[将来] -4-*
それからトロールと僕は美味しい昼食とおやつを頂いて、町の中を馬車で案内された後に駅まで送ってもらい、さよならをした。
そしてその二日後の朝は普段通りに起き出し、友人の家へ遊びに行くと告げたが、母さんは困ったように「トロールを独りにしてはおけないし……」と呟いたから、予定通り父さんの船でカミルおばさんの所へ行くつもりだったらしい。自分が出かけることを先に話したのは失敗だったか、と案を探ってみたが、そこへトロールが助け舟を出してくれた。
「実はお隣さんと仲良くなってね、今度ケーキの作り方を教えてくれると言われたから、今日にでもお願いしてみるよ」
母さんは「それはちょうどいい」と手を叩いて、「早速訊いてみましょう」とトロールを連れ、向かいのお宅へ足を運んだ。僕は心の中でほっと一息し「それじゃ」と父さんに挨拶をして、港の西側の入り江で待つジョル爺の船を目指した。
今日の波は穏やかで、雲も空高く数えるほどだ。丘を駆け降りて市場で幾つかの果物を買い、真っ直ぐ抜ければ港だが、僕は右方向の路地を抜け、断崖に囲まれた静かな岸辺へ急いだ。此処がジョル爺の云う『港の隅』。僕達の秘密基地だ。
「おはよう、ジョル爺」
約束通り祖父の船は僕を待っていた。乗り込んで果物の袋を手渡し、早速帆を張る準備をする。母さん達が船を出す前に先回りをして船を隠さないと、近くに寄れないからだ。
「おはよう、ジョエル。随分早かったな」
ジョル爺は僕の熱心な様子を傍観しながら、袋の中のプラムにかぶりつき、少し酸っぱそうな顔をした。
「やっぱり今日母さんはおばさんに会うってさ。トロールを隣の家に預けたら港へ行くよ。早く出ないと」
錨を上げるため揚錨機に手を掛けた僕の後にジョル爺が続いた。歳をとっても力持ちなのは変わらないようだ。楽々と巻き上げる様子に苦笑いを浮かべた僕へ、「頑張れよ」とばかりにウィンクを一つ投げてみせた。
汽帆船と呼ばれるこの船は蒸気でも動くが、今日はシロッコ(アフリカから吹く暑い南風)ほどではないものの風が出てきたので、帆だけで十分進めそうだ。しばらくしていつも僕が結界へと潜る岩場の海域が近付いてきた。此処は結界の領域が比較的浅い所まできているし、海の中にも岩がゴロゴロしていて普通の船なら寄りつかない。母さん達もカミルおばさんと落ち合う時には、必ず利用するほどの恰好の場所なのだ。
「さて……あとはルーラ達を待つだけだな」
プラムはハズレだったが、桃は絶品だったらしい。ジョル爺は二つ目を平らげ、満足そうに晴れ渡った空を見上げた。
母さんとカミルおばさんの話を盗み聞きしようなどという悪知恵に、良く協力してくれたものだと思う。
けれど僕の中に変な良心の呵責はなかった。もしそれでティアのあの不安そうな表情が晴れるのなら。少なくとも何か糸口が見つかるのなら──そう思えば思うほど、こうする自分に悪気は有り得なかった。
それとも──ジョル爺も同じ気持ちなのだろうか? 僕達の祖母に当たるテラを愛して母さんが生まれた。人魚を愛した我が祖父も──何処かで自分と僕を重ねている──?
だけど僕がティアに恋しているなんて、誰か一人でも気付いているのだろうか? ジョル爺はジョル爺なりに、何か思うところがあるに違いない。だからこそ僕を連れてきてくれた──そう思うことにして僕は気を取り直し、袋の中のプラムをほおばった。
「うー、わっ! 何だこれ!? 酸っぱい!!」
想像以上の酸っぱさに、思わず吐き出してしまう。
「だろう? 良くそんなに酸っぱいのを選べたものかと、逆に感心したよ」
とジョル爺は呆れて笑ったが、ここまで酸っぱそうなリアクションをしてくれれば、手は出さなかったというものだ。
「ちっ違うよ! 店のおばさんがこれは甘いよって選んだんだ……あ、ジョル爺、来たみたいだよ」
僕達は遠くに霞む小さな点が、ゆっくり大きくなり始めたのを見つけた。船を岩場の陰に隠しジョル爺に任せて、自分はロープを肩掛けして岩山へ飛び移る。上手いことこの島の傍へ停めてくれると有り難いのだが──。
しかし自分の予想はピッタリで、全く感心するほどの出来映えだった!
