私のトライアンフ
ストンと小気味の良い音が耳に聞こえ、その後にど真ん中命中を知らせるミュージックが鳴る。
最近のダーツというのはすごい。全てがコンピュータで判定される。ややこしい計算は全てコンピュータに任せる。スコアボードを書く必要はない。
「くそ、あんた、また真ん中じゃない」
「悪いねぇ」
テーブルの上に置かれた万札の束の上にそっと僕は手を置く。
「ほら、とっとと投げろよ。僕の番がこないじゃないか」
「待ってなさいよ、すぅぐに追い付くから」
友人は長い髪をさっと後ろにまとめて構えをとった。
しかし、友人は三投全てを狙ったところ以外の場所に刺してしまった。
「ほーら、僕の勝ちに決まってるわ」
スコアを見る。
僕は17。友人は2だった。
「んなわけないわ。だってあなたダーツのルール知ってるの?」
ダーツの矢を一つ、ポケットから取り出して構える。
「知ってるよ」
そう答えての一投は、吸い込まれるように17のエリアに収まった。
「ほらね」
「マジ。ねえ、あんた、ダーツ初めてって嘘でしょ」
「嘘じゃないよ。あんたと一緒、今日が初めて」
テーブルの上にある万札をさっと僕は手に取り、ジーンズのポケットに押し込む。
「あ、いっけない」
万札を押し込んだ後、残り二本のダーツの矢を取り出してテーブルの上に置く。
「まったく、でどうするの」
「どうするもないわ。ガソリン代も稼げたし、ゲームはおわりよ。それに」
腕時計をちらと見る。
時刻はもうそろそろ午前になろうとしていた。
「夜更かしは美容の大敵よ」
「なにさ、男漁りにダーツバーに通ってるのに」
「いい男いたら教えてよ」
「考えとくわ。おやすみ、ナツキ」
僕はその別れの挨拶を背に受けて、店を出た。
バイクの鍵をポケットから取り出して、くるくると回す。
夏の夜風がくびすじを撫でる心地の良い気分。
車を買おうと思っていた時期が少しあった。しかし、バイクを買う事にしたのは、この夏の夜風という素晴らしいものに少しでも体を晒していたいというのがあったからだろう。
近くの駐輪場に向かい、バイクに跨る。
「さて、ついでだしさ。ちょっと遠く、走りにいこうよ」
ヘルメットをかぶってエンジンに火を入れる。
W800。
大型の二気筒マシンといえば、ハーレーダビッドソンだけではない。
それを証明してくれるようなマシンがそこにはあった。
往年のクラシックスタイルは僕に会う。
二気筒エンジン特有の耳に残る音を響かせ、夜の街を走る。
回転数をあまり上げる必要はない。低回転域での滑らかな走りを維持する。それ以上回すと、二気筒の嫌な振動がハンドルに伝わってくるからだ。
夜中の幹線道路は好きだ。
車の走行量はまばらで、街自体が寝静まっていると思う。
「このまま、海まで行こうかしら」
そう呟いて交差点を右に曲がる。
すると、前の方に一台のバイクが走っているのが見えた。
僕と同じ、クラシカルなデザインのバイクだ。SRだろうか、と一瞬、思ったが、どうにも雰囲気が違う。ではエストレヤだろうか。いや、そうでもない。トライアンフだ。
「ひゅー、良いバイク乗ってるわねぇ」
と、ヘルメットの中でつぶやき、タンクを撫でる。
この世の中でもっともカッコイイのは自分の乗っているバイクだ。
それを知っているから、たいして羨ましくもない。
赤信号で、トライアンフと並ぶ。
「どうも」
というニュアンスを込めて会釈をした。
すると、トライアンフのライダーは一瞬驚いたような反応を見せたが、会釈を返した。
そして、信号は青になる。
トライアンフは出遅れた。
私のW800が先に走り出す。
別に勝負をしているわけではないけれども、少しだけ得意になってしまう。
ずっと道をまっすぐ走る。
サイドミラーをちらと見れば、まだ、トライアンフは私の後ろにいる。
コンビニが見えた。さすがに、少しばかり休憩をはさむべきだろう。ずっとダーツをしてきていて、そのままの勢いで、海を目指して走っているのだ。さすがに、腕が疲れてきていた。
コンビニの駐車場に入る。
