[将来] -1-*
「ふぅーう! ただいま、父さんっ! ……父さん!?」
息が切れそうになりながら海面に顔を出し、船の側面に寄り添う。船上へ大声を張り上げ、しばらくして父さんが顔を出した。
「ごめん! あんまり気持ちのいい天気だから、うたた寝してしまった。今ロープを垂らすよ」
ややあってロープが下げられたので自力で登る。足を着けた先には甲板で眠っていたのだろう、血色の良い顔をした父さんが微笑んでいた。
「カミルおばさんには会えたかい? 相変わらず忙しいんだろう?」
「うん。会えたけど何やら話し合いの途中だったよ。母さんの料理をとても喜んでいた。次はゆっくり会いたいって。あとはマルタ達にも会えたよ。それにモカ……アモールとティアラにも」
僕はロープを片付けて同じように甲板に座り込み、手渡されたタオルで父さん譲りの淡い茶色の髪を無造作に拭った。今日は休みなので船には誰もいない。
「そうか。そう言えばアモールももうすぐ十六歳だな。赤子の時にしか会っていないから、もうどんな容姿かも分からないが……同じ金髪の人魚が外界へ出てくるとなれば、母さんも嬉しいだろう。彼女もきっと魔法を習いにサファイア・ラグーンへ行くのだろうね」
「アモールとはゆっくり話せなかったので訊けなかったけれど、きっとそうだね。それよりティアラがやたら父さんに挨拶したいって、おばさんにせがんでいたよ」
「ティアラが……? 彼女は未だ十四歳だろう? まぁそろそろ外の世界に興味を持ち始めたのかもしれないね」
と父さんはそこまで話して立ち上がり、船を我が家へ向けて動かし出した。
──外界への興味……本当にそうなのだろうか?
ティアのあの切なそうな表情は、他のものを語っているような雰囲気があった。何かを伝えたいような、それでいてためらってしまうような。
「ティアラはしばらく外へ出てこられないのだから、僕みたいに父さん達が行ってあげればいいのに。ルラの力があれば、僕が二人同時にだって……」
「人間になった時、母さんが決めたんだよ」
「母さんが?」
滑るように走る船の進行方向を向いて、父さんは心地良さそうに風を受けていた。
「十八年暮らした世界……皆に勧められたからこそ人間になる道を選んだが、どちらにも行き来する自由なんて、皆に申し訳ないと思ったのだろう。それでもシレーネになったカミル義姉さんとは外界で会える訳だし、赤子の内は二人の姪達も連れてきてくれた。魔法を会得した侍女達も次第に結界の外へ出る自由を得て、会えるようになったしね。でも人魚は陸上では暮らせない……だから両方を満喫するなんて欲張りと自分を戒めたんだよ。それでも母さんは今の状態に満足しているんだ」
「ふうん……」
僕は分かったような分からないような生返事をして、同じ方向を見た。
長い寿命と引き換えに得た人間界での生活。海の底の平穏な人魚界。どちらが幸せなんだろう。カミルおばさんも一度は人間と恋をしてモカを産んだ。そんなカミルおばさんは? モカは? ……ティアは?
そして、僕は?
僕は……人間? 人間の形をした人魚?