父さんは船を岩山に着け、母さん独りが上陸をした。母さんは首に掛けたルラの石を両掌で包み、すると淡い水色の光の玉が海の底目指して飛び込んでいった。それから五分ほど経った頃だろうか、光の玉に導かれて現れたのは、カミルおばさん──いや、美しきシレーネだった。
「久し振りね、ルーラ。先日はご馳走様。とても美味しかったわよ」
カミルおばさんはそう笑いかけて、向かいの船に父さんを見つけて手を振り、母さんの立つその隣へ腰かけた。母さんもそれに続き、
「あたしの料理の腕も上がったものでしょ? みんなルイーザ義母様のお陰だわ。あ、でも姉様、忙しいところをごめんなさいね」
僕は岩陰を伝いながら、二人の声が聞こえる場所まで、こっそりと移動し息を潜めた。お陰でロープを使い、船に忍び込む必要もなさそうだ。
「いいのよ……いつも忙しぶっていて、こちらの方が申し訳ないわ。トロールはどう? 予定通りお邪魔しているのでしょ?」
人間の年齢を受け入れた母さんの方が明らかに年上に見える筈なのに、二人が並んで会話を始めたら、やはりおばさんが姉さんなのだと納得出来てしまうのだから不思議なものだ。母さんはトロールが良くやっていることなど近況を話し、二人で作ったクッキーを差し出した。
「あら美味し。でも今回はこれを食べさせるためにわざわざ此処まで来たのではないでしょ?」
「まあね……姉様の『考え』を確かめに来たわ」
──考え?
「時期としては『シレーネの後継』ってところかしら? アモールの成人もまもなくのこの時期だものね」
「ええ」
──シレーネの後継? あのモカを、シレーネに!?
しかしカミルおばさんは、ふっと笑みを零して、
「それは無いわね。私もあの子に……金色の髪の人魚に継がせるつもりはないから……それにあの子自身も望んではいないしね」
その答えに僕自身もホッとした。あれだけ人間の世界に憧れているモカだ。人間になることを許されないシレーネになりたい筈がない。
そしてそれは母さんも同意見だったらしく、表情から強ばりが薄れて軽く笑んだ。
「そう……それは安心したわ。皆からアモールの話を聞く度に、あたしに似ているイメージがあったから」
「多分、外界への憧れはあなた以上よ」
おばさんはくすくすと母さんの顔を見て笑ったが、母さんは再び表情を硬くした。
「でも……そうしたら姉様は? それともティアラに継がせることも考えているの?」
──えっ!?
僕は思わず声を上げそうになって、慌てて口を押さえた。
「そうね……ティアラに関しては、あの子次第というところもあるわ……それより『私は?』ってどういう意味?」
ティアにはシレーネを継ぐ可能性がある……その言葉には、少し胸が締めつけられるような気分がした。
「姉様だって……アネモス様の許へ行っても良いと思うのよ」
「ルーラ……」
この会話のやり取りは、カミルおばさんだけでなく僕にもかなり意外だった。母さんはおばさんに人間になることを勧めているのか?
「何を……言っているの? アネモスはギリシャ王の落とし種、ややもすれば次期王に……そんな人と一緒になれる訳がないでしょう」
常に冷静なおばさんが珍しく動揺していた。反面母さんは落ち着いた口調で二の句を継いだ。
「それは姉様が作り上げた口実でしょう? あたしの二の舞を演じないために、そんな高貴な方を選んだ……でも知っているのよ、姉様が今でも時々舟遊びをするアネモス様に逢いに行っているのを」
それからしばらくカミルおばさんは、母さんを見つめたまま言葉を発しなかった。発せずにいたのか──それとも?
