K100RSは笑う。
「お疲れさん」
職場に残る後輩にそう声をかけて、私はヘルメットを片手に地下駐車場へと向かう。
後輩はまだパソコンと睨めっこをしていた。無理もない。彼は少し前、私に企画書を一つ持っていた。しかし、その企画書ははっきり言って、アラが残ってるものでとても褒められたものではなかった。
厳し目にそれを伝えてから、どうにも、後輩の顔が険しい。
私としても心の中に何か重いものがズンと残っている。
若いからと私が嫉妬しているのか。それとも、他の何か、なのか。
「あら、ブードゥーさん、もう帰るんですか?」
「うん、今日は晴れてるから」
エレベーターの中で、同僚の前田と一緒になる。
「また、バイクですか? 好きですねぇ、ほんと」
私の手にあるショーエイのヘルメットを見ながら前田は言う。
「仕方ないだろ、ずっと乗ってるんだから」
「今乗ってるのって外車でしょ?」
「お、わかるんだ、前田さん」
「わかりますよ、車体についてるマーク、BMじゃない」
エレベーターが地下駐車場に入る。ちょうど、すぐそばに停めてあるコペンが前田の車だ。
「じゃ、安全運転で」
「お互いにね」
そう言って私と前田は分かれた。バイクの駐輪場は、エレベーターから少し歩いて離れた所にある。そこに私のバイクは停まっていた。
BMWのK100RS。水平対向エンジンを積んだドイツ製のバイク。水平対向エンジンと言えばスバルか、ポルシェを思い浮かべるだろう。しかし、BMWだって黙っちゃいない。水平対向エンジンを積んだバイクを誰が出そう。うちが出そうの精神だ。
K100RSと聞いて、100cc、原付二種かなと勘違いする奴が多い。
それは無理もない。Fiat500の最初期は500ccの排気量だったし、排気量を車名の一部に入れるのは、世界的に見ても普通だし、ちょっと車やバイクをかじってしまったなら、そう連想しても無理はない。
「ま、かくいう私もそうなんだけどもさ」
スラックスのポケットから鍵を取り出して、差し込む。
水平対向エンジンが動き出す。
ゆっくりとエンジンを温めてやる。古いバイクで、1980年代、いわゆるバブルの年代に作られたバイクだ。平成の終わろうとしている現代で走らせるなら、いたわって走らせてやる必要があると思っている。
ライダースジャケットのポケットから飴玉を取り出して口に放り込む。
パインの甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。
舐め終わるころには、エンジンは温まっていた。
「さて、帰りますかっと」
バイクに跨り、ギアをローに入れる。
待ってましたとばかりに、回るエンジン音が地下駐車場に木霊する。
エレベーターの前を通った時、何事か、とびっくりした顔を見せる女の子の姿が見えた。
ヘルメット越しにウィンクする。
意味がないと分かっていてもやりたくなるのだ。
地下駐車場を出て、街に出る。
町は夕刻、帰宅を急ぐ人が多く、通勤の車であふれている。
そういう時は、焦らない事だ。たとえ、前が開いていたとしてもアクセルを開けない。隣を走っている車がいきなりそこに割り込んでくるかもしれないし、突然、渋滞が発生するかもしれないからだ。
しかし、このK100RSはこういう道は好きではない。
そして、私も好きではない。
「ちょっと、山に行くか」
通勤でこういう発想を思い浮かべる人間は多いはずだ。
帰宅途中、ちょっと、会社であった嫌な事が脳裏をよぎった時、気晴らしにドライブやツーリングに行ってから、家へと向かう。これこそ、車が趣味、バイクが趣味の人間が、その趣味を職場への足にする理由だろう。
帰宅も趣味の時間だ。
山へと向かう。国道1号から西へ向かって、さらに山の方へ。
体を包み込む空気は、もうすっかり、夏が近いことを教えてくれる。
だんだんと、道が坂になっていくのを感じる。
「山だ、山だ」
そう呟くと同時に、体がちょっとだけ前傾する。
そうすると、まるで風を感じない。K100RSはフロントにある大きな風防で、空気の壁をまるで感じさせないのだ。
だんだん、道端にある家が、少なくなる。
山の峠道に入ったときだった。
後ろからピカッとハイビームが迫り来ていることに気づいた。
白バイか、と一瞬思ったが、白バイは夜間の警邏はあまりしない。