郊外のコンビニは駐車場がとても広い。都会のコンビニは、ビルの一階部分がコンビニだったりすると、駐車場の影も形もない。あったとしても、駐車場運営会社の駐車場だったりする。つまり、時間制で金額のかかる駐車場だ。しかし、郊外はコンビニ店舗の敷地での駐車場だから無料である。
無料だからと言ってただ利用するのは良くない。
バイクを停めて、店内に入る。コンビニコーヒーとドーナッツ、それと、エナジードリンクを手に取る。駐車場代金として支払うならばもう少し買ったほうがいい、と思い、爪切りも買っておく。
「ムラオコシクルスタンハンセーン」
コンビニ店員の挨拶を背に受け、店を出るとトライアンフの女が私のW800を見ていた。
「あ」
と、つい声が出てしまう。
すると、女は私に気づいたようで、こちらに顔を向けた。
私よりほんの少しだけ年上のような顔つき。疲れているという訳でも、老けているという訳でもない。良い歳の取り方をした顔つきだ。憧れてしまうような、綺麗な顔をしている。
「どうも、こんばんは。バイク乗りさん」
女はそう言って手を出した。
はっとする。この女ライダーは、全身が革装備である。一目見ればわかるが、本革装備だ、
それと対照的に自分の装備は、ポリエステルのライダースジャケットだ。
つまり、ブルジョワ。
「いいバイクね。W800かしら」
「え、そ、そうですけど」
つい、言葉が詰まる。
「よく走るわね。後ろ走ってて感心したわ」
「ありがとうございます。えっと」
「リツコよ、ライダーさん。こんな時間に同じ女性ライダーに会えるなんて奇跡的ね」
「えっと、ナツキです。それもそうですね。それに、そのバイク」
私はトライアンフを見た。
「トライアンフの何て名前なんですか?」
「ボンネビルよ、ほら、ゲームにも出てるでしょ、知らない? メタルギアソリッド」
「いや、知らないですけど」
「じゃあ、こんど、やってみなさい。面白いゲームよ」
「えぇー……」
まさか、それを言うためにこのトライアンフのボンネビルに乗っているのかと考えると、会社バイクのありがたみがなくなってしまったような気がした。
それが露骨に顔に出ていたのか。律子はぷっと噴き出した。
「な、なにわらってんですか」
「ふふ、いやごめんなさいね。このゲームの話をすると、みんな同じ顔をするから面白くって。でも、変にトライアンフとかのってて、身構えられるの嫌いなのよ。だから、そうやって普通に呆れた目で射てもらえるほうが嬉しいわ」
この律子という女性がどんな女性か、私は分かり始めていた。
面白いことが大好きなタイプの人間だ。
「それで、まさか、トライアンフに乗ってるからって声をかけて来たわけじゃないですよね」
「まぁ、ね。これから海に行くんでしょう。どう、競争しない?」
「競争って、海までですか?」
「そう。このまま、海に行くまでには高速道路に少し入る必要があるわ。そこで勝負しましょう」
私はふんと鼻を鳴らす。
「そんな事はしないわ。免許証がいくらあっても、すぐになくなるじゃない」
「あら、そう。意外と、臆病なのね」
「あん?」
明らかな挑発だった。
本気にするほどの挑発ではない。
しかし、挑発されてしまって、その勝負にのらないとなると人としてどうかと思う。
「わかりました。じゃあ、勝ったらどうします」
ちょろい、と女が顔をゆがめる。
「じゃあ、勝ったらコーヒーとガソリン代を奢るっていうのはどう」
「ハイオクですよね」
「もちろん」
「わかりました」
W800に跨る。
「じゃあ、そこまではどっちが先行します?」
「あなたでいいわよ」
「……いいえ、そちらが先行でお願いします」
「ふーん、そう、じゃご遠慮なく」
ボンネビルにリツコがまたがるのを見届けてからエンジンをかけた。
股の下でおきる振動が、やけに冷たく感じる。
「じゃあ、いくわ」
ボンネビルが先に走り出す。
その後を追って走り出す。
早いわけでは、決してない。
ボンネビルもそれほどレーシーなマシンではない。W800とどっこいどっこいだろう。