何処でどうやって生きることが望ましいのだろう。
人魚に恋をした『僕』は──。
◇ ◇ ◇
「あらっ、おかえりなさい、二人共! ちょうど良かったわ。ジョエル、皆に挨拶してちょうだい」
丘を登って我が家の門扉を開いたところで、戸口から何やら抱えて出てきた母さんに声を掛けられた。人間の年齢にしては若く可愛いらしい母さんだが、さすがにカミルおばさんには負ける。とは言え、母さんが現れた途端、花が咲いたように場が明るくなるのは僕の自慢でもある。
父さんは母さんの大荷物の手伝いを始めてしまったので、僕は独り家の中へ入ると、リビングに見慣れたご婦人方が座っていた。
「ご無沙汰しております、皆さ……ん? ト、トロール!?」
艶やかに腕を回して挨拶してやろうと意気込んだが、視界の端に陸上では初めて見る姿を見つけたので、思わず叫んでしまった。
「んふふ~。ジョエル、お久し振り」
彼女は満面の笑みで答えるや、長めのスカートの裾を少し持ち上げて、そのごつい脚を見せてくれた。確かに……東の館には姿が見えないな、とは思ったが、まさかこんな所にいたとは──。
「やぁ、トロール。随分見違えたね。アーラ様はお元気だったかい?」
一仕事終えてやって来た父さんに振り向いたその後ろで、母さんがニヤニヤと、仰天して口の塞がらない僕を見つめていた。
「トっ、トロールっ! え……あの、人間になったってことは、人間の誰かと結婚するってこと!? いや……えーっ?」
「まーっ、相変わらず失礼だね、ジョエル! あたいだって恋の一つや二つ……ねぇ、ルーラ?」
トロールはその大柄な身体には似合わない、やたらと可愛らしい服を揺らして、母さんにウィンクしてみせた。
「そうよぉ、ジョエル、謝りなさい。男勝りなトロールだって……ねぇ……笑っちゃうけどっ」
と、母さんまで笑い出してしまったので、トロールは横目で僕達を睨みつけ、
「サファイア・ラグーンもアーラ様も、特にお変わりなかったですよ。むしろ魔法の力は以前よりも冴え渡っているように思われます」
気を取り直して、侍女口調で父さんに返答をした。
トロールは人魚時代の母さんの幼馴染みだ。がたいが良く一見男性のようなところが親しみやすくて、子供の頃から良く遊んでもらった。そんなトロールが人間と恋に落ち、シレーネの侍女を辞め、地中海の西の端──サファイア・ラグーンに住む大魔法使いアーラ様の許で、寿命と引き換えに人間の身体を手に入れたというのだから驚きである。
「トロールのお相手はどんな人なの? 家は此処から近い?」
僕は興奮してテーブルに手を突き、質問をした。
「同じイタリアだけど、残念ながら島は違うんだ。シチリアでレモンを栽培する農夫だよ。まぁ、“ルーラ先生”にご教授頂いて、一週間此処で『修行』を終えたら、港へ迎えに来てくれるから楽しみにしておいで」
少し照れたようにこれからのことを説明したトロールは、今までに見せたことのない乙女の一面を表して、僕にはにかんでみせた。
よっぽどお相手に惚れ込んでいるのだろう。もちろんそうでなければ半分以上の寿命を捨て切れる訳もないし、結界の家族や友人と別れられる筈もない──此処にいる他のご婦人方と同様に──。
実は母さんがアーラ様の力で人間の身体を手に入れた時、母さんには『人間の要素が強い』からこそ成せた、と誰もが信じて疑わなかった。しかし先代のシレーネ──アーラ様の妹であるウイスタ様のウィズの石を母さんから受け取ったアーラ様は、更なる魔法の力を得て、普通の人魚すらも人間に変えることに成功したのだ。こうしてこの二十年、母さんのような元人魚が幾人も誕生してきた。
が、それはあくまでも人魚の成人である十六歳を過ぎて、結界の外へ出てきた人魚、しかも人間と恋をして人間として生きたいと願った者にのみ与えられる権利だ。結界の中の家族や、結界の中で産んだ娘──人魚の子供は通常女子の人魚となる──は連れていけない。それでも人間界で人間として産んだ娘は、確実に人間体で生まれた──僕のように。
「さ……ジョエル、皆様お帰りよ。お別れを言って、先刻のお土産を一つずつ渡してね」
僕がそんなことを考えている内に、トロールを除いた五人のご婦人方は席を立って、父さん達に別れの挨拶をしていた。お土産? ああ、あの母さんが運んでいた大荷物のことか。僕はエントランスに先回りをし、カミルおばさんにしたように丁寧な礼を尽くして、一人一人に荷を手渡した。