ぐんぐんと、スピードを上げてそいつは近づいてくる。
サイドミラー越しに見える姿は、ハイビームの強烈な光でかき消され、車種がなんなのか、乗っているのが誰なのか、まるでわからない。サイドミラーに反射されるハイビームが、私の目をギラギラと照らす。
「うっとうしいな」
そうつぶやいて、ちょっとだけ体を前傾させた。
振り切るか、それとも、追い越させてやるか。
逡巡の判断も必要としなかった。
エンジン音が後ろから迫り、そして、横に並び。
抜かれた。
特徴的なセンターアップマフラー。そして、絶対に見逃しはしない。タンクに大きく描かれたKAWASAKIとNINJAの文字と、全体に施された緑の塗装。
間違えようもなかった。
「ZX-6Rか」
ZX-6R、通称NINJA600。
もはや、語る必要もあるまい。
前を走るそれは、私の心に、すっと何かを流し込んだようだった。
それは、油か、水か。
どちらでもいい。
ただ、気がつけば、アクセルをギギギッッと握りしめていた。
リッターマシンに跨がるバイク乗りは、おうおうにして、少し変わっている。もちろん、私を含めてしまってもよい。わざわざリッターを買う必要はない、と人はいう。
原付二種で十分だ。安い車体に、そこそこ走るエンジン。何の不満があるのか、と。
250こそ最強だ。車検はない。高速を走行できる。そこにリッターとの違いなど存在しない、と。
笑わせてくれる。
リッター。その響きは特別なのだ。
ナナハンという言葉の響きが特別なのと同様に。
「うおっと」
いつの間にか目の前に来ていたきつい左カーブに、私は気づくのが遅れた。
ぼーっと考え込んでる暇はなかったのだろう。
フロントを少し握って、フルバンク。
ぐぐぐっと車体が傾く。
カーブを抜けた先は、緩い右カーブ。
どうやら、前を走っているNINJAは、道を知らないらしい。
おっかなびっくり走っているのが、手に取るようにわかる。
「さっきの左でびびったな」
アクセルを開ける。
じわじわと、NINJAのケツが近づく。
右カーブが終わり、ストレート。
ぐんとNINJAが加速するが、前ほどの鋭さはない。
ストレートの先に潜む、右カーブを恐れているのだ。
ちらとスピードメータを一瞥する。
「まだ、若いな」
NINJAがカーブに入ろうとスピードを落としたとき、私のK100RSは前に躍り出ようとしていた。
しかし、私はあえて抜かず、ブレーキを握った。
カーブでの追い越しは御法度である。ここはサーキットではなく、公道。それを深く理解するべきだ。もしも、右カーブに入ったとき、互いに並んでいたら、接触を恐れて不自然な動きを見せるだろう。
それは実によろしくない。
ガロロロロと、エンジンが責めるように啼く。
「焦るなよ、夜は長いんだ、楽しもうぜ」
私はそうつぶやいて、タンクをなでる。
NINJAのケツは依然として前を走っている。
後ろについて走って感じる。NINJAにのったライダーの若さを。
まだ、免許取り立てなのではないか、と思ってしまうほど、真剣にバイクを乗りこなせていない。NINJAが全幅の信頼を置いてもかまわないといっているのに、彼はそれを拒んでいるかのようだった。
初めて峠道に来たのではないだろうか。
そういう乗り方だ。
ストレートでは確かに速い。
しかし、カーブに入るとなったら、ブレーキングポイントがずれる。一発のブレーキでいいところを、二回三回と複数回に分けて踏むのは、経験のなさからくる行動だろう。
今頃、私をケツにつけて走るそのプレッシャーで、冷や汗をかいているのではないか。
抜いてきそうで、なおかつ、抜かない変なやつに絡まれたと思っているのではないか。
しかし、しばらくいったところにある道の駅が、彼と私を救った。
「なんなんすか」
道の駅の駐輪場に入ってすぐ、そう言われた。
フルフェイスヘルメットで、なおかつ、スモークシールドのそいつはまだ若い声色だった。「別に、そっちこそ何かあるのか」
「何かって、俺のケツを突っつき回りやがって」
「突っついてないさ。俺とおまえの行き先が同じだった。それだけだろう」
スンとNINJAのエンジンを切るのに併せて、私もエンジンを落とす。
「この道、初めてなのか?」
「だったらなんだってんだよ」
その若者の態度に、私は部下の姿を重ねてしまった。
「そんな走りじゃ、死ぬぞ」
ヘルメットを脱ぎ、それから、吐き捨てるように伝える。
