十六 本当の名前
――紫玖王子はどうなっている
今は取り敢えず牢に繋いでいる。
そうか。…見張りとして娘犀嚴を置いた。
あの者なら大丈夫だろうな。
そんな会話が霞の向こうから聞こえる。
「…いてて」
牢に入れられるときに体を強打した所為であちこちが痛い。
(くっそ。痛くてまともに動けねぇっ)
体を少し動かしていたときだ――。
「不知火殿…ですよね」
「え?あ…って誰だ」
「私、娘犀嚴と申します。…覚えて、おられないのですか」
(娘…犀嚴…。名前は何処かで聞いたことあるな…)
「名前だけは聞いたことあるが。何某の関わりがあったか」
「幼き頃の貴方を知っている数少ない人物、とでも言っておきましょうか」
そう言うと犀嚴は朗らかに笑う。
「で、そんな犀嚴殿が俺の見張りになって何をする」
「――此処だけの話ですけど、貴方を逃すつもりでいますよ」
「……え?い、今なんて言った?」
「ですから、貴方を逃すつもりでいると言ったのです」
「俺を、逃す?」
「左様。見張りのために派遣されましたが見張りの人物が貴方というわけで見張る気すら湧きませぬ故。この際貴方を待っている彼女の所へお返ししようかと」
「良いのか。そんな事して。この見張り結構重要なことなんだろう?」
「えぇ。ですが、それも覚悟の上。身代わりも用意できておりますから」
「み、身代わり!?」
「そうです。…でも不知火殿。今この状況から見れば今日中に鞭打ちを受ける確率が高いです」
「鞭打ち…!?」
「はい。…それまでには逃して見せます」
「すまない」
「いえいえ。…それに貴方が皇子の座を降ろされた理由も、知っていますから。仕方のないことだと思っています故に」
「そうなのか!?お、教えてくれるか!?」
「知らされてなかったのですね。…分かりました」
犀嚴は小さく息をついてから口を開いた。
紫螺は前帝から現帝にまで使えている。言わば重臣だ。
ある日、紫螺からの情報が前帝に届いた。
子が生まれた。名は紫玖。
「それが、俺の本名…?」
「そうです。…貴方の名前は不知火では無いのです。…ですが厳密に言いますと紫玖という名も本名ではない」
「え!?」
「李紫玖。…それが正真正銘の貴方の名前に御座います」
「じゃ、じゃあ俺って…」
「紫家の養子なのです」
「そんな…」
「貴方の父上様や母上様は紫螺殿によって故人にされた」
「待てよ!父上が、そんな事本当にしたのか!?」
「はい。…紫螺殿にとって貴方の父上様や母上様は邪魔に等しかったようです。それで、消したのだと」
不知火が生まれて直ぐ両親は消され、紫家の養子となり入ってきた。
「だったら…何で皇子候補に?」
「それは紫螺殿が貴方の本名を知っていないと出来ないことでしょう?」
「そ、そうか…」
全て紫螺が仕組んだものだった。
皇子候補に勝手にあげたのも、両親を殺したのも。
皇子候補にすると前帝に伝えた直後だった。
突然の前帝防御の知らせが届いた。
次の皇帝は李都となり、新たな後宮作りなどが始まった。
だが李都は不知火を次なる皇帝にしようと考えていた一方、他の二人の皇子にも目を掛けていた。
そこで紫螺はもしかしたら不知火が皇帝になることは無理なんじゃないかと思った。
生活を縛られる宮城で本当に生活が出来るとは到底思えない。
「…それで紫螺殿は、不知火殿を死んだことにしたのです。死因を、金丹による毒殺にして」
「き、金丹ってあの妙薬…!」
「そうです。…更にその後から」
二人の皇子もほぼ同時期に姿を消した。
池に転落し死亡、と言う同じ死因だった。
「ちなみに残りの皇子二人の名は、『李柳耀』と『李葉々』」
(…?りゅ、柳耀…!?柳耀が、どうして…!?ってまず、彼奴の苗字は…)
「ま、待ってくれ。柳耀の苗字は『乱』のはずだ」
「貴方と同じようなことをされたのですよ。義父の乱稽によって」
「じゃあ、もう一人の葉々って奴は?」
「彼は元々『李』でしたから代わりはないです」
(なんか訳が分からなくなってきた…!)
それにも関わらず犀嚴は話を続けた。
「…紫玖という人物がいるというのは後になってばれそうになってしまう事になります」
それを知った紫螺は幼き紫玖の名を不知火と改めた。
これでかれこれ十年以上逃れてきた。
「じゃ、じゃあ父上に頼まれて任務で『紫玖』を使えって言ったのは」
「恐らく現帝は忘れているのだろうとお思いになったのでしょうね。…まぁ貴方は外見すら変わっている。だからばれはしなかった」
「おい…それって」
「貴方の髪の色は緑。…昔は、黒でした」
「現帝の手から逃れるために俺の髪を染めた!?」
「左様に御座います。…だから皇帝にばれる事はありませんでした。…皇帝が何に気づき貴方が皇子候補の一人だと思い出したのかは分かりませんが…」
「其処は流石に秘密裏で処理されてるんだな」
「申し訳御座いません。……ですが今話したことは、全て事実に御座います」
「…父上が、そんな人だったとはな」
「いつか、恨む日が来るでしょう…」
「父上に何か裏があると思ったが、其処まで酷い裏があるとは思いもしなかった」
そう言って不知火は力なく笑った。
自分の肉親の顔を見たことがない。
見てきたのは紫螺の顔だった。
不知火は心から紫螺を慕っていた。
その人物が自分の肉親を殺し、名前も変え、髪を染めた。
不知火の心の中に悲しみと怒りが渦巻き始めた。
「…犀嚴殿」
「何で御座いましょう」
「この怒りと悲しみは…何処に放てばいい」
「それは…分かりませぬ」
その言葉を最後に静寂が訪れた。
不知火は聞いた真実が信じられず目を僅かに見開いたままだ。
と、そんな不知火の目の前の柵が不意に消えた。
犀嚴が外に出るように諭す。
「…お逃げ下さいませ。今が好機会にございます」
「分かった。…ありがとうな」
「いえ。…まだ信じ切れない、ご様子ですね…」
「当たり前だ。でも、ちゃんと受け入れなければならないんだ」
月光に照らされた不知火の顔は酷く複雑な様子だった。
色んな感情が交錯していることは犀嚴にも分かった。
「今日は、紫家で一夜を過ごすことにする」
そう言うと不知火は踵を返した。
犀嚴は何も言えずにただ後ろ姿を見送った。