ファイアブレードと忍者と
帰宅中の地下鉄の窓には、自分の顔が映る。今日も過酷な一日だった。上司は無茶な要求をしてくる。後輩からはなめられる。どうにも、仕事がうまくいかない。社会人になって、十年近く経つが、どうにも、社会に馴染めていない気がする。
最近、駅を乗り過ごす事が多いので、私は早めに席を立ち、電車の出入口の前に立った。
通勤に使っている市営の駅から出ると、一台のバイクが四気筒特有の官能的なサウンドを残して私の前を通り過ぎて行った。右カーブに差し掛かり、減速するためギアチェンジする度に、エンジンが唸り声をあげるのだが、それすらも、人目を惹く。
「GSXか……な?」
右カーブに差し掛かったバイクの横っ面をみて、そうポツリと口から出た。
GSX、それはスズキの作った宝であり、バイク乗りの憧れでもある。
工業製品で見れば、ホンダのカブやCBにはかなわない。彼女たちは断トツで壊れにくく、日本の産業、日本製の耐久と品質を海外に示した。もっとも、学生の時代の話なので、今はどうか私にはわからない。
狂気性で見れば、ヤマハが一つ抜けている。VmaxやR1のデザインはスピードと馬力に狂った冷徹なサイコパスマシーンというイメージが、あふれ出ているだろう。そんな一面を、セローやトリシティといった優等生バイクの仮面で隠している。
スズキが市民に与えたもの。
それは、手ごろな値段で手に届き、誰も手の届かない速度域に連れて行ってくれるもの。
そう、隼だ。
これこそが、スズキの本質だろう。
「ただいま」
いつの間にか、家についていた。一軒家だ。私のような若造、三十代の若造にしては過ぎる。知り合いの家だったのだが、私に安く譲ってくれた。この家に決めた理由は一つ。一階がガレージになっている点、それだけだった。
二階のリビングに、鞄とジャケットを置くと、スマートフォンを取り出す。
妻はまだ帰ってきてないようすだった。スマホの内臓時計を見れば、まだ、五時半を過ぎた所だ。こんなに早く帰ってきてしまえるとは思ってもいなかった。おそらく、妻は仕事帰りの途中か、子供を保育園まで迎えに行ってくれたのだろう。
ガレージを覗き見れば、おそらく、まだ妻の車はないはずだ。
その時、スマートフォンの画面がぱっと変わった。友人からの電話だった。
一つ、深呼吸をしてから、電話に出る。
「よぉ、元気してたか。モヒカン」
「なんだよ、チョンマゲ、いきなり電話をしてくるなんて。それと、もうモヒカンじゃない」
私はそういうと、頭を撫でた。モヒカンではないが、短く切りそろえた髪は、床屋の親父曰く、ソフトモヒカンというのだったか。と、なると、まだ、私はモヒカンなのか。
「お前を、モヒカン以外になんて呼べばいいんだよ」
「俺の名字はな」
「ま、いいさ。細かいことは」
電話の向こうで、トラックが通る音と車のクラクションが聞こえた。
「どうだ? これから、走りにいかないか?」
「これから? 今何時かわかってんのか?」
「五時半だ。昔のコースを走ろうや」
昔のコースというのは、かつて私とチョンマゲが毎日のように走っていたルートである。市街地から山間部へと抜けるルートで、海まで通じる峠道である。グネグネとワインディングが続く道だ。私たちはこの道を、162と呼んでいた。国道162号だからだろう。
「今からとなると、厄介だな」
「そうか? 明日は休みだろ?」
私はちらと壁にかけられたカレンダーを見る。確かに明日は休みである。
今から出かけて、夜遅くに帰ってこれるだろう。少なくとも、日が昇るまでには帰ってこれるはずだ。しかし、この五時という時間が、夕暮れという時間が絶妙である。
しかし、結局の所、私はこの誘いに乗ることにした。
一瞬だけ、職場の嫌味な同僚の顔が横切ったからだ。
「わかったよ。じゃあ、どこに集合するんだ?」
「いつもの所さ。十年前と一緒のな」
それだけ言うと、チョンマゲは電話を切った。
深く息を吐き出し、ソファから立ち上がる。寝室に向かってクローゼットの中からバイク用のジャケットとグローブを取り出して着替える間、私の頭の中では、ヘルメットをどこに置いたかで一杯だった。
妻に電話をかけてどこに片づけたのか聞こうかと思ったが、止めた。
そこまで妻に世話をかける必要はないと思ったからだ。
それに、ヘルメットは靴箱の一番奥、ライディングブーツの後ろに置いてあった。
ひとまず、上から下までバイク用の服装に着替えた私はガレージへと向かった。
ガレージの奥には埃をかぶったバイクカバーがあった。このカバーの下にあるはずだ。
その時、一台の車がガレージへと入ってきた。赤いイタリア車である。
