでは怪しいだけで整理された家だと思っていたのに、一体どうしたらこんな廃墟になるんだか。
ぐったりした魔女は蚊の鳴くような声で呟く。
「なんで……お腹とかすくんだろうね……あー意味わかんない……どうでもいいけど、動くのもめんどいや……」
「えーっと、メル? 大丈夫ですか?」
「うん」
明らかに嘘だ。大丈夫なところを一つでもいいから教えて欲しい。
部屋の奥から黒い子羊の人形が飛んできて、シリウスの頭の上に着地し、盛大なため息をつく。自称悪魔だというハレーは、呆れていても心配している様子じゃない。
「偶にあるんだよ、メルは。最近は錬金術に没頭してるからな、二日前からホムンクルスだとかなんとか、生命力使い果たしてワケワカンナイ実験してたんだよ。老けるぞって言ってんのに」
「魔女が追求して何が悪いってゆーの……? あーあ、これだから低級悪魔なんて……」
「生物として当たり前の食欲を否定するような奴に言われたくないっての!」
「うるっさいなァ……私に言わせれば本能とか衝動だとか、根源的な欲求ほど面倒臭いものはないわけ。偶にすごくつまんないこと繰り返してると思うわけ。そこには選択の余地も面白みも何にもないわけ!」
「そんなこと言ったら世界が成り立たたんだろーが!」
ハレーの言う通りではある。
ていうか、再度繰り返すけどこれはなかった。
ぽかんとしていた僕らは、ようやく我に返った。これでも慣れるのはすこぶる早い。
そして、みんなから一歩前に踏み出したのは、綺麗好きで責任感の強いディアナだった。
ディアナはこちらを向き、全員に一度視線を向けると、強敵に立ち向かう前のように胸の前で拳を握り締めた。
「片付けましょう! この空間は間違っていると思います!」
「「「イエッサー!」」」
「皆さん、自分の居場所は自分で確保、そして誰かの居場所も進んで提供、情けは人のためならず!」
「「「ヤー!」」」
「さあ、秩序を取り戻すまで倒れることはかないません! まずは通路を確保するのです!」
「「「ラジャー!」」」
なぜか、予想外の名演説だった。
★。、::。.::・'゜☆。.::・'゜★。、::。.::・'゜
「とは言ったけど、やっぱ不可能」
つい流れに乗ってみたものの、俺は一冊の本を棚にもどした時点で諦めた。全然早くない。仕方ないじゃん。だって、頑張ったところで得られるものがなにもないし。確かに魔女の家には遊びに来ていたけど、特になにかお世話になったわけでもない。受けていない恩を返すほど義理堅いわけじゃない。
そもそも他の人が善良すぎるだけで、そんなんじゃいざっていうときに力が出せないと考えていた。少なくとも自分は。
「何を言っているんですかぁ! いいですか? 理屈じゃありません! なぜ片付けるか。それは、そこに腐海があるからなのです!」
「げふっ!」
やばいかも。そう思ったときにはすでに遅く、ディアナに胸倉を掴まれ、がくがくと揺さぶられていた。むしろ振り回される。視界が高速で回転して、首と頭がどこかいってしまいそうな感じなのだ。一見お淑やかなディアナにどうしてそれほどの力があるのか、いまだに信じられない怪力だった。
とか、冷静に考えてる場合じゃなくて! 回ってない!? 風圧! 死ぬって! 意識が!
「う……」
「わ、ディアナ、ロイが吐いちゃうよ……!」
暴走気味のディアナを、気付いたヤジャが止めに来て、どうにか危機を回避することが出来た……出来た、というか……き、気持ち悪い……。
馬車や、船などの乗り物が、実はかなり苦手だった俺は、止まっているはずなのにまだぐらぐらしてがんがんする頭を押さえた。胃の腑から何かこみ上げて吐き出しそうになるけど、流石に押し止める。そのうえ最高に汚い廃墟なんか見ていたら余計具合が悪くなる。勘弁して欲しかった。
「ロイ? 大丈夫?」
「ぜんぜん……」
全然、なんだろ……。
ヤジャなんかに心配されているのがまた気に入らなくて、眉間に皺を寄せる。ヤジャのクセに、なんだよ。止めるならもっと早く止めろって。
背中に触れた手を払いのけながら、そっちを見ないようにしていると、反対側からひょいとアンクが覗き込んできた。
「今のディアナには接触しないのが真理だね。ちょっと休憩してきたらいいよ〜。なんなら全部ぶちまけてきたら?」
「ぶちまけるって……。そんなことするわけないじゃん」
アンクの相変わらずの言いように、思わず怒鳴りそうになって、堪える。
心配されているのか怒らせにきているのかわからない。俺が言うことじゃないかもしれないけど、アンクは偶に人の気持ちを逆撫でするような気がする。俺なんかは、わざとだけど、アンクは本気で言っているみたいだからたちが悪いのだ。
「ロイ。あっちの部屋は綺麗みたいだよ。メルに頼んでみるから」
シリウスが気付いたようで、どうにか廃墟から脱出して奥の部屋へ行った。入った事はなかったけれど、倉庫と寝室がある。通路を挟んで左側の寝室に魔女はいた。ベッドに鏡台。衣装棚。そこは、別世界のように整然としていて普通だった。
出迎えた魔女は、チョコレート色の目でこっちを見て、眠たげに瞬きした。
「おやぁ? 弱っちゃやだよ」
「ちょっと、ディアナに振り回されたみたいで……」
「ちょっとって……」
「言い得て妙であるよ。行為者に意識はあるのだからね。まあ、そんなことはどうでもいい」
魔女が急に俺の顎に手をかけてきた。つい、びくっとして見上げてしまう。
白皙の容貌は、疲れていても、整っていた。
疲労さえ、影のような色気に変えてしまったかもしれない。
長い睫毛、慈愛と憂いに満ちた瞳はいつでも水のような温度。透明度が高すぎて生き物の住めない水だと思った。
それが、急に破顔したら、誰だってぎょっとするって。
「君! ずうっと思ってたんだけど、かわいいね!」
しかも、言ってることが。
──なんだって?
「は……?」
「皆いいけど、君も実に好みなんだって! 猫みたいで、それもまたそそるのだよね」
「ねこっ……?」
かわいい発言で宇宙のかなたに飛び去っていた意識を取り戻したと思ったら──もうそのときにはメル・カロンに抱きしめられていた。