prologue 星の森に落ちたシリウス
私は私に魔法をかける。
魔法は私を私にする。
「メル! 馬鹿が森に迷い込んできたぞ」
薄い雲が青空に浮かぶうららかな秋の午後、森にぽっかりと存在する一軒の家屋。その開いた窓から飛び込んできた物体が、キイキイとした声で報告をしてくる。布やら木やらで作られ、大きさはメル・カロンの手ほど。一見黒い子羊にコウモリの羽がついているだけの小さな人形であるが、それは低級悪魔が取り付いたしょぼい悪魔人形だった。
メル・カロンは、とりあえずは何だかよく分からないがすり潰してみていた草から目を離して、唯一の相棒・悪魔人形のハレーに向かってにこりと微笑んだ。
「おやぁ? 語弊があるなあ……森に迷うから馬鹿? 馬鹿だから森に迷う? 馬鹿と方向音痴はどれくらい関係があるのかな?」
あぁ、うんざりだ。何だってまあ二時間二十三分もこんな草をすり潰していたんだろう。でもあの時は確かにすり潰したかった。使命感すらあった。魔女であるためには興味のあることは追求し続けなければならない。集中力も意気込みもあった。この草をすり潰せばきっと世界が開けるに違いないと思っていた。いや……そうか、アプローチの仕方がまずいのかもしれない。煮ようかな。煮れば飲める。飲めば世界が変わるに違いない。
そんな感じでメルが笑いかけたら、ハレーはなぜか怯えたように一瞬空中で静止した。
「いや、そんな複雑には考えてねえけどさあ……ていうか、ずっとそれやってたの?」
「はァ? だったら何か問題でもあったかな? これずっとやってると世界が変わってくるよ本当に」
「えぇ? 信じられねぇけど……」
「ほんとほんと。やってみないとわかんないね。馬鹿を見に行ってくるから、惜しいけどその間譲ってあげようさあどうぞ」
「ぅ、ぁ、はぁ……まあ、そこまで言うなら……」
ハレーは畳み掛けられ、首をかしげながらも小さな身体ですりこぎを受け取る。メル・カロンは質の良いチョコレート色のローブを引きずりながら立ち上がった。
ああ、つまらなかった。つまりつまらなかった。実につまらなかった。全くなんて無為な時間を過ごしたんだろう。草をすり潰したくらいで世界が変わるなら世界なんてとっくの昔に破滅しているに違いない。
腹いせに平然と悪魔人形を巻き込みながら、メルは入り口に立てかけていた塵の杖を手に取り外の明るい森へと出かけていく。
実に清々しい空気だった。
魔女たるもの、自分勝手でなければならない。
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シリウスは森に迷っていた。
天気は良いが、鬱蒼とした辺りはどことなく暗く、不気味で足掻いてもまとわりついて嘲笑われているような感覚がした。
ここは星の森と呼ばれている。
美しいのは名ばかりで、恐ろしいものが住んでいるから深入りしてはならないと、村ではきつく言い含められていた。だがシリウスは今年で十二歳、多感で好奇心旺盛な時期である。村の子どもたちと一緒になってこっそりこの森で遊ぶことを繰り返していたのだが……今日に限ってもっと探索してみたくなった。深く足を踏み入れてしまったが運のつき、見つけた小動物に夢中になっているうちにどこにいるのか分からなくなっていたのである。
(どうしよう……)