「その気障な仕草は一体誰に似たんだろうねぇ、まったく……と、今晩からルーラ先生に夕食の作り方を教えていただかなくっちゃ」
トロールは隣で皆を見送った後、いつものように呆れ顔で僕を一瞥した。が、リミットは一週間しかないことを思い出して、キッチンに向かった母さんの許へすっ飛んでいった。僕は僕で、カミルおばさんにも同じようなことを言われたな、と苦笑いをしながらその後を追った。
我が家は万事この調子だ。両親が人間界に生まれ変わった後輩人魚達の面倒を看るようになって、もう十五年にはなる。だから僕が生まれてこの方、この狭い我が家から笑顔が絶えることはなかった。そして時々訪ねてくれるかつての『生徒達』の姿を見れば判る──今も皆、愛に溢れていることを。
そんな後輩達と、三年前に天国へ旅立った父さんの母ルイーザのお陰で、母さんの料理の腕は格段に上がったと父さんがこっそり教えてくれたことがあるが、今の手土産からも焼きたての美味しそうなクッキーの匂いがしていたから、それは真実と云えるだろう。そしてそんな母さんの腕前は後輩達に引き継がれ、幾つもの温かな家庭が生まれていること、これも間違いはない。
「ねぇ、ジョエル。結界の中はどうだった?」
結界へ行ってきた僕に必ず投げかけられる質問が、今回は同時に二人の声でやって来たので、思わず驚いて振り向いた──そう、キッチンで調理に励む母さんとトロール。
「えと……まぁ、いつも通りアモールとティアラに会ったよ。それからカミルおばさんやマルタ達にも会えた。プレゼントも喜んでくれたよ」
そう言ってカウンターの隅に置かれたクッキーに手を伸ばしたが、すかさずトロールの分厚い掌ではたかれてしまった。
「いったぁ~! 焼きたてが一番なんだから、一枚くらいいいじゃないっ」
「今食べたら、夕食がまずくなっちまうよっ……じゃなかった、まずくなりますよ、お坊ちゃま。しかし今の言い方、まるで昔のルーラにそっくりだね」
くすくすくす。笑い出して背中側の母さんに目を向けるトロール。母さんはそんなトロールと僕に憮然とした表情を見せたが、思い直したように、
「ジョエル、姉様は何か言ってなかった?」
と、少し釈然としない顔もしてみせた。
「あ、今度ゆっくり船の上か海岸で会いましょうって言ってたよ」
「そう……」
母さんは作業の手を止めて、タオルで拭いながらリビングの父さんの許へ向かった。
「アメル……三・四日したら、また船を出せる?」
「ん? ああ、次の出航は四日後だからね。三日後なら……義姉さんと話すの?」
「ええ。アモールのお祝いもまもなくだし。それに……」
「……ルーラ?」
「あ、ううん。後で話すわ」
そう言葉を濁して話を止めてしまったのは、トロールか僕の所為だったのだろうか。キッチンに戻った母さんに、しばらくいつもの笑顔はなかった──。
前作にてアメルの名前の由来をご説明させていただいた事がございましたが、今回もジョエルの名についてお話したいと思います。
元々ルーラの名も父ジョルジョと母テラの一字から付けられ、アモールもアネモスとカミルの名を貰っていることから分かります通り、ジョエルもまた、ルーラやアメルから派生させたいと思っておりました。それでいてイタリア人の名前・・・きっとオ行で終わる名しかないだろうなぁと思いつつネット検索したところ、ありました~ジョエル! アメル(これは愛称で、本名はアメリゴですが(笑))にもルーラにもちなみ、更にアメルの尊敬する船長で義父のジョルジョからも頂いたような良い名前ではないですか♪ ちなみに通常想像されるJoelではなく、Gioeleというところがイタリア人らしいですね☆ こうして即決となりましたジョエルでしたが、その前に何処からともなく湧き上がった「ジル」という名が使いたくて、愛称として使うこととなりました。現状モカしか呼んであげておりませんけどね(苦笑)。
特に作中での説明はございませんが、外界への許可を得られる成人式を控えたアモールが、男性の名では可哀想だと「モカ」という愛称をつけたのはジョエルです。彼女もそれを気に入り、更に愛称で呼び合うことを気に入ったのでしょう、モカもジョエルをジルと呼ぶようになったというのが裏話でございます*
本名と愛称が錯綜して読みづらい事この上ありませんが(汗)、思春期特有の遊び心を表現したかった作者のわがままとお思いください~今後も懲りずにお付き合いをお願い致します!