「知らない道で飛ばすもんじゃない。それに、そのバイク、NINJA、乗って何年だ」
若者は、ヘルメットを脱ぐ。
まだ、幼い。
高校卒業したところ、卒業式の帰りとでもいうほどの幼い顔つきをしていた。
「一年もねぇよ」
「ほー」
ライダースジャケットのポケットからタバコを取り出す。
一本銜えて、それから、その若者にも差し出す。
「おまえ、名前は」
「伏見」
伏見はタバコを受け取らなかった。
「吸わないのか」
「タバコは体に悪いから」
「ふん、そうかい」
峠道をあんな速度で走るにしては良い子ぶるじゃないか。
ふーぅっとタバコの煙を吐き出す。
「俺が先に出るぜ。もう、変な気を起こすんじゃない」
「変な気って何だよ」
「変な気は変な気だ」
タバコを革靴のそこに押しつけて、火種を潰す。
「うっせーよ。俺は俺の好きに走るだけだよ」
「あんな走りでか?」
伏見に両手が私の襟首に伸びるのが見えた。
やはり、若い。
ちょっとだけ上体を動かして、ゆうゆうと逃げ、それから、鳩尾に拳を入れた。
力なく、伏見が腹を押さえて膝から崩れ落ちるのを私はただ眺めていた。
「おっさんだからって舐めるんじゃない」
「てめー」
うめくように、しぼりだしたのはそんな言葉だった。
「好きに走りたいなら、俺を追い越せよ」
「おっさん、おまえ、名前は」
「好きに呼べよ」
吐き捨てるように伝え、それから、ヘルメットをかぶる。
「少なくともメットのシールドは、クリアなのに換えな」
ガロロロとエンジンに火が入る。
「先いくぜ、この先にあるガソスタまでに追いついてきな」
私はスタンドを蹴り払い、走り出す。
何をそんなに焦っているのか、何をそんな荒々しくする必要があったのか。
私はそれを自問自答しないため、ギアを一段あげた。
しかし、K100RSは私の思いに反するように、あまり、スピードがのらなかった。
そうこうしているうちに、サイドミラーに何かの光が写った。
特にきちんと確認したわけではないが、それはNINJAだろうと思った。
「もう来たのか、若いな」
私はそうつぶやくが、道を譲ってやりたくはなかった。
絶好のラインを渡してやる必要はない。
K100RSは絶好調だ。
サイドミラーに写るNINJAは、やはり、どこかおっかなびっくりだ。
すっかり怖くない。
なるほど、はじめ抜かれてしまった理由がよくわかる。得体の知れない存在ということで、萎縮してしまっていたのだ。後ろにいるのがNINJAだとわかってしまえば、乗り手が若いと知ってしまえば、何のことはない。
この未熟なバイク乗りがどの程度ついてこれるのか。
「ついてきなよ」
アクセルを回し、車体を倒しこむ。
タイヤが効果を発揮できるギリギリまで使う。
ラインを極限まで攻める。
常識の外を走る。
道の脇に生えている草がヘルメットをかすめた。
サイドミラーに、ちらりとハイビームが見える。
「おほほー、ついてこれるんじゃん」
それはそうだ。
こういう道を走るときは、後追いが有利だ。車種は違えど、同じ二輪である。同じラインをなぞって走るなり、ライン取りを参考にするなりができる後追いは、どうしても有利になる。それだけでなくとも、スリップストリームもあり、前を走るバイクが風除けになるのだ。 しかし、後追いは後追いである。
前に出なければ、勝利はない。
「おらおら、最初の元気はどうした!」
ヘルメット越しでも聞こえるように大声で叫んだ。
グイッググイッとカーブが来るたびに、車体を傾ける。
カーブを抜けるたびに、思う。
この若者が成長している点に。
ブレーキングに迷いがなくなった。突っ込むところは、きちんと奥深くまで攻め込んでくる。
「気に入ったぜ」
ついつい、口が悪くなってしまうことに気づいたが、止めない。
じりじりと背中に追いつこうとする、若いNINJAにだんだんと畏怖の念を抱き始めていたからだ。
下手打てば、追い越されてしまう。
それは避けたかった。
直線で追いつかれる。コーナリングで突き放す。
これを幾度となく繰り返したときだった。
道で最も大きな右カーブ。ブラインドコーナーといっても良いだろう。対向車線がまるっきり消えてしまう箇所がやってきた。
いつだってそういう道は怖い。
本能的に、いや、経験としてそういう箇所ではスピードを落とす。
だが、若さというのはそれを追い越すものだ。