闇雲に足を動かしてしまうくらい動揺していた。シリウスは太陽を見上げる。方角がわからないか必死に頭を巡らせるが、動揺で上手く考えられない。こんなときに方向感覚のいい友人のアンクがいてくれたらよかったのにと心底思う。
健康で丈夫なシリウスだったが、歩きづらい森は容赦なく体力を奪っていた。虫の羽音と時折不自然に聞こえてくるがさがさという音が精神を削り、今まで森がこんなに恐ろしいと感じたことはなかった。
「はあ……」
ずきり、と足のどこかが鈍く痛むのを自覚してしまう。道を失ってどれくらい経過したのか、気のせいだと誤魔化すのも限界で、流石にそろそろ足が悲鳴を上げていた。弱音が浮かんだ拍子に木の根に足を取られて勢いよく幹に手をつく。思わずため息が漏れ、
「諦めるのはまだ早いな。往生際は悪ければ悪いほうがいい。なぜなら他人の無駄な足掻きを見るのはなかなか愉快だから」
「そんな……へっ!?」
声、がした。
あまりに自然に話しかけられたものだから、思わず会話しかけて、シリウスはあわてて飛び退った。
「な……え……?」
いつの間にか後ろに誰かが立っている。
反射的に振り返って、二度目の驚愕に見舞われた。
年の頃は二十に届くか届かないか――彼女は、特徴的な真っ白な長い髪を無造作に緩く束ねていた。繊細に整った白皙の造作に薄く色づいた唇、優しげなチョコレート色の瞳。白い服の上に同じチョコレート色のゆったりしたローブを纏い、頭までフードを被って半分以上その綺麗な白髪を隠していた。手には無限の小さなかけら達が集まったような細身の杖が握られている。白魚のような指先だった。そう、柔らかい天使のような笑みを浮かべたその人は、見たこともない綺麗な女性だったのだ。
森の、精霊さま?
シリウスが何も言えずただただ見とれていると、その人は杖を持っていないほうの手で唇に軽く触れ、目を見開いて
「ほぉう? これはおいしそうな子どもだね。美しい」
「はい?」
魔女だ! この人絶対魔女だ!
今これ以上なく腑に落ち、シリウスは一瞬でも精霊などと思った自分を心の中で激しく叱責した。なんてことだろうか。よりにもよって魔女なのか。逃げないと食べられる。でも……。
シリウスがなぜか立ち去り難い思いに捉われているうちに、彼女はもう一度柔らかくて純粋そうな笑みを浮かべていた。とくんと心臓が跳ねて、目が離せなくなる。動くことを忘れてしまう。少しなら食べられてもいいかな、なんて、一体何考えてるんだろう。
「うん〜子どもは好きだよ。興味深いし何よりかわいい。その上君は上玉だし。目の保養になったということで、入り口まで連れてってあげよう。よかったねえ?」
いつの間にかその手が自分の髪に触れているなんてとても信じられなかった。心地よくて、どこか物足りない僅かな感触。上等そうなローブから草の強い香りがした。
固まるシリウスを恍惚とした顔で撫でた後、彼女は手に持っていた杖で地面を強く突いた。その瞬間心臓を軽く揺すられたようなえもいわれぬ衝撃が走る。次に、彼女は探るような眠ってしまう寸前のような目をして聞いたこともない言語を歌う。短いそれを終えるとまた柔和な表情に戻り、シリウスの後ろに向かってにこやかに喋りかけた。
「やぁケルピー。ちょっと森の入り口まで一っ走り頼むよ。お願い」
「うわ……」
振り返って本日数度目の驚愕。
いつの間にか青灰色の馬がぎらぎらした目でこちらを伺っていた。
いや、馬?