「ルーラ……ありがとう」
それでもいつしか表情も和らいで、母さんに微笑みかけ、遠い海の先を見つめた。
「姉様……?」
「アネモスと出逢った時に決めたのよ。私は人間にならないと。少なくとも……本来神の地である結界を、ネプチューンへお返しするまでは。あなたは自分がシレーネを完遂しなかったことを今でも申し訳なく思っているのね。でもそれは違うわ、ルーラ。ウイスタ様が言い遺したように、あなたがシレーネになったのは間違いだったのよ。それでもあの時あなたがならなければ、その間違いには誰も気付けなかった──あれはウイスタ様が与えて下さったヒントだったのよ。だからあなたは過去を悔やむことはないし、私もアモールを決して束縛したりしない。これでも今の地位を譲ってくれたこと、感謝してるのよ」
「姉様──」
母さんはおばさんの言葉を受け止めて感激し、その腕の中へ抱きついた。幾つになっても甘えん坊の『妹ルーラ』なのだと改めて思う。そしてティアもモカにとっては、可愛い『妹ティア』なのだろうか?
「話を戻していいかしら? ティアラのことなのだけど……」
僕はその言葉に、再び両耳へ神経を集中させた。
「あの子最近様子がおかしいのよ……先日ジョエルが来た時も、アメルに挨拶したいから外へ出させてくれって」
やはりあの時のことは、おばさんも気にしていたようだ。他にも気になる言動や行動があるのかもしれない。
「ええ……ジョエル本人からは聞いていないけれど、アメルからは聞いたわ。彼はティアラが外界へ興味を持ち始めたんじゃないかと思ったようだけど、そうじゃないの?」
「それが少し違う気がするのよねぇ……もしそうならアモールのように、外界の様子を知りたがると思うのだけど……」
ということは、それを知るおばさんや侍女達にそういった質問はしていないということか。確かに僕自身も余り尋ねられたことはないと思う。
「アモールは外界のことを知る度に楽しみが増えている様子だけど、何て言うのかしら……ティアラの場合は不安が増していくような、ね……」
「アモールが自由に外界へ出ていくようになると、ティアラは置いてけぼり……それが寂しいのかしらね」
僕も一度は導き出した見解。それも一理はある。けれどやはりそれだけではない気がする。
「そうかもしれないわね……あ、それと以前訊かれていたお祝いね……」
確実な答えが現れないまま、話はモカの成人祝いへ移行してしまった。途中で父さんも加わり、もはやこれ以上の収穫はなさそうだ。しかし──。
「了解。当日ジョエルに持たせるから、楽しみにしていてね」
母さんはモカの成人祝いを決めたようで、僕が届けるということでまとまったらしい。そこでカミルおばさんも二人へ意外な質問をした。
「そのジョエルだけど……彼ももう十七歳よ。今後どうするつもりでいるの?」
思いがけず話題の中心が『僕』になったので、引き下がろうとした足元を止めた。──父さん達が考える、僕の今後とは──?
「何も……ないわ。あの子が行きたい道を真っ直ぐに行ってくれればと思っているだけ」
と母さんは父さんの顔を見上げ、父さんもまたそれに呼応するかのように見下ろして、おばさんの方へ視線を戻し、二人頷いてみせた。
何も……ない? ただひたすらに自分の道を進めと?
随分僕を買い被ってくれたものだ。そしてそれは少しプレッシャーでもある。
「そうね……私ももう少し、あの子達を黙って見守ってあげないといけないわね」
おばさんは澱が取れたようなすっきりした表情になって、二人へにっこりと笑いかけた。
そして僕は──。
僕もまた迷いが消えたような晴れやかな気持ちに包まれていた。
ジョル爺・父さん・母さん……周囲の考える僕への想いを知って、半分固まっていた未来への針路が更に形作られようとしていた。
今が、その時だ。
皆の想いが、それを示していた。僕も行こう。
僕の夢が待つ、あの麗しき『彼の地』へ──。
結界をネプチューンにお返ししなければならない理由は、前作「Sapphire Lagoon」をお読みになるか、もしくはこちらの後半をお待ちください。