どこから見ても妻の車である。自己顕示欲の高い妻らしい車だ。
「あら? あなた、これからお出かけ?」
「ま、そんなところだよ」
「ふぅん、車貸そうか?」
車のドアを開けて妻は降りてくる。
「いや、いいよ。今日はこっちでいく」
私はそういうとバイクのカバーを取り除いた。
そこにある一台のバイク。
ホンダ・CBR600RRがそこには眠っていた。
フロントからリアまで赤いカラーリング。ホンダ特有のトリコロールカラーではなく、はたまた、サーキットに躍り出るレプソルカラーでもない、純粋な赤である。それも血のような赤ではなく、明るい、誰からも好かれる、幼稚園児が好むような赤だ。
「まったく。何時に帰ってくるの?」
「明日の朝までには帰ってくるさ」
妻はあきれた、という顔を見せ、車をどかした。
こういうところが妻の好きなところだ。もっとも、他にもいろいろあるが。
ヘルメットを被って、エンジンを始動させる。
何か月も乗っていなかったが、CBR600RRのエンジンは素直に始動した。
CBR600RRについて少しだけ私は思う事がある。まず、このバイクはセンターアップだ。
そこがいい。それだけで買う価値がある。それだけで乗る価値がある。
一つ大きな問題があるとすれば、生産が終了してしまった点だけだ。
きつい前傾姿勢のCBR600RRに跨ると、そろそろと、ガレージを出て行く。
ヘルメットのシールドを下げているから、周囲の音が濁って聞こえる。
「気をつけてよね、あなた。あなただってもう」
車を降りてきた妻の言葉がそこまで聞こえたとき、アクセルを繋げて、獣を解放させる。
エンジンが回っていくに従って、サイドミラーに映る妻の姿がどんどん遠ざかっていく。
妻の言葉を最後まで聞きはしなかったが、言いたいことはわかる。
『あなただって、もう、齢なんだから』
と、言いたかったのだろう。
うるせぇよ、と呟きながら、幹線道路に合流する。幹線道路を走ったことがある人間ならわかるだろうが、幹線道路で法定速度を守っている人間は、後ろめたいことをしている人間か、それほど急いでない人間だろう。
私はそうではない。
ギアを一度落とし、回転数を上げてからギアを上げる。
幹線道路では制限速度を少しオーバーすることが常識に近い。道路の流れに合わせて、走る必要がある。そして、その流れというのは、往々にして、あくびが出るほど遅い。
だが、遅いなりにも安全だ。
のんびりと、しかし、メリハリのあるアクセルワークで、私のCBR600RRは夜の街を走りに抜けていく。幹線道路において、他の車を信用することはできない。ウィンカーをつけずに車線変更。脇見運転。急ブレーキ、教習所で習う全ての悪行がのさばっている。
だから、私は幹線道路を走るのはあまり好きではない
何よりも、幹線道路では速度違反の取り締まりをやっているのがつらい。少しでも、いや、制限速度からに十キロを超えるだけで切符がきられるのだから。今の車やバイクの性能で、制限速度を守っているなんて言うのが無理だろう。
だから、私は幹線道路が嫌いだ。
早々と幹線道路から脇道へと逃げ込む。もっとも、その脇道が本来の目的の道であるのだ。
脇道を走るときの注意点は、多い。幹線道路とは比較にならないくらいの多さだ。突然、道から飛び出してくる老人たち、彼らは横断歩道がすぐそこにあってもそれを使う事はない。横断歩道を使うのは、子供だけだ。そして、老人というのは、往々にして動きが遅い。
今も、私の目の前に老人が手を挙げて渡り始めた。
あの老人の考えていることが手に取るようにわかる。
「あのバイクは停まってくれる」「こっちの姿を認識してくれている」
後者については正しいだろう。老人は、幸いなことに、反射板と蛍光色の衣服を身にまとってくれていたから、バイクのロービームや街頭にきらきらと反射して、注意を惹いた。しかし、前者については誤りだった。
老人が飛び出てきたのは、バイクからほんの十メートルというところだったからだ。
咄嗟の判断で、右サイドミラー越しに誰も来ていないのを確認し、セルフステアを切る。
老人の驚いた顔が左側をかすめていく。
「あぶねーなぁ!」
老人がそう叫ぶのが聞こえた。
それはこちらの言葉だと言いたかったが、すでに老人は遥か彼方で年老いている。
信号で停車した時、すこし大人げなかったか、と反省するが、その反省も信号が青になったら振り切ってしまえばいい。
バイクはこういう乗り物だ、と私は思い出し始めていた。
全ての思考を置き去りにする。走り始めたら、集中するべきは、次の事だ。次の路面だ。
次の信号で私のCBR600RRはさらに山に向けての脇道に入った。
