My darling
私が19の時。
大学生になって初めての誕生日に、私はバイクを買った。
大学の知り合いは「19になってバイクとかだっせーよ」とか「車買えばよかったのに」と言ったが、私は構う事はなかった。実際、彼らの中で『自分の車』を持っている人間はいなかった。つまり、彼らは『自分のバイク』を持っている私をひがんでいるのだろう。たぶん。
「こんちは」
と、私はいつものように馴染みのバイク屋へと入っていった。
私が店内に入ると、すっかりと顔なじみになった店員が笑みを浮かべてやってくる。
「待ってましたよ、さ、二階へ」
店員に言われるがまま、私は二階へと続く階段を上っていく。
店の二階は、整備スペースと展示スペースを兼ねたものになっている。売買の契約が決まったものは、二階へと挙げられて、そこで整備を受け、引き渡しの日になったら、その日のうちに走り出せるようにしておく。
その引き渡しの日が今日である。
「いやぁ、すいませんね。まだ、一階、下にはおろしてなくて」
「いいですよ」
二階の一角に設けられた上げ下ろしのためのエレベータ前に私のバイクはあった。
SV400
スズキの作った二気筒のバイクだ。風貌の付いたSV400SとただのSV400があるが、私が選んだのは、風貌の付いていない後者であった。いや、正しくは申し訳程度に、ビキニカウルが付けられている。
前の持ち主がつけたものだそうだ。
「車体の状況はいい。もう、この後、すぐに下におろして走らせることは可能だよ」
「そうですか」
「それにしても、すごいね。学生のうちにこんなの買っちゃうなんて」
店員は屈託のない笑みを私に向けた。
「ま、好きですから」
「羨ましねぇ、バイクが」
店員はそう言って、バイクを下におろすように手配してくれた。
店の前に出たバイクは誇らしげに夏の太陽光を浴びている。
「ほら、餞別だよ」
と、店員はヘルメットを渡してくれた。SHOEIのX14。
「ジャケットは、どうする? 今なら安くするけど」
「ありがと、考えとくわ」
「そう。じゃあ、説明するけど、これがキーな。それと」
店員がバイクの各部位と始動方法を教えてくれる。しかし、私の耳には入ってこなかった。
すべてが楽しみだった。
二気筒のサウンドも、風を切って走る楽しみも、全てが待ち遠しいくらい楽しみだった。
それに気づいたのか、店員はにやりと笑って、エンジンキーを差す。
「ほら、エンジンかけてみ」
私は、言われるままにエンジンをかけた。
タカタカと響く二気筒特有の音。アクセルを開ければ、タカタカという音からヴイインと切り替わるそのスポーティーな音。この大きすぎない音がいい。
「いいわね」
「いいだろ? Vスポーツだ。トルクモリモリだからな、回さなくても進むぜ」
「回しても進むんでしょ?」
「もちのろん。で、どこまで走りに行くんだい?」
「どこにしようかしら」
私は何も考えていなかった。慣らしがいるだろうから近所をグルグル回るつもりだった。
それを伝えると、店員はうんうんと唸り始めた。
「僕が思うに、それが一番いいかもな。御所の周りとか、二条城の周りをグルグル回るのがおすすめだよ、それか。あるいは、ちょっと難しいけど、琵琶湖を一周するとかさ」
「意外と難しくない? それ」
「琵琶湖は簡単だよ、一周300キロくらいだし」
「ふーん、考えとく」
しかし、私の心は二条城のあたりにつく頃には決まっていた。何故なら、二条城のあたりは、とくに堀川通は渋滞がひどいからだ。タクシーミサイル、なにわナンバーと京都ナンバーの無謀な車線変更、それと、夏の地獄のような熱気、とてもじゃないが、平常心で走ることはできない。
だから、私は、国道一号線に出て琵琶湖を目指した。
国道一号線を走り、滋賀県へと入る。そのまま、バイクを走らせ、琵琶湖の周辺に来た時、私は目を引くものを見つけた。
琵琶湖さざなみ街道だ。
「なるほど、これね。付き合ってもらうわ、SV」
私は、SV400にそう語りかけて、バイクを琵琶湖さざなみ街道へと向けた。
SV400は一時間もかからずに、私の手足となってくれた。私の目線の通りに車体は鼻先を向け、私の思う通りにトルクと回転数は保ちやすい。そして、何よりもビキニカウルが素晴らしい。
普通のネイキッドならば、走行時の風が直にライダーにあたる。
しかし、ビキニカウルのおかげで、直撃する風はある程度削減されている。スーパースポーツや、フルカウル、ツアラーのような風に対する絶対的安心感はない。しかし、これはこれでいいものだ。
「おい、おせーぞ!」
琵琶湖さざなみ街道に入ってしばらくSV400と風になっていた私はそう怒鳴られた。
サイドミラーを見てみれば、後ろを走っているトラックの運転手が、窓から身を乗り出して怒鳴っている。いかにも、強面という感じで、ちょっと怖い。
スピードメーターを見れば、時速60キロ。公道で出せる速度の中では速い部類にある。
それでもなお飛ばせというのか。
それはできない。琵琶湖さざなみ街道は、見通しの良い、対向一車線の道だ。つまり、速度が出やすい道とも言える。しかし、それはつまり、白バイのお世話になりやすいという事でもある。
それがトラック運転手はわかっているのか、わかっていないのか。
そのトラックの後ろから、ぴかりとライトが顔をのぞかせてきた。一台のバイクが、反対車線を走って、トラックと私を追い抜いて、前に出た。
蒼いバイクだった。
いや、バイク雑誌を見ていれば、嫌というほど見かけるバイクだ。