右側、センターラインすれすれをNINJAが走る。
オレンジラインの上を綱渡りするかのように走る。
若者の上半身は、センターラインを超えて、すでに対向車線に入り込んでいる。対向車がきたら、間違いなく、事故と大怪我は避けられない。
「馬鹿が!」
ぐぐぐっとブレーキを効かせ、NINJAが避けられる空間を作る。
対向車が来ないか、気が気でなかった。
しかし、若きNINJAは迷うことなく、そのまま、対向車線へとさらに身をよじり、サーキットばりに、アウトインアウトのラインを描き、カーブを抜けた。
「馬鹿じゃねーか」
と、叫ぶ私の顔が、にやけているのをヘルメットのシールドが写す。
先行するNINJAを追い越そうと思う気持ちは全く沸かなかった。
ブラインドコーナーで、ためらいもなく、対向車線にはみ出すような思考を持ったやつを後ろに走らせておくことの方が、怖く感じたのだ。それに、あれほどの、危険を冒して前に出た人間の前を走るためには、あれを上回る危険を冒さなければならない気がした。
そして、それほどの危険に身をさらすことは私にはできない。
しばらく、NINJAの後ろを流すように走る。
綺麗なラインを描けるようになっている。
短時間でこれほどの進化、成長があるとは思っていなかった。
驚かされることばかりだ。
山道を抜けて、ふもとのコンビニが見えてきたとき、勝利を確信したかのように、NINJAが左ウィンカーを点滅させる。
私も左のウィンカーを点滅させて、吸い込まれるようにコンビニの駐車場に入った。
「どんなもんだい」
ヘルメットを私が脱ぐのを待ってから、そう自信にまみれた声をかけてくる。
「やるじゃない」
賞賛の声を私が向けるとは思わなかったのか、若造はきょとんと驚きの顔を見せる。
タバコをジャケットのポケットから取り出す。
「一本どうだ?」
「いやいいよ」
「さっきは殴って悪かった」
「いや、別に、なんていうか。俺も、ガキっぽかったかなって」
ガキっぽかったのは、どちらもだ、という言葉を引っ込めるように、タバコに火をつける。 謝罪の後のタバコは美味い。
紫煙を漂わせ、その中にいろいろなものを思い浮かべる。
「一つ聞きたいんだが、あのブラインドカーブ。反対車線ギリギリまで使ってたが、そこまで危険な事をする必要はあったのか?」
私の問いかけに、伏見はきょとんとした表情を見せる。
「あれは確かに危険行為でした。けども、自信と確証があったんです」
「自信と確証?」
「えぇ。対向車線には車が出てこないという確証が」
私はタバコを靴の裏ですりつぶし消した。
「あのブラインドコーナー、きちんとミラーがあるんですよ」
「そんな事か」
「えぇ、それに、木々の隙間から対向車のライトがあれば気づきますし」
意外と細かいところまで見ているのだな、と思う。
しかし、それよりも、その観察力と度胸に感心せざるを得ない。
まったくもって末恐ろしい若者だ。
「んじゃ、先に行きます」
「おう、好きにしろ」
タバコを一本取り出しながら言った。
はっきり言って、この若者の後ろを走ろうという気はなくなっていた。
「あんな無茶はするなよ」
と、いう忠告を私が口にすると、伏見は親指を立てた。
コンビニに入り、NINJAが走り去る姿から少し逃れる。季節外れの肉まんと、缶コーヒーを買って外に出ると、少し風が強く吹き始めていた。ぞぞぞっと背筋を寒気がなぞっていく。 無意識に止めていたK100RSのエンジンをスタートさせる。
水平エンジンの独特の音が、夜空に吸い込まれていく。
「課長、前の企画書なんですけども」
翌月曜日、出社した私をオフィスでまず出迎えたのはあの後輩だった。
手にはまだ印刷したてなのか、微妙に熱をもった書類の束がある。
「ちょっと手直ししてみたんです。見てもらえませんか?」
「懲りないやつだな」
書類を受け取り、ざっと目を通す。
前に指摘した誤字脱字はさすがに修正したらしい。
「お願いします」
そう言って深々と頭を下げる後輩の横をすり抜けて席に着く。
「見といてやるから、ほら、仕事しろよ。前に言っていた行政への報告書まだだろ?」
そう言ってやると、後輩は慌てて自分の席へと戻っていった。
そして、私は赤ペンを取り出して、書類に改良点を書き込んでいく。
先にラインをなぞってやる。
それくらいは、許されるだろう。