信号で並んでは、離れるのを繰り返し、高速道路の入り口が見えてきた。
ETCレーンに互いに入り、ゲートは開く。
まるで競走馬のように、間髪入れずボンネビルは加速する。
「やはり、はやいな」
しかし、追い付けない速さではない。
W800をトルクが最大限出る回転数で維持する。
トライアンフの背中はすぐそこにある。
風の音が耳に叩き込まれていく。
速度計には目線を向けない。
ただ、トライアンフの背中だけを見る。
追い越せない。互いに、前回速度を出している。お互いにマシンの性能はほぼ同等であり、マシンの、バイクの性能で追い越すのは無理なのだろう。もしも、自分がレーシーなマシンに乗っていたのなら、いや、それは考えること自体がバカバカしい。
つまり、私が勝つためには、ほんの少しのミスも見逃してはならない。
じりじりと差が開き、じりじりと差が縮まる。
背中越しに見える向こう側に車が見えた。
「ここは責めるっきゃないでしょ」
ぐっとアクセルを回し、追い越し車線へと入る。
トライアンフが追い越し車線に入ろうと思った時にはすでに遅い。
そこは私のラインだ。
気が付けば、トライアンフは私脳色を走っていた。
このままの速度を維持して、そして、あとはミスなく走り続ける。
緑看板が降りる所を表示してきた。
ウィンカーを出して、高速の出口へと向かう。
エンジンはゆっくりと低回転域まで戻ってくる。
勝負はついている。
「速いじゃないの」
高速を降りた後、すぐにある赤信号で並んだリツコはそう声をかけてきた。
「ぎりぎりですよ。それに、少しずるがあった」
「あれはズルでもないわよ。あなたが先に追い越し車線に入った。私が入っていれば追い越せなかったはず。戦略の問題よ。ほら、すぐそこにガソリンスタンドがあるから、そこに」
リツコに言われた通り、少し走ったところにはガソリンスタンドがあった。
二台のバイクをハイオクガソリンで満たす。
「しかし、こんな時間に海まで行くなんて馬鹿よねぇ」
「リツコさんもですよね」
「まぁね。ナツキさんは、こんな時間にまで外に出て家族の人は心配しないんですか?」
「それ、あなたが言うかしら。まぁ、いいわ。別に家族はいないわ」
「え」
「え、じゃないわよ。一人で生きていくことを選んだだけよ」
少し前までの自分を思い出す。
ダーツバーに入り浸り、いい男を探す。
一人で生きていかず、誰かと共に生きていくことを選んでいる日々。
「あー、なんか勘違いしてると思うんだけども」
ボンネビルのタンクの蓋を閉めながらリツコは笑う。
「別に人を愛してなかったわけじゃないわよ」
「あ、そうなんですか」
「そうよ。好きな人もいたわ。大昔、あなたよりももう少し年上の頃かしらね。でも結局は私は一人を選んだ。その人も、別の人を愛していたし、それに、お互い、いい歳だった」
リツコはそう言って、トライアンフのタンクをそっと手の甲で撫でる。
「トライアンフの意味、知ってるかしら」
「えっと、確か、挑戦?」
「違うわ。大勝利よ」
果たしてその勝利とはいったい何に対しての勝利なのか。
それを聞こうとは思わなかった。
「逆に聞くけど、ナツキさん、あなたは、好きな人いないの?」
「あー、えー、探してる所といいますか」
まさかの質問が飛んできて、私はしどろもどろに答える。
「あら、そうなの。じゃあ、あなたが大勝利に終わるように」
トライアンフの鍵を、リツコは引き抜いて私に差し出す。
「このトライアンフ、少しだけ貸すわ」
私は一瞬だけ、手を出しそうになった。
トライアンフのボンネビルに乗れる事なんて滅多にない。
しかし、ぐっとその手を抑え込む。
「いや、いいですよ、別に。勝利は誰かから借りるものじゃないですから」
「それもそうかしらね。じゃ、あなたの勝利のために、海までもう少しよ」
リツコはトライアンフに跨る。
W800のタンクをそっと撫で、それからキーを回す。
私のトライアンフは、借りるものではない。
私のトライアンフは、今、ここにある。
そして、これから先、どこかにもある。