「GSX……」
前に躍り出たのは、GSX‐R1000だ。しかも新型のRで、ABS付のやつ、2017年のモデルの物、二百キロという車重に二百馬力という怪物マシン、全てのリッターマシンを過去に置き去りにしたスーパースポーツモンスターだ。
SV400では太刀打ちできない。
圧倒的なパワー差を感じる。
同じ会社のマシンだというのに、こちらは旧型、あちらは、新型。
勝てる はずがない。
「遅いな」
とでも言いたげに、そのGSX-R1000にのったライダーは、こちらを見た。
それから、挑発するように、アクセルを少し吹かす。
アクセルを握る手と、タンクを挟む太ももに自然と力が入った。
ここは公道だ。サーキットではない。
しかし、売られた喧嘩は買わなければならない。
私の名誉だけではない、SV400の名誉がかかっている。
ギアを一つ落とし、アクセルを開ける。SV400のエンジンは吠えた。今まで街乗りで聞いたことのないその吠え声に、にやりと頬が緩む。そして、緩んだ頬は、加速によって引き締められた。
これがSV400か。
二気筒のマシンに相応しい力強いトルク。回せば回すほど生まれる太いトルクは、私をぐんぐん前へと走らせてくれる。気が付けば、前のバイクのすぐ後ろについていた。ウィンカーを出して、前のバイクを追い越す。
にっとGSX‐R1000のバイク乗りが笑ったような気がした。
SV400はエンジンを吠えさせ続け、スピードメーターはもう見ない。
SV400の最善を、最高を引き出し続け、私はどこまで行くのか。
GSX‐R1000は引き離されもせずに、SV400についてくる。いや、それは当然だ。何故なら、性能も何もかも、GSX‐R1000にかなうところはない。しかし、私は、前を走っている。その事が重要だ。
このまま、前を走って、しまえばいい。
GSX‐R1000は半分以下の排気量のマシンに前を走られているという事実を見せつける。
それだけでいい。
少し後ろで,GSX‐R1000のエンジンが吠えた。
SV400の二気筒と違う、四気筒マシン特有の、高回転域まで一息の吠え方。
サイドミラーを見なければ、後ろにいるのは、獣だと思えてしまう。
横をさっと何かが抜けていく。
うかつだった。
目の前には、GSX‐R1000のリアが走っている。
今の一瞬の間を抜かれたのだ。
ぐっと手に力がこもる。
しかし、その時、前を走るGSX‐R1000の左手が上下に動くのが見えた。
まるで、スピードを落とせというように。
不思議がってスピードを落とした。
いつの間にか、100キロ近くを示していたスピードメーターはどんどん下がって、60キロまで落ちる。
一体何をさせようのかと思った時、ちらと視界の隅に何かが映った。
「あ」
思わず声がでた。
道をまたぐように設置されている速度違反取締装置、いわゆる、ネズミ捕り、あるいはオービスと呼んでるやつが目に入ったのだ。
もしも、GSX‐R1000が前に出てスピードを落とさなければ、私は今頃あれの光を浴びていただろう。
「あっぶねー」
と、言いながら、私はオービスの下を通り抜けた。
前のバイクは、すぐわきのコンビニへと入っていく。
私もそれに続いてコンビニの駐車場へと入った。
「危なかったな」
と、そのバイク乗りはヘルメットのシールドを上げて私に声をかけてきた。
「えぇ、あの、ありがとうございます」
「礼を言う必要はないさ。俺も、たまにヒートアップしてしまうからな」
男はまだ若いように見えた。
私とたいして歳の変わらない男だ。
「まぁ、あまりにも遅かったんでな。悪いが、煽らせてもらった。俺に悪意はない」
「悪意はなくとも、煽らないでくださいよ」
「だが、ああいう道では飛ばすほうがいいぞ。後ろからトラックに怒鳴られたろう。あいつはましな方だ。最悪、すれすれで追い抜いていくやつもいるからな。あのトラックの運ちゃんだって、悪い奴じゃあないさ」
そうなのだろうか。
私は首を捻った。
「しかし、そのヘルメット。新しいな。もしかして、今日からバイク乗りか?」
「え、そうですけど」
「そうか。じゃあ、まだまだ路上は慣れてないってところかな」
男はそういうと、ヘルメットを脱いだ。
男は私より年上に見えた。それは、顔が醸し出す雰囲気というのだろうか、全体にまとった落ち着きというのか。それらは、私の知っている男の誰よりも、大人っぽかった。しかし、父親よりも、若いというのは間違いなかった。
「俺は、チョースケって呼ばれてるんだが、もしよかったら、一緒に走らないか?」
「いいですよ。私も、一人で走っていてわからない事もありますし、それに、バイク乗りの知り合いも欲しいんで」
「そうかい。よろしくな。えっと、なんて呼べばいいんだ?」
「私は」
「カズコ、最近綺麗になったよねー」
大学に行くたびに、友達からそう言われるようになった。
そうだろうか。トイレの鏡や、家の鏡、街のガラスに映る自分の姿を見るたびに思う。
そうではない。
「新しい男?」
「新しいって何よ。新しいって」
「だって、カズコっていっつも男いそうなイメージだしさ」
「そんな事はないわ。いつだって、一筋よ」
私は携帯電話に映ったSV400を見て微笑みを浮かべる。
その時、チョースケから電話がかかってきた。
ちょっとだけ、深呼吸をしてから電話に出る。
「次の休み、どこかいかないか?」
「いいわよ」
私は二つ返事で了解する。
バイク乗りとしての一度目の夏が始まろうとしていた。