そして、しばらく走ったところにあるコンビニの駐車場に滑り込むように入った。
「よぉ、遅かったな」
そこには一台のバイクと、バトルスーツに身を包んだ男がいた。黒い髪を頭の後ろで一本にまとめた丁髷のような男だ。不精髭を剃っていないために、まさしく、落ち武者のような印象が与えられる。
「そこそこ、急いできたんだがな」
時計を見ながら私は言った。
「それに、まだ、夜は遠いぞ」
空を見上げて言う。
夜がすぐそこまで来ているというのが、東の空を見ればわかる。
だが、西の空はまだ赤く明るい。
「で、これから、どうする、モヒ」
「いつものルート、だろう」
十年ぶりの道を、いつもの、と呼ぶことに私は少しも違和感はなかった。
「それがいい。お前と走るなんて、もう何年もしてないからな」
チョンマゲはそういうと、エンジンキーをバイクに差し込む。
「それ、いつ買ったんだ?」
と、私が問いかけると、チョンマゲはにかっと笑って、バイクのタンクを撫でた。
「つい、先月だ。いいマシンだろう」
チョンマゲはタンクを撫で続ける。
アンダーカウルの側面にはKAWASAKIの文字が描かれている。
カワサキのニンジャだ。マフラーの形状からして、おそらく、リッターマシンだろう。
「前に乗ってたバイクが、事故で廃車になってなぁ。それで、買い替えたのさ」
「お前がNINJAか。なんというか。イメージ的にはお前、ホンダのイメージだったんだがな。前に乗っていたのも、ホンダのブラックバードだったしな」
「考えが変わったんだ。今のホンダには未練はないさ」
私のCBR600RRを見ながらチョンマゲは言った。
「このCBR600RRは昔のだぞ」
「知ってるさ」
チョンマゲのバイクがエンジンをがならせる。
川崎のニンジャは時代を作った名車だろう。シリーズが多いことは幸か不幸か、賛否両論分かれるだろうが。ニンジャという名前と、250から1000までの幅広い排気量の車種は、消費者の心を掴むのには十分だった。
それと、250のスポーツデザインの流れを作ったのは褒められるべきだ。
「んじゃ、いくか」
と、ヘルメット越しにチョンマゲは言った。
私は黙って右手を上げる。
チョンマゲのNINJAが先行して、私のCBR600RRが後を追った。
最初からチョンマゲは飛ばすことはない。彼は市街地では市街地の、山では山のといった時と場所をわきまえた走行に関してはプロフェッショナルだ。特に何も変哲のない場所でブレーキをかければ、その前を自転車が飛び出してくる。
ある種の才能であろう。
だから、安心して走ることが出来る。
山道に入った時、すでに、夜になっていた。
グネグネとした道が続く。ぐっとバイクを右へ左へ倒し、アクセルを開閉させていくが、さすがに十年程度のブランクによって、腕が衰えているのが分かる。なんてことない、右の緩いコーナーでさえも、少しセンターよりに走ってしまい、対向車線に体の一部が入ってしまっていた。
前を走るチョンマゲに追い付くことは難しく、距離を離されないだけでも、十分健闘していると思う。
チョンマゲが私と違って、ずっとバイクと一緒だったのだとわかる。彼は軽々とリッターマシンを操っている。先月買ったばかりと言っていたが、はたして、本当だろうかと疑いたくもなる。
ニンジャのウィンカーがチカッと光った。どうやら、停車するらしい。
チョンマゲが入ったのは、山奥にある市営の駐車場だった。観光シーズンには、車や観光バスでごった返しているのだが、今はシーズンから外れているし、それに、平日の夜ですっかり人がいない。
いや、走り屋らしき男たちが何人かいて、こちらを一瞥した。
彼らの車は全て改造車だった。どれもこれも、峠を早く走るために改造された車である。吊るしでも十分に早いのに、それを己の運転スタイルにあわせて改造してあるのだ。
昔、若い頃なら、私は彼らに声をかけて、勝負を挑んだだろうが。今は違う。
それに、今の私に峠を全開走行するだけの力はないと思う。
「おう、どうだ?」
エンジンを停めてバイクを下りた私にチョンマゲが声をかけてきた。
彼はヘルメットを脱いで、にっと笑みを見せている。
「悪くないけど、良くもない。早いじゃないか、チョンマゲ」
チョンマゲは人差し指を立てた。
「一か月かかった。ここまで自由自在に動かせるようになるまでな」
「買ってからずっと走ってたのか?」
「あぁ、仕事終わりには、いつもここよ」
腕を組むチョンマゲの表情は、街灯と車のライトに照らされて自慢げだった。