ちょっとおかしい。尾が、大きな水色の魚のような。たてがみも魚のひれのような。毛に藻がたくさん付着しているような。ようなじゃなくて目がおかしくなければ間違いないのだが。
彼女にケルピーと呼ばれたそれは、一度不満げに鼻を鳴らしたが、手招きされて仕方なさそうに近づいてくる。
「なにぃ? 食べたい? その意見には激しく同意するけど食べたらなくなっちゃうんでねえ、これは気に入ったからダメだね。後で肉あげるから頼むよ。君人乗せるの好きだろう? 交歓交換」
とそんな若干違和感を覚える会話を繰り広げながら、彼女はケルピーの背中に飛び乗った。馬上からシリウスに向かって手を伸ばす。操られるように手を取り、一息に彼女の前に座っていた。背中に当たる柔らかい感触と温かい体温に顔が熱くなる。
ケルピーが走り出し、シリウスは慌ててひれのようなたてがみにしがみついていた。風が耳を切るような信じられない速度だった。後ろから陽気な口笛が聞こえた。
それにしたって。
「いいなあこの躍動感。水の中に引きずり込まれるときのスリル満点」
「え゛」
さっきから、いや初めから容姿と言っていることが天と地ほどかけ離れている。それでもなぜなのだろう、不思議なことに、嫌な感じは少しもない。恐ろしさを感じさせない。今まで状況が状況だけに流されてしまったがようやく落ち着きはじめ、シリウスは意を決して半分振り返りながら尋ねた。
「あの、あなたはっ?」
「これは申し遅れました。星の森の恐い恐い残酷な魔女でございます」
「俺、古登の村のシリウスって言います。名前聞いてもいいですか?」
「ほぉう、シリウス。確かに相応しい名ではあるね。星の森に最も輝く星が落ちるとは、重畳至極」
「どうもありがとうございます。それでお名前は?」
「あぁ、魔女って名前ないんだよ。知らなかった?」
「え? そうなんですか……すいません」
「どういたしまして〜もちろん嘘だけど」
「は?」
シリウスは一瞬耳を疑い、次に口元を引きつらせていた。もはや──マイペースなんてかわいい言葉では言い表せない。
からかわれているより遊ばれているという方が正しく、むしろことごとくペースを乱してやるのが当たり前と言わんばかりに。
シリウスが自失している間に、ケルピーはものすごい勢いで森の始まりに辿り着いていた。魔女は優雅に馬上から飛び降り、無造作にシリウスの手を引っ張った。
「わっ……!」
意識半分だったから簡単にバランスを崩して、ケルピーの上から彼女の胸に飛び込む形になる。彼女は華奢な身体では受け止めきれず、シリウスは半分以上彼女を地面に押し倒す体勢になっていた。間近に迫る楽しげなチョコレート色の瞳に引き込まれる。絹みたいな白い髪が散らばって。綺麗な手がそっと、シリウスの髪を触った。
「いいね……光みたいな髪。ちょっとだけ欲しいな」
シリウスは、逆に、彼女の髪を綺麗だと思っていた。それに、髪だけではなくて全てが特別な人だった。
「す、すみません……」
見とれている場合ではないことを思い出し、シリウスは重いだろう自分の体をどけ、右手を差し出して彼女を助け起こした。ほっそりと冷たい手を握る間に尋ねる。
「そうだ、名前なんでしたっけ?」
「んん?」
魔女はわざとらしく首を傾げた後、淑やかな笑みを浮かべてシリウスを見下ろす。
「忘れちゃったァ。名前ってなんだっけ?」
もしかしたら不意打ちで答えるかもしれないと思ったのだが、相手のほうが何枚も上手なようで。容姿で愛玩されるのは好まなかったが、シリウスはこうなったらプライドを押し込め、大抵の大人が陥落する極上の儚い笑みを浮かべてやった。
「どうしても教えてくれないんですか……?」
「かーわーいーいねー! ほんとに美味しそう! もって帰りたいなあ!」
「ちょっとなら、大丈夫ですよ」
「おやぁ、なんて素敵な誘惑。でも大丈夫〜。昨日の子どもがまだ残ってるから。腐らないうちに食べないと」
「それも嘘ですよね?」
「ほんとほんと。骨までいけるんだよ。今夜のスープが楽しみだな」
白とチョコレート色の魔女はにこやかに答えながらケルピーに飛び乗る。鬱蒼と広がる星の森。
行ってしまう。
シリウスは大きな声で伝えた。
「助けてくれて、ありがとうございました! 今度は名前教えてくださいね!」
彼女は面白そうに笑った。それは今までで一番自然な笑みに見えた。
「教えない。さようなら、金色の少年」
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