こんなチョンマゲに対して、私は少しも自慢ができる事がない。かつては、このチョンマゲと同じほどの腕を持っていたはずだ。しかし、それもすっかりと鈍ってしまった。仕事についても、今の仕事は、誇れるようなものではない。会社では、出来ないやつという烙印が頭に押されている気がするのである。
私があまりにも暗い顔をしていたのか、チョンマゲは少し不安そうに眉を寄せた。
「どうした。酔ったか?」
「まさか」
私はそういうとバイクのエンジンを切った。
「少し、疲れただけさ。久々でね」
「そうか。何年乗ってなかったんだ?」
「さぁ、もう、覚えてないな」
私はバイクを下りた理由を思い出そうとしていた。
結婚でも、就職でもない。ただ、乗らなくなっただけだった。
それが十年ほど前だ。
「じゃあ、ほら。こんどは、お前が先行しろよ」
少し考え込んでしまっていたようで、いつのまにか、ヘルメットを手にしたチョンマゲがそう言った。彼の目は真剣そのものだった。こういう時のチョンマゲが自分の発言を曲げない事を、私は知っている。
私は彼の前を走れるだろうか。
かすかな不安を抱いた私だったが、ヘルメットをかぶってエンジンをかける。
しばらく、跨ったままであったが、同じくエンジンに火をつけたチョンマゲが
「いけよ」
と、ハンドサインを出すのを見て、行かざるを得なくなった。
高雄駐車場を出て、京北へと向かう。ハイビームにして道を照らす。
山奥とだけあって、ハイビームでなければ、ろくに道も見えない。右コーナー、左コーナーとぐねぐねと道が続く。こういう道を全速力で飛ばすことはできない。まだ、高雄から京北にかけての道は車の往来が激しいのだ。
一歩間違えれば、対向車と正面衝突という現実。
ヘルメットのシールドに、対向車のハイビームが光り、互いに伏せる。
大きな右コーナーがやってきた。低速で抜ける事は難しいコーナーだ。若い時もここで何度も冷や汗をかいたし、転倒した。今の私に、このコーナーをミスなく抜けられるだろうか。
不安は的中した。
コーナーは一発でビュンと抜ける事がかっこいいと思っている。しかし、私は三度に分けてコーナーを抜けた。アクセルを閉めてエンブレを利かせて進み、また、アクセルを開ける。これを三度繰り返したのだ。
すぐ後ろで、ニンジャがエンブレをかける音がうるさい。
コーナーを抜けたところで、アクセルを開ける。
しかし、記憶ではたしか、走ってすぐに左コーナーがあったはずだ。急な左コーナーが。
この記憶に間違いはなかった。
ハイビームに照らされた先は、まごうことなき下りの左コーナー。
がっとギアを下げて、速度を少し落としてコーナーに突入する。
ほぼ、180度の左コーナーだったが、無事きり抜けた。
思わず右手を振り上げ、ガッツポーズをしてしまい、エンブレがかかる。
慌ててアクセルを握り直し、苦笑いを浮かべる。
パパパッとサイドミラーが光る。
チョンマゲからのパッシングである。
そのまま、私は京北までチョンマゲの前を走った。
トンネルが見えてくる。トンネル内は好きだ。冬は暖かく、夏は涼しい。憩いの空間である。さらに何がいいかというと、オービスがない点だろう。つまり、トンネル内は。
後ろから猛スピードで何かが迫り、追い抜いて行った。
すぐ右のオレンジラインを超えて、私の前に出たのはハイブリッド車だった。
「なんだこいつ」
と、思う間もなく、そいつは私を置いていった。
ぱっと速度計を見てみれば、時速九十キロはオーバーしている。
彼は何と走っているのだろうか。
私は何故、走っているのか。
疑問がわいてくるが、それを振り払うようにアクセルを開けた。
全ての意識を路面に向ける。
右へ左へ、車体を傾ける。
トンネルを抜けて、左へ傾ける。下り道だ。途中から、そう、右へのコーナーに変化する。緩やかな右コーナー。それを抜ければ、短い直線で、また、右コーナー。
体が覚えていた。
10年たっても、体は162を、バイクの操り方を覚えていた。
気が付けば、すぐそこに、京北の道の駅がある。
左ウィンカーを出し、道の駅の駐車場に入る。
深夜の道の駅に人影は全くなかった。
「いけるだろ?」
チョンマゲはヘルメットを外さずにそう言った。
私はCBR600RRのタンクに、メーターに目をやって、鼻で笑い。
右の拳を上げた。
「そういえば、電話したとき、すっげぇ暗かったけどよ」
自販機でコーヒーを買って開けたとき、チョンマゲがそう尋ねてきた。
私はその問いには肩をすくめ
「つまんねーことで悩んでたんだよ。学生の頃みたいにさ」
と、だけ答えた。
「バイクに乗ってりゃ、解決するくらいの小さな悩みだ」
道の駅の前を、一台のバイクが通り過ぎていった。
あれは、そう、間違いなく、GSX-R1000だ。